ふふふ、と笑う大家さんの瞼は腫れていた。自前の杖を持って、外へ出た。アパートの目の前まで来ていた辛城が大家さんをじっと見つめる。
「玲良ちゃん、おかえりなさい」
『ただいま。大家さん。ご迷惑をおかけしてごめんなさい』
「あら。あたしがいつ、迷惑だなんて言ったかしら? よく頑張ったね」
皺々の手で、辛城の頬を包んだ。声は震えていた。大家さんは病院にお見舞いに行くことも難しかったので、二人が会うのは八ヶ月ぶりにもなる。
実の孫の様に、実の祖母の様に見えた。辛城は目を潤ませたが、流れることはなかった。
「さあ、お部屋の準備はしてあるわよ。暑いから早く入りましょう」
俺は大家さんの家に置かせてもらっていた簡易スロープをアパート入り口の段差に掛ける。運転手さんが登らせてくれて、平なところでブレーキをかけた。重量のあるスロープは再度取り外し、一番近い大家さんの部屋へ戻す。運転手さんはそこで役目を終えて帰っていく。大家さんも、「何かあれば言ってね」と言って帰っていった。
一階の一番の奥の部屋。辛城に家の鍵を借りて、俺が開けた。
「おかえり、辛城」
『ただいま、私たちのおうち』
八か月ぶりに自宅へ帰ってきた。懐かしい香りが、なんとなく違う物にも感じる。
『私としては最近までこの家にいたっていう感覚なんだけど、違う場所みたい』
自分の家のはずなのに。眠っていた辛城にとっては、体感で過ぎた時間と、現実で過ぎ去った時間は大きく矛盾がある。多少なりとも病院で起きて過ごし、冬ではなくて夏だとか、新年度になっているとか、そういう話はあった。驚いてはいたと思う。自分の家に来て、その驚きが再来、と言うところだろうか。
「大家さんが掃除してくれたよ」
俺が車椅子が入れるようにスペースを確保したのと、通路にシートをひいた。大家さんはすでに捨てられていたゴミ関係の仕分けと冷蔵庫の整理。それに加えて拭き掃除もしてくれたそうだ。もちろん、帰ることが決まってから、辛城に断りを入れている。あくまで彼女のものは極力触れないように。最低限の整理で。そうすることで、彼女の記憶にある家に帰ってきたと、より多くの実感を持ってほしかった。
でも。記憶の中の家も、それほどに薄まってしまっているのか。唇を噛んで、すぐに離した。帰ってきたのに玄関で時間を潰してしまってはもったいない。玄関から車椅子が室内に入る。シートをひいているから外を走ったタイヤでも室内を汚さない。ベッドまでの道を行く。
辛城のベッドは介護用のベッドに入れ替えられている。頭や足の角度は変えられた方が良いだろうという二宮さんの助言だ。その方が疲れにくく、起きたまま過ごせて、疲れてもすぐ眠れると。室内はあらかじめ冷やしておいた。今はスマホでエアコンを操作できるという便利な世の中だ。
「ベッド行く? このままにする?」
ベッドを見つめて……悩んでる。
『ベッド』
答えがあったのは七秒後。
二宮さんから教わった介助方法で、軽すぎる辛城をベッドに座らせる。辛城は背もたれがないと座っていられないので、片手で支えながら車椅子をずらし、ベッドの上に辛城を寝かせる。腰から下に布団をかけて、体を冷やさないようにした。
上半身の部分をリモコン操作で上げて、ソファーに座っている程度の背もたれにした。車椅子の時と同じよう、太腿の上にクッションを置き、手元を添え、スマホリングをスタンドにしてスマホを置いた。
『72点』
「厳しいなぁ」
介助の点数をつけられるのは練習の時からだ。身体の遣い方と言うのがなかなか難しい。介護士さんやリハビリの人たちは軽々とやっていたけれど、やはりプロの業なんだなと身をもって知った。
「辛城、キッチン借りていい?」
『うん、いいよ』
「久しぶりにココア飲もう」
あくまで普通に過ごす。それが俺の役目。
辛城の家に来たらココアを飲む。それは勉強会や、最後だった日を思い出す。その日からの続きだよ。
お湯を沸かす。二つのマグカップにココアの粉を入れる。湧いたお湯を少量注いで、粉を練る。水気が無くなったらお湯を追加して、その繰り返し。甘い香りが部屋を満たしてくる。マグカップの半分までお湯が溜まったら氷を入れて冷ます。冷えすぎないように最後にまたお湯を入れる。人肌程度のココアの完成。
両手にマグカップを持って、勉強に使っていたテーブルに置いて座った。片方のマグカップにはティースプーンが入っている。それは辛城用。
「俺が作るのって実は初めて?」
『そうだったかも』
作り方は辛城に教わった。氷を入れて冷ましたのは、言語聴覚士という職業の人から指導を受けた。
「はい」
恥ずかしいので「あーん」は言わなかった。辛城は素直に口を開く。俺はココアを掬わないようにスプーンを取り、辛城の口の中に入れた。飴を舐めるようにスプーンを咥える。
『うん、美味しいよ』
「よかった」
『もっと欲しい』
「どんどんどうぞ」
半年以上口から食べることがなかった。それゆえに、飲み込むための力が少なくなっている辛城。言語聴覚士さんから、サラサラな水分を飲むのは誤嚥性肺炎を発症するリスクがあると言われた。とろみをつけるのを推奨されたが、ココアに関しては辛城が拒否した。だから、せめてもの手段として、味見程度の量ならばとなった。そのための常温。
スプーンをココアと辛城で何往復し、スマホを叩く音がした。
「玲良ちゃん、おかえりなさい」
『ただいま。大家さん。ご迷惑をおかけしてごめんなさい』
「あら。あたしがいつ、迷惑だなんて言ったかしら? よく頑張ったね」
皺々の手で、辛城の頬を包んだ。声は震えていた。大家さんは病院にお見舞いに行くことも難しかったので、二人が会うのは八ヶ月ぶりにもなる。
実の孫の様に、実の祖母の様に見えた。辛城は目を潤ませたが、流れることはなかった。
「さあ、お部屋の準備はしてあるわよ。暑いから早く入りましょう」
俺は大家さんの家に置かせてもらっていた簡易スロープをアパート入り口の段差に掛ける。運転手さんが登らせてくれて、平なところでブレーキをかけた。重量のあるスロープは再度取り外し、一番近い大家さんの部屋へ戻す。運転手さんはそこで役目を終えて帰っていく。大家さんも、「何かあれば言ってね」と言って帰っていった。
一階の一番の奥の部屋。辛城に家の鍵を借りて、俺が開けた。
「おかえり、辛城」
『ただいま、私たちのおうち』
八か月ぶりに自宅へ帰ってきた。懐かしい香りが、なんとなく違う物にも感じる。
『私としては最近までこの家にいたっていう感覚なんだけど、違う場所みたい』
自分の家のはずなのに。眠っていた辛城にとっては、体感で過ぎた時間と、現実で過ぎ去った時間は大きく矛盾がある。多少なりとも病院で起きて過ごし、冬ではなくて夏だとか、新年度になっているとか、そういう話はあった。驚いてはいたと思う。自分の家に来て、その驚きが再来、と言うところだろうか。
「大家さんが掃除してくれたよ」
俺が車椅子が入れるようにスペースを確保したのと、通路にシートをひいた。大家さんはすでに捨てられていたゴミ関係の仕分けと冷蔵庫の整理。それに加えて拭き掃除もしてくれたそうだ。もちろん、帰ることが決まってから、辛城に断りを入れている。あくまで彼女のものは極力触れないように。最低限の整理で。そうすることで、彼女の記憶にある家に帰ってきたと、より多くの実感を持ってほしかった。
でも。記憶の中の家も、それほどに薄まってしまっているのか。唇を噛んで、すぐに離した。帰ってきたのに玄関で時間を潰してしまってはもったいない。玄関から車椅子が室内に入る。シートをひいているから外を走ったタイヤでも室内を汚さない。ベッドまでの道を行く。
辛城のベッドは介護用のベッドに入れ替えられている。頭や足の角度は変えられた方が良いだろうという二宮さんの助言だ。その方が疲れにくく、起きたまま過ごせて、疲れてもすぐ眠れると。室内はあらかじめ冷やしておいた。今はスマホでエアコンを操作できるという便利な世の中だ。
「ベッド行く? このままにする?」
ベッドを見つめて……悩んでる。
『ベッド』
答えがあったのは七秒後。
二宮さんから教わった介助方法で、軽すぎる辛城をベッドに座らせる。辛城は背もたれがないと座っていられないので、片手で支えながら車椅子をずらし、ベッドの上に辛城を寝かせる。腰から下に布団をかけて、体を冷やさないようにした。
上半身の部分をリモコン操作で上げて、ソファーに座っている程度の背もたれにした。車椅子の時と同じよう、太腿の上にクッションを置き、手元を添え、スマホリングをスタンドにしてスマホを置いた。
『72点』
「厳しいなぁ」
介助の点数をつけられるのは練習の時からだ。身体の遣い方と言うのがなかなか難しい。介護士さんやリハビリの人たちは軽々とやっていたけれど、やはりプロの業なんだなと身をもって知った。
「辛城、キッチン借りていい?」
『うん、いいよ』
「久しぶりにココア飲もう」
あくまで普通に過ごす。それが俺の役目。
辛城の家に来たらココアを飲む。それは勉強会や、最後だった日を思い出す。その日からの続きだよ。
お湯を沸かす。二つのマグカップにココアの粉を入れる。湧いたお湯を少量注いで、粉を練る。水気が無くなったらお湯を追加して、その繰り返し。甘い香りが部屋を満たしてくる。マグカップの半分までお湯が溜まったら氷を入れて冷ます。冷えすぎないように最後にまたお湯を入れる。人肌程度のココアの完成。
両手にマグカップを持って、勉強に使っていたテーブルに置いて座った。片方のマグカップにはティースプーンが入っている。それは辛城用。
「俺が作るのって実は初めて?」
『そうだったかも』
作り方は辛城に教わった。氷を入れて冷ましたのは、言語聴覚士という職業の人から指導を受けた。
「はい」
恥ずかしいので「あーん」は言わなかった。辛城は素直に口を開く。俺はココアを掬わないようにスプーンを取り、辛城の口の中に入れた。飴を舐めるようにスプーンを咥える。
『うん、美味しいよ』
「よかった」
『もっと欲しい』
「どんどんどうぞ」
半年以上口から食べることがなかった。それゆえに、飲み込むための力が少なくなっている辛城。言語聴覚士さんから、サラサラな水分を飲むのは誤嚥性肺炎を発症するリスクがあると言われた。とろみをつけるのを推奨されたが、ココアに関しては辛城が拒否した。だから、せめてもの手段として、味見程度の量ならばとなった。そのための常温。
スプーンをココアと辛城で何往復し、スマホを叩く音がした。