口が開いた。聞き返す言葉も消えてしまうぐらい、想像もしなかった言葉だった。
 つまり、兄は父に憧れた? 父がかっこよかった?
 難しくはない言葉を理解するのに困惑していると、兄が少し笑った。


「宏人が小さいとき、俺と飾は父さんが面倒見てくれたんだよ。でも仕事もあったから、病院の空き部屋で待ってろって言われた。俺たちは落ち着きがなかったから、病院探検してな。その時たまたま見たんだ。父さんが患者さんに寄り添っている姿を。ただそれだけだよ」


 懐かしむように柔らかく話す兄。俺と姉兄は年が離れている。二人とも仕事をしていて、高校卒業したてと独り立ちする大人ぐらい。俺が知らない父さんも見ているのだろう。


「宏人にその時のことを話したら、「ぼくもおいしゃさんになる!」って言ってたな」
「え、うそ」
「本当。父さん、その時すっげー苦い顔してた。照れ臭かったんだろうけど」


 くつくつと声に出して笑う兄に、やはり大人っぽさを感じる。俺の知らない父を知っているんだ。俺からしたら、ただ厳しいだけの、医者至上主義の堅物でしかないのに。
 兄はもう一つ大きな欠伸をして、涙を浮かべながら俺を見た。


「あの人は医者しか知らない。小さかった頃のお前は医者になると言った。だから医者しか勧められない」
「いや、覚えてないし、小さかった頃の話だし……。だとしても医学部ゴリ押しはどうかと思う……」
「酔って「あいつは、何かやりたいことあるのかなぁ」って言ってたなぁ。殴られた日、お前連絡しなかったろ」
「あぁ……そういえば」
「うちはお金に余裕があるとはいえ、それは親父が苦しんでる患者さんたちから貰った金だ。無下に使うな」
「はい……」
「あと、あの人は宏人との接し方がわからないんだろうと思うぞ。お前と俺らの年齢離れてる分、違いすぎて戸惑ってるような気がする。俺らは自己主張強かったけど、宏人は引っ込み思案だし」
「そうかなぁ」
「話してみろよ。俺からしたら、二人とも伝え方が下手くそ。言わなきゃわかんないぞ」


 さらに大きな欠伸を一つ。兄は眠たそうな目をこする。


「引き留めてごめん。ありがとう」
「うい。んじゃ」


 兄はリビングの扉を閉めた。一人きりになったその場で、俺は流しを背に座り込む。やはりというか、兄と話すのは緊張する。普段から話すときは父が近くにいたから、その錯覚がまず一つ。兄が『できる人』であるというのも、また一つ。
 姉は気さくすぎるから『できる人』でもそこまでの緊張はなかった。父に反抗気味な態度というのも理由に挙がるだろう。
 緊張した分、新しい道が見えた。


「言わなきゃわからない、か」


 主張するのは苦手だ。相談も愚痴も、相手が大切なほど気を遣わせたくないし。相手と親しくないほど、身の内をさらけ出したくない。

 正直、誰かに助けを求めたいとは思う。誰に助けを求めたらいいかわからないんだ。そもそも相談ってどうやるんだろう。まずは声をかける。そして話を聞いてくれそうな、自分が話しやすそうな場所に招く。そこで事を話す。


「それが難しいんだよな……」


 話すのも苦手だ。まとめるのも苦手だ。聞かれたことに対してなんて答えればいいのかもわからなくなる。言われたことが理解できなくなる。だから返事もあっているのか、というよりも、自分で何を言っているのかわからなくなる。相談という行為自体が自分に向いていないのではないかと思っている。言う相手のない気持ちや葛藤に、声を宿すのは無駄な労力としか思えない。

 だからこそ答えの出る勉強、特に好きなんだ。はっきりした答えと明確な問いかけがあるから。一人でできるから。

 そんな好きなことも、世の中ではちっぽけで。上には上がいる。俺の上のその人の上にも、また誰かがいる。好きなのにその程度と思われるのが怖くて。期待されることが重くて。自分を認められなくて。


「……はぁ……」


 道は道でも、獣道だった。どこからきてどこへ続いて行くのかわからない。
 俺は医者になった理由を聞いた。そうしたら父と話せと言われた。兄にはわかっていたんだ。俺が進路で悩んでいること。父とうまく話せていないのは家族なら誰が見てもわかるだろう。だからこその、最後のアドバイス。


「……いや、今は、勉強しよう」


 何のために帰ってきたのかを思い出せ。しばらく辛城のことにつきっきりだった。それを言い訳にするつもりはもちろんないが、もし次また、受験に失敗したら……。俺は、親にも、辛城にも会わせる顔が無くなってしまう。

 コップを流しに置いた。シャワーを浴びて、頭を切り替える。髪を程々に乾かして、絶対集中モードのヘアバンドをして、自室に籠った。


 ・♢・