八月上旬の午前十時。
 もう夏真っ盛り。暑すぎて蝉も鳴かず、蚊も飛んでいないような猛暑日。辛城は約半年ぶりに太陽の下へ出た。それも冬の太陽から夏の太陽へクラスチェンジだ。身体が持つか心配になる。


「いってらっしゃい」


 榊原先生の一言に、皆で返事をした。
 介護タクシーに車椅子で乗り込んだ辛城。その横に座るのは看護師さんと二宮さん。俺は助手席で、姉の店までの道案内をする。


「一石くん。今回の提案、ありがとうね」
「え? あ、はい……?」


 唐突な感謝に振り向くと、看護師さんと二人ともが俺を見ていた。


「今回の企画をしてくれてありがとう。リハビリ担当としてずっとお楽しみ企画をやりたかったんだ」
「看護師一同も、今日を迎えられて安心していました。入院前のご様子はなかなか知りえなかったので、どうしても情報が少なく、何をしたらいいものかと思っていました」
「いや、そんな……」


 照れ臭くなって、正面に向き直る。隣から小さな笑い声が聞こえた。

 大家さんから大まかな情報を仕入れられたとしても、生活状況は知りえなかったのだろう。今回の辛城の関係者の中で、俺だけが普段の辛城を知っていた。辛城のためになっているかはわからないにしろ、提案したこと自体に喜んでくれている人がいるとホッとする。

 後ろでは医療従事者としての会話が聞こえて来る。バイタルとか、顔色とか、浮腫とか、チアノーゼとか。
 外出時間は二時間程度で見ている。それがどういう意味なのかは聞かなかった。怖くて、聞けなかった。


「突き当りを左に曲がってところです」


 大した混雑もなく到着した姉の店。小さいビルの一階にあった。駅から離れた場所で周辺も騒がしくはなく、車通りは少ない。
 タクシーが止まって、全員が降りる。辛城が車椅子ごと降りた。少しの振動も意に介さず眠り続けている。今更ながら、そういう病気なのだと再認識する。起きないわけではない。そう信じながら、今まで顔を見続けた。そしてこれからも、痩せこけた顔を見続け、瞳が俺を見てくれることを待ち続けるだろう。


「いらっしゃいませ!」


 カランカランと、軽やかな鈴の音を鳴らしながら、姉が店の玄関を開けた。緑の観葉植物で装飾されたカントリー風な外見。レンタルのスロープを階段に立てかけ、辛城、いざ入店。中はもちろん涼しい。木目調の壁や棚、引き締める黒の椅子、キルトの装飾。どこか外国を思わせる雰囲気。姉の好みが詰まっているのだろう。


「ようこそ、辛城さん。私のお店の、記念すべきお客様第一号!」


 いつもよりテンションが高い。乗り気なのは有難いことだ。
 打ち合わせ通り、俺は用意されていたエプロンを首に通す。姉が誘導して、二宮さんは辛城が座った車椅子を鏡の前に移動させる。


「本当はカウンセリングからだけど、今回は飛ばさせてもらうわね」


 姉は語り掛けながら、辛城に黒いエプロンをつけた。


「早速カラーからやります。その後シャンプー、トリートメント、そして整える感じにカットね」


 手慣れた手つきで準備している姉を見て、プロなんだなと今更なことを思う。
 看護師さんと二宮さんは姉の動線の妨げにならない位置で辛城を観察。
 俺は姉に指示されたことを素早く行う。


「体起こして」
「はい」
「十五分ほど座っててもらいます。お二人とも、何かあったらすぐ言ってください」
「わかりました」


 座ることが少なかった辛城は、今や十五分ほど体を起こしているのがやっとなんだ。美容院での作業すらも時間との勝負。段取りと効率が求められる。姉の美容師としての腕を、信じるしかない。


「これしっかり混ぜといて」


 渡されたのは、掌よりも大きめなボウル。姉が調整した染料が入っている。二人して、いや、俺は姉の真似をして、中身を零さないようにぐるぐると掻き回す。一足先に混ぜ終えた姉は、棚からネックピローを取り出して辛城の首にかけた。頭が浮いた状態で、生え際から染料を塗っていく。


「いい髪の毛してる。グレーも神秘的で私は好きよ」
「……綺麗だよね」
「そうね。ほら、アンタも塗ってあげな」
「え、俺やっていいの?」
「染めるのは大丈夫。切るのはダメだけどね。頭皮につかないように毛先だけね」
「わかった」