「では、来週よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします。あんたも寝坊すんじゃないよ」
「わかってるよ」


 七月中旬。病院で、明日行われる辛城の『お楽しみ会』の話し合いが終わった。姉と、主治医の榊原先生、看護師さん、リハビリの二宮さん、テレビ通話で大家さん、発端者で当日助手を務める俺が参加した。
 体を起こしている時間とか、当日の健康管理、バイタルの変化、移動の介助、車の手配など、俺が想像しているよりも企画は入念に行われた。

 当日は看護師さんと二宮さんが介護タクシーで辛城とともに美容室に来る。そこで姉がカットをし、俺は手伝い。体調に変化があれば病院に待機している榊原先生にすぐ連絡するようにと。


「まさかねーちゃんが開業してるとは」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「ごめんごめん。忘れてたわ。治哉たちには言った気がするけどなー」
「いいよ別に……」


 姉がまだ開店する前の店で施術してくれる。お店の打診が必要ないのは正直すごくありがたかった。


「黒染めでいいのね?」
「……たぶん。ずっと黒だったし」
「自信持ちなさい。その子が染めてた色なら、その色でって頼むのは至極真っ当よ」
「そっかな……」
「他に染めたい色がいいって言ったなら、またうちに来たらいいわ。染めてあげるから」
「ありがとう。目を覚ましたら言っとくよ」
「あんたの出世払いでね」
「……わかったよ」


 姉は颯爽と去っていき、俺は病室に戻る。最近は夏日が続いているから、窓は閉められ、冷房が効いている。日差しを遮る程度にカーテンが広がっているが、それでも十分に明るい。天井を見ると電気はついていなかった。
 時計の針は昼の十一時。最近は準備のために病院に通い詰めて、予備校以外での勉強ができていなかった。


「今日は帰るよ。また来る」


 返事のないのも、悲しいかな慣れてしまった。
 かんかん照りの中、コンクリート塗装を踏みしめ、家までにどれほど汗を流しただろう。日陰を選んで歩いたとしても、昼頃ともあって太陽は直上だ、大した影はできない。病院を出てすぐに買った500mLペットボトルは空になった状態で家に入れてやる。


「ただいま」
「おかえり」
「っ、にーちゃん、帰ってたんだ」


 夜に会うことの多い兄が、風呂上がりの姿で家の通路にいた。
 いきなりで頭が回らない。普段は父と共にいることが多い兄。同じ病院の、同じ科に勤めているとそうなのだろうか。
 今日は父は……靴はない。


「当直明け。今から寝る」
「そうなんだ。お疲れ様」
「どうも。お前も早く水飲めよ。汗やばいぞ」
「あぁ……うん」


 靴を脱いで、家の中に入った。体も頭も火照っている。リビングは涼しかった。冷房が効いていて、温度差で風邪をひきそうだ。


「ん」


 差し出されたのは水の入ったコップ。兄の反対の手には同じもの。自分が飲むついでに入れてくれたらしい。


「ありがと」


 手から伝わるひんやりした温度に喉が鳴った。ぐいっと一飲み。喉を通って、胃に落ちた。じんわりと広がっていく。


「じゃ、おやすみ」


 流しにコップを置いて、ふわぁ、と可愛らしい欠伸をしながらリビングを出ようとする。


「あ、あのさ!」


 咄嗟に声をかけていて、自分でも驚いた。
「なに?」とは口には出さないが、リビングの扉から出かかった体を半分だけ向ける。出てしまった言葉は元には戻らず、再び汗だけが垂れてくる。ただ黙って待っているだけの兄だが、それでも圧をかけられていると錯覚してしまう。
 口籠った俺を、無言で待つ。半身だけだった身体を、全身向かい合わせた。それはつまり、待ってくれるということ。そして、俺は何かを言わなければならない、ということ。


「えと……にーちゃんは……なんで医者になったの?」


 姉に聞いた質問を、兄にもしてみた。
 兄も言われていただろう、「医者になれ」という、俺にとっては呪いのような言葉。医者が悪いとは思わない。けれど、何度も何度も言われているうちにそう思わざるを得なくなってしまった。
 兄はこれと言って表情を変えず、半開きの眠そうな目で視線を天井に向けた。少し悩まし気な唸り声のあと、「そうだな」と呟く。


「小さい頃に、父さんの仕事ぶりを見たから」
「父さんの……」
「かっこよかったんだよ」