もとから元気な姉だけど、今はなんか、楽しそうに見える。ちょっとうらやましく思った。


「はい、お疲れ様です。じゃあ席に戻ってドライヤーしましょう」


 タオルを頭に巻いた辛城を、看護師さんと二宮さんで車椅子に移乗した。鏡の前に移動して、姉はすぐさまドライヤーをセット。染める時に使ったネックピローをもう一度辛城の首にかけた。


「反対側のドライヤーやって」
「はい」


 ドライヤー片手に、濡れているが明らかに黒く染まった髪に触れた。二つのドライヤーが大きな音を立てながら、辛城の髪を温めていく。肩下よりも長く、胸元まで伸びていた。
 学生時代との違いを感じる。触ったことはもちろんなかったけど、シャンプーとトリートメント仕立ての黒い髪はとてもしなやか。乾いてもストンと落ちる髪。その姿は学生時代を思い出す。でも──


「辛城……」


 初めて会った、夜の辛城だ。


「惚れちゃった?」
「なっ」
「ふふ、綺麗な黒でしょ」
「……うん」


 この中で一番満足そうな姉は、鼻歌を歌い出しそうな様子でハサミを取りだした。手順としてはあとはカットで終わり。俺の助手としての仕事もそろそろ終わる。姉の邪魔にならないよう、少し離れた位置にいる二宮さんたちに並ぶ。


「髪って大事だね」
「え?」
「目や顔の周りにあって、他人から見た視界を大きく占める。だから誰かと相対した時、印象を大きく操作する」
「なるほど……黒は色の中でも主張強いですしね」
「そうだね」


 明るい色なら活発とかオシャレとか、そういう印象を受けるように、黒やグレーも何かしらの印象を与えるのだろう。詳しく調べたことは無いけれど、俺が思う印象はグレーでは高齢者だし、黒なら若いとか健康的。辛城について知っているから印象の大きな変化はなかったけど、今回髪が黒くなって、しっくり来た。


「辛城はやっぱり、黒が似合う」


 隣から聞こえた小さな笑い声。一瞬で顔周りの温度が上がった気がするが気にしないようにする。

 姉の方では、足元に細かい毛が落ちている。髪の長さは変えず、整える程度に切る予定。病院側としては短い方が衛生的なんだそうだが、本人の承諾なしにそこまでは出来ない。切ったら、簡単には元には戻せない。


「仕上げに前髪よ、もう少し頑張ってね」


 耳にかかるほどだった前髪に手を伸ばす。前髪に関しては俺の記憶を頼りにした長さにすることになった。目にかかる長さ。隙間から覗いた黒い瞳が懐かしい。


「はい! お疲れ様! すっごく可愛くなったわよ!」


 エプロンを外し、来た時と同じ姿になった。
 辛城は相変わらず眠ったままだけど、髪の状態が変わるだけで……自然体だった。


「血圧測ります」
「チアノーゼ出てますね。体倒して、足温めて」


 医療者はバタバタし始めた。用意しておいた温タオルや、車椅子の高さを調整する。ここに関しては俺にはできることがなくて、やっぱり邪魔にならないところでソワソワしているしかない。


「血圧はちょっと下がった程度だからおそらく大丈夫ね。二宮さんのほうはどう?」
「血色は良くなってきてます。少し横になってもらってから帰りましょう」


 榊原先生に連絡して対応を聞くまでもないらしい。けれどこの後の予定を伝えておくとのこと。その間はみんなで休憩。姉がスタッフルームからお茶を出してくれて、辛城の様子を見ながら一息ついた。
 辛城の状態が回復したところでタクシーに乗り、姉と別れて病院へ帰宅。

 帰路はこれと言って会話はなかった。というのも、看護師さんがずっと辛城の様子を観察していたから。手首に手を当てて脈を測っていたり、胸元に聴診器をあてていたり、その様子だけで静かにしていなければならない、と思わせる。榊原先生には伝達してあるし、大丈夫だとは思うけど。

 帰ってきた時の時刻は十二時過ぎ。日も高くなり、気温も上がっている。持参して残っていたペットボトルの中身を飲み干した。車の中は涼しいのに変な汗をかく。拭いながら、早く病院についてほしいと願った。体感時間と車のスピードがあわない状況で病院に到着した。
 玄関には出迎えの職員さんたちと榊原先生がいる。

「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」


 看護師さんが応答と何かを先生に話している裏で、二宮さんと運転手さんで辛城を車から降ろす。俺は……玄関入り口まで引いて辛城を見る。色んな人が髪色を褒めてくれた。自分の事のように嬉しい半面、一番見てほしい人の意識が未だにハッキリしなくて。このときに湧いたのは、絶望にも似た感情だった。


「わかりました。病室に戻って確認しましょう」


 辛城は先生と看護師さんとともに病室へ戻る。汗がボロボロと垂れて、足元が水滴同士でシミを大きく作る。


「一石くん、行くよ? 大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です」


 二宮さんに声をかけられるまでぼーっとしていた。テレビの映像を見ている様だった。

 辛城が病院に入っていく。辛城は病院で過ごしている。それはこの半年近く、ずっと見続けてきたのに。一番最後に病院の自動扉をくぐった。涼しい風が汗を冷やす。体は十二分に火照っている。頭の中は……気持ち悪いぐらい、ひんやりしている。髪色が黒いからだろうか、顔色がさらに白く見えた。なんとなく胸騒ぎがして、前を歩く二宮さんに駆け寄った。


「あの、辛城、大丈夫ですか?」
「このあと帰宅後の先生の診察は予定通り計画していた物だからね。それよりも……一石くんの方が顔色ひどいよ。熱中症かな」
「いや、俺は、大丈夫です」
「……いや、少し休もう」
「でもっ」
「辛城さんは診察室で検査もするから、少し待っててもらうことになるよ。だからその間だけ、一石くんも休んで」
「……はい」
「すみません、彼を休憩室に連れいていきます」


 二宮さんが前を行く集団に声をかけたのを、遠くから聞いている感覚だった。腕を引かれ、重くなった足が引き摺られる様に別方向へ向かう。何かが聞こえている。何か言われている。どこかの部屋に入った瞬間、地震が起こったかのように体が支えられなくなった。暗い何かに押し付けられて、瞼も閉じざるを得なかった。


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