根本と頭回りは姉が塗り、俺は片側の長い髪の真ん中あたりから毛先にかけてを塗った。自分の髪は染めたことがあったけど、人の髪は初めてで緊張する。姉のやり方の見よう見まね。失敗してはいけないという緊張はもちろん、辛城の髪というのも手を震えさせた。どうにかこうにかしっかり塗り込んで、姉にも確認してもらった。
そんな姉は辛城に声をかけながら、丁寧に丁寧に施術していく。普段と違った方向から見た美容師の仕事は真新しくて、それが見知った姉であるというのは不思議でもあって、目が離せなかった。
全体的に染料を塗り終え、ラップで密着させる。車椅子にもタオルが引かれ、染料で着色しないように配慮されていた。
姉に指示され、車椅子の背もたれを倒す。寝ているまでは行かなくとも、体を起こしているよりかは楽だろうというぐらいの角度。
「十分程置いて色の浸透を待ちます」
「一度血圧測りましょうか」
看護師さんが辛城の手首に血圧計を装着する。美容院ではなかなか聞くことのない音が響く中、二宮さんは辛城の足元を確認した。
「チアノーゼ出てますね」
「脈とれる?」
「……とれます」
「クッションを入れて、少し足を上げておきましょう。この後はシャンプーですか?」
「はい。シャンプー台に移ってもらって、仰向けでシャンプーします」
「わかりました。そのままお願いします」
専門家たちが真剣な顔で、慎重に話しを進める。
―― 辛城。お前のためにみんな色々考えてくれてるよ。髪が染まったら絶対見てくれよ。寝てる間に染めてるんだよ。寝てしまう前みたいに。
「……見てほしいなぁ」
待ち時間も効率を重視するために環境を整える。使うシャンプーやトリートメント、替えのエプロン、オイル、ドライヤー、ヘアアイロン。それをきっと意味がある位置に並べていく。
「時間です。シャンプーしましょう」
姉は辛城に声をかける。
車椅子をシャンプー台の椅子に平行に並べ、看護師さんと二宮さんとで移乗する。下半身にバスタオルをかけた。ラップを剥がし、ぬるま湯のシャワーで流して行く。
「熱くないかしらね」
顔面にはガーゼがかけられていて表情は見えない。それでも姉は、一般的なお客様として接することに徹している。
患者だからといって患者扱いしない。もちろんする場合もあるんだろうけど、せっかく病院の外で過ごしているんだから、病院や治療のことは忘れたいのではないかと思う。
姉の掌で泡立てられたシャンプーが、辛城の髪に乗り移る。ふわふわと雪が乗っているようだ。頭皮をほぐすように揉みこまれ、髪の芯まで包み込む。
「あと五分ぐらいです」
「うん、チアノーゼは出てない。大丈夫です」
「じゃあ続けてやっちゃいますね」
看護師さんは常に目を光らせている。髪を洗っているところを見ているだけの俺だけど、看護師さんや二宮さんは全身的に見ているようだ。どこをどう見ているんだろう。今は手伝うことがなさそうなので、視点を寄せてみた。
「気になる?」
二宮さんにばれた。
「まず、チアノーゼって言うのは、足先や唇が紫色になっていないかを見るの。紫色だと循環が上手くいっていない状態。原因はそれこそたくさんあるんだけど、ひとまず循環しやすいように対処する必要があるの」
「例えばどんな対処法があるんですか?」
「姿勢を変えるとか、温めるとかかな。原因によるから一概には言えないけどね」
「そういうのは全部把握してるんですか?」
「もちろん。その患者さんに関わることは勉強するよ。いつ何が起こるかわからないのは生きていくうえで何事にも当てはまるからね。特に私たち病院の医療者は急変が起こる前提でいないと。まあ、全部覚えてるかって言ったら自信満々には言えないけど、だからこそ日々勉強よ」
「日々勉強、ですか」
話してくれる二宮さんの顔はとても活き活きして見えた。隣で辛城を観察する看護師さんも、どこか自信というか、誇りを持っていそうに堂々としている。学んで、資格をとって終わりじゃないんだな。素直にかっこいいと思う。誰かに尽くす仕事だろうし、理不尽なこともあるだろうし。それらは医療に限らずだろうけど、働くってことはつまりそう言うことなのかもしれない。医療はイメージつくけど、たぶん、美容師さんも一緒。俺自身、美容院に行くと新しい商品とか紹介される。あんまり興味がないから話半分にしか聞いていないけど、説明するにも、使うにも、きっとその商品の利点を最大限発揮できるように勉強しているんだろう。
そもそも接客だから十人十色の要望がある。そういうのに全てとはいかずともなるべく対応できるよう、努力しているんだろうな。
医療者に並んで辛城を見ているはずが、いつのまにか俺の視線は姉に向いていた。
―― 笑ってる。
そんな姉は辛城に声をかけながら、丁寧に丁寧に施術していく。普段と違った方向から見た美容師の仕事は真新しくて、それが見知った姉であるというのは不思議でもあって、目が離せなかった。
全体的に染料を塗り終え、ラップで密着させる。車椅子にもタオルが引かれ、染料で着色しないように配慮されていた。
姉に指示され、車椅子の背もたれを倒す。寝ているまでは行かなくとも、体を起こしているよりかは楽だろうというぐらいの角度。
「十分程置いて色の浸透を待ちます」
「一度血圧測りましょうか」
看護師さんが辛城の手首に血圧計を装着する。美容院ではなかなか聞くことのない音が響く中、二宮さんは辛城の足元を確認した。
「チアノーゼ出てますね」
「脈とれる?」
「……とれます」
「クッションを入れて、少し足を上げておきましょう。この後はシャンプーですか?」
「はい。シャンプー台に移ってもらって、仰向けでシャンプーします」
「わかりました。そのままお願いします」
専門家たちが真剣な顔で、慎重に話しを進める。
―― 辛城。お前のためにみんな色々考えてくれてるよ。髪が染まったら絶対見てくれよ。寝てる間に染めてるんだよ。寝てしまう前みたいに。
「……見てほしいなぁ」
待ち時間も効率を重視するために環境を整える。使うシャンプーやトリートメント、替えのエプロン、オイル、ドライヤー、ヘアアイロン。それをきっと意味がある位置に並べていく。
「時間です。シャンプーしましょう」
姉は辛城に声をかける。
車椅子をシャンプー台の椅子に平行に並べ、看護師さんと二宮さんとで移乗する。下半身にバスタオルをかけた。ラップを剥がし、ぬるま湯のシャワーで流して行く。
「熱くないかしらね」
顔面にはガーゼがかけられていて表情は見えない。それでも姉は、一般的なお客様として接することに徹している。
患者だからといって患者扱いしない。もちろんする場合もあるんだろうけど、せっかく病院の外で過ごしているんだから、病院や治療のことは忘れたいのではないかと思う。
姉の掌で泡立てられたシャンプーが、辛城の髪に乗り移る。ふわふわと雪が乗っているようだ。頭皮をほぐすように揉みこまれ、髪の芯まで包み込む。
「あと五分ぐらいです」
「うん、チアノーゼは出てない。大丈夫です」
「じゃあ続けてやっちゃいますね」
看護師さんは常に目を光らせている。髪を洗っているところを見ているだけの俺だけど、看護師さんや二宮さんは全身的に見ているようだ。どこをどう見ているんだろう。今は手伝うことがなさそうなので、視点を寄せてみた。
「気になる?」
二宮さんにばれた。
「まず、チアノーゼって言うのは、足先や唇が紫色になっていないかを見るの。紫色だと循環が上手くいっていない状態。原因はそれこそたくさんあるんだけど、ひとまず循環しやすいように対処する必要があるの」
「例えばどんな対処法があるんですか?」
「姿勢を変えるとか、温めるとかかな。原因によるから一概には言えないけどね」
「そういうのは全部把握してるんですか?」
「もちろん。その患者さんに関わることは勉強するよ。いつ何が起こるかわからないのは生きていくうえで何事にも当てはまるからね。特に私たち病院の医療者は急変が起こる前提でいないと。まあ、全部覚えてるかって言ったら自信満々には言えないけど、だからこそ日々勉強よ」
「日々勉強、ですか」
話してくれる二宮さんの顔はとても活き活きして見えた。隣で辛城を観察する看護師さんも、どこか自信というか、誇りを持っていそうに堂々としている。学んで、資格をとって終わりじゃないんだな。素直にかっこいいと思う。誰かに尽くす仕事だろうし、理不尽なこともあるだろうし。それらは医療に限らずだろうけど、働くってことはつまりそう言うことなのかもしれない。医療はイメージつくけど、たぶん、美容師さんも一緒。俺自身、美容院に行くと新しい商品とか紹介される。あんまり興味がないから話半分にしか聞いていないけど、説明するにも、使うにも、きっとその商品の利点を最大限発揮できるように勉強しているんだろう。
そもそも接客だから十人十色の要望がある。そういうのに全てとはいかずともなるべく対応できるよう、努力しているんだろうな。
医療者に並んで辛城を見ているはずが、いつのまにか俺の視線は姉に向いていた。
―― 笑ってる。