「え……?」
おはよう? え? おはようって言った?
辛城の瞳が見える。半開きより少し大きく開いた瞼。奈落の様に吸い込まれそうな黒い瞳が、俺を射抜いている。
「し……ん、じょ……」
何かがこみ上げてきた。そうわかっていながら、彼女の頬に触れた。ほんのりと温かい。生きている。そしてまた口が動いて、何日ぶりかの表情が見れた。
椅子が倒れた。あっけなかった。俺は立ち上がって、ベッドに乗りあがる勢いで、辛城に向かって叫んだ。
「看護師さん!!!!」
人生で一番大きな声が出たと思う。病室の扉は閉められていたけれど、切羽詰まった叫びが通じたのか、バタバタと駆けてくる足音がする。乱雑にドアをノックされ、無遠慮に扉が開かれる。
「失礼します! どうされましたか!」
ぎこちなく扉の方を向けば、三人ほどの看護師さんが険しい表情で入ってきた。顔面が硬直してしまっている俺は、口を金魚の様に開閉するしかできない。
「……? あの?」
「し、しん、じょ」
「辛城さん?」
ひねり出した言葉でなんとか辛城に気付いてもらえた。看護師さんの一人がベッド横まで来て、辛城の顔を覗き込む。眠気眼の辛城が看護師さんの方に目線を向ける。
「辛城さん……?」
恐る恐る、と言った感じに声をかける。微かに口元を動かし、音のない声で「はい」と言った。看護師さんは目を見開いて辛城の手を握る。
「起きたのなら手を握るか、瞬きを三回してください」
辛城が選んだのは、ゆっくり瞬きを三回。看護師さんは目を見開いたまま、すぐさまナースコールを手に取る。スピーカーから別の看護師さんの声がする。
「至急、榊原先生を呼んでください! 辛城 玲良さんが目を覚ましました!」
途端に騒がしくなる病室。もしかしたらナースステーションも騒がしくしているかもしれない。部屋に来た三人は辛城の意識を確認し、バイタルを見たり、聴診器を当てたり。浮いた肋骨が見えて慌てて壁を向いた。ベットの傍から離れ、部屋の隅へと移動する。忙しなく、けれども性格に分担された動きを見て、ここでもその道の専門家たちを目の当たりにする。開け放たれた扉から、小走りの榊原先生が来た。
「失礼します。辛城さん、主治医の榊原です。わかりますか?」
優しく、ゆっくりした口調で尋ねる。けれども辛城は反応を示さず、ただ先生のことを見つめている。
「わからないようですね。では改めて、私はあなたの主治医の榊原と言います。ここはどこかわかりますか?」
―― 「びょ・う・い・ん」。
やはり音がなく、口だけが動く。おそらくそう言ったのを、俺どけじゃなく看護師さんや榊原先生も認めた。
「そうです。ここは病院です。せっかく目を覚ましてくれたので、少しだけ体を起こしてみましょうか」
ベッドのリモコンを操作して、辛城の上半身が持ち上がる。立てた両膝と同じぐらいの角度になって、辛城は視線を動かした。俺と目が合って、見つめてくる。それに気付いた榊原先生が、俺を手招いた。
「彼がわかりますか?」
辛城のすぐ近くに来て、小さく頷いたのが見えた。続いて、口元が動いて、俺の名前を象った。
ついに、ついにこの日が来たんだ。今まで言いたくてしょうがなかった言葉を、満を持して言うことが出来る。
「おはよう。辛城。受験、落ちちゃったよ」
目元だけ少し笑った。彼女の口が動いて、俺にだけ聴こえる声を発する。
―― 「がんばったね」。
結果が出なかった。努力に報いることができなかった。辛城が勉強を教えてくれと言った時、俺は君を利用したんだ。テストの点数が悪くても、受験が失敗に終わっても、言い訳ができた……って。辛城は純粋に頼んでいたのに。純粋に頼んで、申し訳なさそうにしていたのに。俺は君の弱みに付け込んだようなものだった。それでも、俺は満足な結果を残すことができなかった。受かっても満足していたかはわからないけど、俺にはとりあえずのものさえもない。
……けど。がんばった」と、言ってくれたのは……辛城が初めてだよ。
「俺……がんばったかなぁ……」
目頭が熱い。わかってる、俺は泣いている。辛城の骨と皮の手を両手で握った。温かいのは俺の手か、彼女の手か。涙が溢れた。悲しくて。嬉しくて。どうしようもなくて。どうしようも言い表せなくて。顔を伏して泣いた。握った手が頭の上あたりにあって、微かな力が籠められる。まるで頭を撫でられているようだ。恥ずかしいからやめてくれ。そっちがやるなら俺だったやるぞ。
「遅いよ。寝坊助」
片手だけ、辛城の頬に触れた。ひんやりしていた。俺の手が温かかったらしい。頬に沿うように手を当てれば、心なしか重みを感じる。たぶん、辛城が顔を寄せているんだ。動きは少しずつしかないけれど、それでも、ちゃんと起きて、応えてくれている。返事があることが、こんなに嬉しいことだったとは。
「辛城さん、一石くん、少しだけ検査させていただいてもいいですか?」
「あっ」
すぐ後ろにいた榊原先生に声をかけられ、ギャラリー一同が俺たちを見ていた。大衆の面前で何をしていたんだと血が沸騰するのを感じる。
顔に添えた手と握っていた手をゆっくり離す。辛城は俺をじっと見つめていた。
「脳波とMRIを撮らせてください。横になったままで大丈夫です」
先生は辛城に向けて言った。辛城はゆっくり瞬きした後、俺のことを見つめる。
「……検査が終わるまで待ってていい?」
ゆっくり、瞬く。目元だけ、微かに弧を描いた。辛城が何かを訴えているように見えて、でもそれが、俺がしたかったことと一緒だったかはわからない。けど、いていいと言われたのなら、堂々と待って居よう。半年に比べれば数時間なんて一瞬だ。
辛城は新たに運び込まれたストレッチャーに乗り、看護師さんたちを引き攣れて病室を出て行った。部屋の主がいない状態で、俺はただ一人、辛城の帰りを待ち続けた。
・♢・
おはよう? え? おはようって言った?
辛城の瞳が見える。半開きより少し大きく開いた瞼。奈落の様に吸い込まれそうな黒い瞳が、俺を射抜いている。
「し……ん、じょ……」
何かがこみ上げてきた。そうわかっていながら、彼女の頬に触れた。ほんのりと温かい。生きている。そしてまた口が動いて、何日ぶりかの表情が見れた。
椅子が倒れた。あっけなかった。俺は立ち上がって、ベッドに乗りあがる勢いで、辛城に向かって叫んだ。
「看護師さん!!!!」
人生で一番大きな声が出たと思う。病室の扉は閉められていたけれど、切羽詰まった叫びが通じたのか、バタバタと駆けてくる足音がする。乱雑にドアをノックされ、無遠慮に扉が開かれる。
「失礼します! どうされましたか!」
ぎこちなく扉の方を向けば、三人ほどの看護師さんが険しい表情で入ってきた。顔面が硬直してしまっている俺は、口を金魚の様に開閉するしかできない。
「……? あの?」
「し、しん、じょ」
「辛城さん?」
ひねり出した言葉でなんとか辛城に気付いてもらえた。看護師さんの一人がベッド横まで来て、辛城の顔を覗き込む。眠気眼の辛城が看護師さんの方に目線を向ける。
「辛城さん……?」
恐る恐る、と言った感じに声をかける。微かに口元を動かし、音のない声で「はい」と言った。看護師さんは目を見開いて辛城の手を握る。
「起きたのなら手を握るか、瞬きを三回してください」
辛城が選んだのは、ゆっくり瞬きを三回。看護師さんは目を見開いたまま、すぐさまナースコールを手に取る。スピーカーから別の看護師さんの声がする。
「至急、榊原先生を呼んでください! 辛城 玲良さんが目を覚ましました!」
途端に騒がしくなる病室。もしかしたらナースステーションも騒がしくしているかもしれない。部屋に来た三人は辛城の意識を確認し、バイタルを見たり、聴診器を当てたり。浮いた肋骨が見えて慌てて壁を向いた。ベットの傍から離れ、部屋の隅へと移動する。忙しなく、けれども性格に分担された動きを見て、ここでもその道の専門家たちを目の当たりにする。開け放たれた扉から、小走りの榊原先生が来た。
「失礼します。辛城さん、主治医の榊原です。わかりますか?」
優しく、ゆっくりした口調で尋ねる。けれども辛城は反応を示さず、ただ先生のことを見つめている。
「わからないようですね。では改めて、私はあなたの主治医の榊原と言います。ここはどこかわかりますか?」
―― 「びょ・う・い・ん」。
やはり音がなく、口だけが動く。おそらくそう言ったのを、俺どけじゃなく看護師さんや榊原先生も認めた。
「そうです。ここは病院です。せっかく目を覚ましてくれたので、少しだけ体を起こしてみましょうか」
ベッドのリモコンを操作して、辛城の上半身が持ち上がる。立てた両膝と同じぐらいの角度になって、辛城は視線を動かした。俺と目が合って、見つめてくる。それに気付いた榊原先生が、俺を手招いた。
「彼がわかりますか?」
辛城のすぐ近くに来て、小さく頷いたのが見えた。続いて、口元が動いて、俺の名前を象った。
ついに、ついにこの日が来たんだ。今まで言いたくてしょうがなかった言葉を、満を持して言うことが出来る。
「おはよう。辛城。受験、落ちちゃったよ」
目元だけ少し笑った。彼女の口が動いて、俺にだけ聴こえる声を発する。
―― 「がんばったね」。
結果が出なかった。努力に報いることができなかった。辛城が勉強を教えてくれと言った時、俺は君を利用したんだ。テストの点数が悪くても、受験が失敗に終わっても、言い訳ができた……って。辛城は純粋に頼んでいたのに。純粋に頼んで、申し訳なさそうにしていたのに。俺は君の弱みに付け込んだようなものだった。それでも、俺は満足な結果を残すことができなかった。受かっても満足していたかはわからないけど、俺にはとりあえずのものさえもない。
……けど。がんばった」と、言ってくれたのは……辛城が初めてだよ。
「俺……がんばったかなぁ……」
目頭が熱い。わかってる、俺は泣いている。辛城の骨と皮の手を両手で握った。温かいのは俺の手か、彼女の手か。涙が溢れた。悲しくて。嬉しくて。どうしようもなくて。どうしようも言い表せなくて。顔を伏して泣いた。握った手が頭の上あたりにあって、微かな力が籠められる。まるで頭を撫でられているようだ。恥ずかしいからやめてくれ。そっちがやるなら俺だったやるぞ。
「遅いよ。寝坊助」
片手だけ、辛城の頬に触れた。ひんやりしていた。俺の手が温かかったらしい。頬に沿うように手を当てれば、心なしか重みを感じる。たぶん、辛城が顔を寄せているんだ。動きは少しずつしかないけれど、それでも、ちゃんと起きて、応えてくれている。返事があることが、こんなに嬉しいことだったとは。
「辛城さん、一石くん、少しだけ検査させていただいてもいいですか?」
「あっ」
すぐ後ろにいた榊原先生に声をかけられ、ギャラリー一同が俺たちを見ていた。大衆の面前で何をしていたんだと血が沸騰するのを感じる。
顔に添えた手と握っていた手をゆっくり離す。辛城は俺をじっと見つめていた。
「脳波とMRIを撮らせてください。横になったままで大丈夫です」
先生は辛城に向けて言った。辛城はゆっくり瞬きした後、俺のことを見つめる。
「……検査が終わるまで待ってていい?」
ゆっくり、瞬く。目元だけ、微かに弧を描いた。辛城が何かを訴えているように見えて、でもそれが、俺がしたかったことと一緒だったかはわからない。けど、いていいと言われたのなら、堂々と待って居よう。半年に比べれば数時間なんて一瞬だ。
辛城は新たに運び込まれたストレッチャーに乗り、看護師さんたちを引き攣れて病室を出て行った。部屋の主がいない状態で、俺はただ一人、辛城の帰りを待ち続けた。
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