「眠っている間も投薬治療を続けましたが、もともとの内臓機能が年齢の割に落ちていた事もあり、回復が芳しくありませんでした。それでも起きていただいたぶん、今度は口から栄養をとったり、他の治療法も検討していたのですが……予想を超える体力の低下と廃用症候群。そして、今まさに検査していますが、おそらく飲み込む力もないでしょう。食べようとした物が食道ではなく気管に入り、誤嚥性肺炎を起こしてしまう可能性があります。それだけに喉周りの筋力も落ちています。声を発するのも相当に努力しなければならない状況で、実用的ではないでしょう。ただ、腕や指は辛うじてですが、意図して動かすことが出来ます。スマホの文字入力を使ったり、音声にして発することでコミュニケーションがとれます。なので……一石くん。辛城さんがどうしたいと思うか、考えてみて貰えませんか?」


 ―― …………え?


「俺が……ですか?」
「はい。是非、お願いしたいんです」
「いや、俺なんて……辛城のこと、全然知らないし……」
『……一石くん』
「大家さん?」
『あたしからも、お願いします。あの子のお友達として、どうしてあげたら玲良ちゃんが喜ぶのか……』
「俺は……」


 視線が集まる。
 応えられなくて、膝の上の両拳を見つめる。突然の話しすぎて理解が追いついていない。でも、多分、この場からは逃げられない。だからみんな黙っているんだろう。考える時間が無いんだろう、辛城には。
 拳をさらに強く握る。声を出すのが、こんなにも苦しいなんて。息をするだけで精一杯だった今までよりも、ずっと、ずっと苦しい。


「わかりませんよ……俺には」
「一石くん……」
「……嫌そうだったら、すぐにやめてください」


 苦し紛れだった。こう言うしかないじゃないか。言わなきゃ、どうしてたんだろうか。誰かが辛城のためにと、何かやっていたのだろうか。……ああ、それなら、俺がやりたいと思える。


「ありがとう。一石くん」


 再び。いや、今度は短い髪の毛がテーブルに着くほど、頭を下げた。看護師さんも同様に。
 電話口から、啜る音が聞こえる。わかるよ、大家さん。俺も同じ気持ちだ。
 せっかく起きたのに。起きて、普通の生活に戻れる希望が見えたと思ったのに。
 どうして。どうして辛城は、こんなにも普通からかけ離れてしまうのだろう。


 開けっ放しの病室に戻ると、辛城は戻ってきていた。背もたれを少しだけ起こした状態で、窓の方を見ている。俺に気づくことなく。心電モニターが不規則な音を立てる。外は雨で、雨音と不協和音を奏でている。それでも、辛城の横顔はどことなく楽しそう。そんな辛城の横顔をもっと間近で見たいと……思ってしまった。


「辛城」


 視線と、首が俺の方を向いた。少ししか動かない身体。それでも、少しづつ、最大限に俺の方を見てくれる。ベッドに近寄って、椅子に座った。近寄ったら、辛城の目が見れなかった。手元だけを見つめる。手持ち無沙汰な両手を組む。まともではいられない。話もできない。さっきの宣言を取り消して、この場から逃げたい。雨に打たれながら、匂いも足跡も消して、ただ走ってどこか遠くに行ってしまいたい。


『どうしたの?』


 部屋のどこかから、声がした。
 反射的に顔を上げた。辛城の声ではなかった。でも近くから聞こえた。


『どうしたの?』


 もう一度、同じ声で、同じ抑揚で。それは辛城の奥から聞こえた。そちら側に目を向ければ、今度は小さく叩く音が聞こえる。
 辛城の、俺の方と反対の手。その下にはスマホ。


『どうしたの?』


 辛城が、聞いてくれていた。声は出せないだろうに。指を動かすのも大変な労力だろうに。心配されるのは、自分だろうに。込み上げてくる何かを必死に飲み込んだ。


「ごめん、なんでもないよ」


 辛城の体調とこの先ほど、心配することなんてないよ。


「ねぇ、辛城。俺、手紙読んだよ」


 ―― 書いてあったね、やりたいこと。


 眉間に皺を寄せ、さらに顔と視線を逸らした。


「封してなかったし、俺宛だったから読んじゃったよ」


 ―― あれは、目が覚めた時の『準備』なんだろう?


 じろりと眼球だけが動く。半開きの瞼が、俺を睨みつけているようだ。


「……辛城。帰りたい?」


 ―― 俺に伝えてくれたんだよね。頼ってくれたんだよね。


 瞼が開く。顔が俺に向いて、瞳が輝いた。口は力無く開きかけている。


「俺が支えるからさ、帰ろう」


 ―― 思い出が沢山あるよね。俺や、辛城のおばあちゃんや、大家さんとの。


 半開きより少し大きい、黒く淀んで、潤んだ瞳。ようやく見れた。髪が黒くなったから、本当にあの頃に戻ったようだ。


「帰って、普通にのんびり過ごそう」


 ―― チョコと……ココア、確認してみよう。


 目を細めた辛城は、やはり小さいけれど、確かに頷いた。俺は素直な辛城の頭を撫で、病室を出た。ナースステーションで榊原先生に繋いでもらい、帰宅することを伝える。すぐには難しくて、いくつかの準備が必要らしい。けれど必ず間に合わせると言ってくれた。

 俺は、その時に向けて、気持ちを整えることを自分に誓った。


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