「散歩行ってくる」
「遅くならないように帰りなさいよー」


 家にいるのが窮屈すぎて散歩に出ることにした。どうしても父親がいる空間は緊張してしまう。夕方なんて景色はとうに過ぎて、星が瞬いて涼しい時間帯。
 あてもなくふらふらと、見知った景色を見ながら進む。
 これからどうしようか。高校三年生。もう進路は決めなければならない。言われたとおり医学部を目指すのか。他の学部を目指すのか。ならばどの方面に?いや、あの親が許してくれるだろうか。父親は絶対許さない。母親は……許しても、父親からかばってはくれないだろう。
 結果。目指したいわけでもない医学部を目指すことになるのか。


「……あ」


 特に目的地もなく歩いていたのに、どうしてかよく行く塾の方に来てしまっていた。けれど塾ではなく、塾から離れた繁華街。迷いなんてなさそうな楽しそうな人たちが沢山目に入る。
星が霞むほどの明かりが、街にあふれている。賑やかな声と音と視界。一人悩んでいる俺に対する当て付けか。
 ……勝手な被害妄想。それこそ不愉快だ。


「あ」


 見慣れはしないけど何度か見たその姿。噂には聞くラブホ街から真っ直ぐに向かって来る、その人。黒髪をユラユラと巻いて。隣の男と腕を絡めて。華やかに彩って。その人以外の全てを霞ませる存在。
 認識した途端。いつもなら絵を眺めているような状況なのに。


「辛城!」


 声を出して、口を押えた。思わず出てしまった声は周囲の人間まで届いていて、俺と、俺の目線の先に視線が集まる。呼ばれた辛城は俺をしっかり見ている。もちろん、隣の男も「何事かと」見てくる。けれど男は辛城を『辛城』と認識していないのか、特にアクションを起こすことはない。一瞬でも目があった気がしたが、すぐに男の方に視線を戻し、楽しそうな笑顔を見せつけてくる。
 声を出したこと。視線。それが恥ずかしくなって、両手を強く握って俺は足元を見る。
 学校で聞いた声よりも高く、元気な声。甘い香りが近づいてくる。


 ―― 早く通り過ぎてくれ……!


「あっ」
「っ!」


 弱々しい肩が、俺の強張った腕にぶつかった。緊張で固まっていたおかげで少し揺れるぐらいだった俺に対し、ぶつかった辛城は荷物を落とした。


「ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」
「あ、うん……はい。こちらこそ、すみません」


 ぶつかった拍子に、辛城の姿が至近距離で視界に入る。実は同一人物ではないかという考えは、気のせいだったのではないか。思わずそう思ってしまうぐらい、目の前の辛城は学校でよりも生きている気がする。いじめられ、無反応で、苦痛そうにしていない。目の前で、辛城……らしき人が荷物を拾い上げる。
 艶のある長い黒髪。甘い香り。化粧をして血色のいい顔。男が寄ってきそうな、色気を感じる服。歩いてきた方向からしても、そういうことなんだろうとはすぐにわかった。
 けど。声をかけたものの、辛城が何をしていても、俺には関係ない。


「トオルー行くぞー」


 ―― トオル……? ああ、やっぱり、別人だったのか。


 また一つ恥ずかしくなって、早々にここから立ち去りたくなった。
 顔を上げる。目の前に、黒く、淀んだ瞳をした人が、まっすぐに俺を見ていた。


「――」
「……え?」
「失礼しましたっ」


 軽いお辞儀をして、振り向いては男の方に駆けて行った。あんな高いヒールでよく走れるなと感心することはなく。去っていく前に動いた口と、耳に届いた音声を、頭の中ですり合わせる。


 ―― 「駅の時計台に来て」……?


 どういうことだろう。いや、どういうこともなにもない。そこに来い、それだけだ。やはり辛城なのだろうか。その疑問を晴らせるのかもしれない。晴らしてどうということはないけど、体は掻き毟られているように焦っていた。


 ―― 行って、みるか。


 すでに自分の中で出ていた答えを、今そう考えました風に心の中でつぶやく。
駅の時計台は待ち合わせではよく使う場所だ。何が来るのか。そう疑問に思ってしまっているぐらい、俺はあの『辛城』らしき人を『辛城』だとは信じていないのだろう。
 周りの人間を追い抜かす。皆楽しく話しながらだから、ただ歩くだけの俺は周囲よりも早く動けているようだ。信号が変わりそう。思わず駆ける。ギリギリで渡って、ついでにそのまま走る。
……なんで俺、走ってるんだろう。まあ、いいか。早く着くに越したことはない。何が来るとも、何かが来るのかもわからないけど。


「……はぁ……は、はぁ」


 息が上がる。髪が靡いて、服が乱れて、汗がにじむ。どれだけスピード上げてたんだって思う。
 人が入り乱れる時計台。ただでさえ夏で暑いのに、走って暑いし、人口密度としても暑い。それでも、何とか澄ました顔をする。来るかもわからないあの(ヒト)を意識してる。
 いつ来るか。いつ来るか。来るか。いつ来るか。来ないなんて可能性は考えてない。いや、考えていないふり。それはつまり、来てほしいということなんだと思う。