九月に入って少し経った。まだまだ暑い日は続く。たまに「今日はそうでもないな」と思ってもやっぱり暑い、という日がある。残暑というのは程遠いだろう。
西日がガラス戸から差し込む、そんな中。俺と辛城は西日を背にしている。正面は、先生と、看護師さん等々。辛城に関わった十何人の人達だ。今日は、辛城の一時退院の日。
「何かあったらすぐ連絡をくださいね。なにか口に入れる時は十分に気をつけてください」
「わかりました」
先生は俺に向かって手を差し出す。担当患者の今後を任された。数日かけて固めた気持ちを表すように手を握る。
看護師さんたちは辛城に対して順番に声をかけている。交流自体は少なかっただろうに。口には出さないが、同情もあると思う。それでも相手を想っているのは本物だろう。療養病棟で、どれだけの人をこうして見送ってきたのだろうか。そして、どれだけの人が帰ってきたのだろうか。帰ってこれればいいのか、悪いのかは、その人次第なんだろうけれど。
「あ、タクシーが来ましたよ」
『みなさん、お世話になりました』
「お世話になりました」
「お気をつけて」
高く手を上げる人たちに一礼して、辛城の車椅子のハンドルを握る。辛城に声をかけてガラス戸を出た。
辛城からしたら今年初めての夏。髪を染めた時のことはやはり覚えていないから、日差しを浴びるのも久方ぶりだろう。
病院外の屋根の下で、車椅子対応の車にトランクからスロープで乗り込む。俺は後部座席に乗った。特別使用車なので、辛城と隣り合わせに座れる。運転手さんが車椅子のシートベルトを装着して、運転席に座った。発車の合図のあと、ゆっくりと動き出す。
辛城は俺ではなく、窓の外を見ていた。乗っている人に配慮されたこの車は、車窓の景色をゆっくりと流してくれる。それを見ている辛城を見て、またふと懐かしく思う。
―― 辛城とタクシーに乗るのは……三度目かな。
最初は、名前を呼んだ時。二回目は、俺が家出した時。そして三度目の今。
まさか車椅子に乗っているとは思わなかったけれど、それでも、こうしてまた一緒に帰れる日が来て素直に嬉しく思う。
……俺は今、どんな顔をしているだろうか。辛城とは反対に位置する窓を見た。景色ではなく、俺を。だけど明るすぎる外の光で俺の顔は見えない。わからないのでは仕方がないと、諦めて前を向いた。
トントン、と音がする。
「どした?」
『かいものする?』
「大丈夫。昨日してあるよ。チョコとココアも買ってある」
『やった』
辛城は用があるとき、まずはスマホの画面を爪で叩く。そのまま音声を鳴らしても、と言ったが、驚かせては悪いから、という気遣いだった。まるでドアをノックしてから声を発するように、決まってその手順をとる。本人がそうしたいならこちらに何も不都合はない。指を動かす体力も気になるが、任せることになった。
辛城の車椅子は二宮さんが少し改造してくれた。改造といっても大掛かりなものでは無い。辛城は両膝の上にクッションを置いて、腕をそこにのせることが多い。その状態でスマホが操作しやすいように器具を取り付けてくれたのだ。腕を動かさずとも直ぐにスマホをタップできるように。コミュニケーションのために体力を使えるように。これもリハビリの仕事です、と鼻を高くしていた。スマホだと画面が小さいように思ったが、画面が大きい方が腕を動かさないと端の文字を入力できないんだそう。
人それぞれの状態や機能に合わせて改良していくのだとも言っていた。辛城はその機能を大いに使って、俺やみんなと話をしていた。表情には出にくいけど言葉の端に嬉しそうな雰囲気を感じる。
辛城にとってそれが普通である、なんてことはもちろんない。昨日までもリハビリを受けていたし、未来の話もする。彼女の目標はまだわからないけど、それは継続しているのではないかと思う。だから、一時退院。これから『普通』を取り戻すための。病院に戻ることにはなるけれど、それも『普通』への第一歩のはずだ。
赤信号で止まっていた車が、再度ゆっくり走り出す。周辺の車がどんどん追い抜いていく。色とりどりの車も、バイクも、その奥に見える自転車も、人も。みんな自分のペースで移動して、曲がって、止まって、進む。それは人生を表している様にも思う。一生懸命移動していても、いずれ、動けなくなる時もある。
「そろそろ到着します」
運転手さんが声をかけてくれた。思考に没頭していたので気付かなかったが、確かにもう見覚えのある景色だ。駅と、川と、木々。夏と冬でどことなく印象が変わる。辛城はどう思うのだろうか。俺よりも何度もこの景色を見ていたはずだ。横を向けば……無表情。表情がわかりにくくなったのはしょうがない。辛城が文字で伝えてくれないと、多少の変化を見つけるか、なんとなくの雰囲気で察するしかない。レベルの高いポーカーフェイス。機微を見落としたくない。
「ついたよ、辛城」
うん、と、言った気がした。
車はアパートの目の前に止まる。運転手さんが降りて、辛城を下す準備をする。俺はアパート内の、大家さんの自宅のインターホンを鳴らす。二秒で鍵が開いた。
「早いですね」
「連絡もらってたから、玄関で待ってたのよ」
西日がガラス戸から差し込む、そんな中。俺と辛城は西日を背にしている。正面は、先生と、看護師さん等々。辛城に関わった十何人の人達だ。今日は、辛城の一時退院の日。
「何かあったらすぐ連絡をくださいね。なにか口に入れる時は十分に気をつけてください」
「わかりました」
先生は俺に向かって手を差し出す。担当患者の今後を任された。数日かけて固めた気持ちを表すように手を握る。
看護師さんたちは辛城に対して順番に声をかけている。交流自体は少なかっただろうに。口には出さないが、同情もあると思う。それでも相手を想っているのは本物だろう。療養病棟で、どれだけの人をこうして見送ってきたのだろうか。そして、どれだけの人が帰ってきたのだろうか。帰ってこれればいいのか、悪いのかは、その人次第なんだろうけれど。
「あ、タクシーが来ましたよ」
『みなさん、お世話になりました』
「お世話になりました」
「お気をつけて」
高く手を上げる人たちに一礼して、辛城の車椅子のハンドルを握る。辛城に声をかけてガラス戸を出た。
辛城からしたら今年初めての夏。髪を染めた時のことはやはり覚えていないから、日差しを浴びるのも久方ぶりだろう。
病院外の屋根の下で、車椅子対応の車にトランクからスロープで乗り込む。俺は後部座席に乗った。特別使用車なので、辛城と隣り合わせに座れる。運転手さんが車椅子のシートベルトを装着して、運転席に座った。発車の合図のあと、ゆっくりと動き出す。
辛城は俺ではなく、窓の外を見ていた。乗っている人に配慮されたこの車は、車窓の景色をゆっくりと流してくれる。それを見ている辛城を見て、またふと懐かしく思う。
―― 辛城とタクシーに乗るのは……三度目かな。
最初は、名前を呼んだ時。二回目は、俺が家出した時。そして三度目の今。
まさか車椅子に乗っているとは思わなかったけれど、それでも、こうしてまた一緒に帰れる日が来て素直に嬉しく思う。
……俺は今、どんな顔をしているだろうか。辛城とは反対に位置する窓を見た。景色ではなく、俺を。だけど明るすぎる外の光で俺の顔は見えない。わからないのでは仕方がないと、諦めて前を向いた。
トントン、と音がする。
「どした?」
『かいものする?』
「大丈夫。昨日してあるよ。チョコとココアも買ってある」
『やった』
辛城は用があるとき、まずはスマホの画面を爪で叩く。そのまま音声を鳴らしても、と言ったが、驚かせては悪いから、という気遣いだった。まるでドアをノックしてから声を発するように、決まってその手順をとる。本人がそうしたいならこちらに何も不都合はない。指を動かす体力も気になるが、任せることになった。
辛城の車椅子は二宮さんが少し改造してくれた。改造といっても大掛かりなものでは無い。辛城は両膝の上にクッションを置いて、腕をそこにのせることが多い。その状態でスマホが操作しやすいように器具を取り付けてくれたのだ。腕を動かさずとも直ぐにスマホをタップできるように。コミュニケーションのために体力を使えるように。これもリハビリの仕事です、と鼻を高くしていた。スマホだと画面が小さいように思ったが、画面が大きい方が腕を動かさないと端の文字を入力できないんだそう。
人それぞれの状態や機能に合わせて改良していくのだとも言っていた。辛城はその機能を大いに使って、俺やみんなと話をしていた。表情には出にくいけど言葉の端に嬉しそうな雰囲気を感じる。
辛城にとってそれが普通である、なんてことはもちろんない。昨日までもリハビリを受けていたし、未来の話もする。彼女の目標はまだわからないけど、それは継続しているのではないかと思う。だから、一時退院。これから『普通』を取り戻すための。病院に戻ることにはなるけれど、それも『普通』への第一歩のはずだ。
赤信号で止まっていた車が、再度ゆっくり走り出す。周辺の車がどんどん追い抜いていく。色とりどりの車も、バイクも、その奥に見える自転車も、人も。みんな自分のペースで移動して、曲がって、止まって、進む。それは人生を表している様にも思う。一生懸命移動していても、いずれ、動けなくなる時もある。
「そろそろ到着します」
運転手さんが声をかけてくれた。思考に没頭していたので気付かなかったが、確かにもう見覚えのある景色だ。駅と、川と、木々。夏と冬でどことなく印象が変わる。辛城はどう思うのだろうか。俺よりも何度もこの景色を見ていたはずだ。横を向けば……無表情。表情がわかりにくくなったのはしょうがない。辛城が文字で伝えてくれないと、多少の変化を見つけるか、なんとなくの雰囲気で察するしかない。レベルの高いポーカーフェイス。機微を見落としたくない。
「ついたよ、辛城」
うん、と、言った気がした。
車はアパートの目の前に止まる。運転手さんが降りて、辛城を下す準備をする。俺はアパート内の、大家さんの自宅のインターホンを鳴らす。二秒で鍵が開いた。
「早いですね」
「連絡もらってたから、玄関で待ってたのよ」