けれど環境が少し変わった。
 例えば、マットレス。エアマットの自動体交機能つき。部屋の中では小さいながらも機械音が鳴り響き、定期的に左右へ傾くように設定されている。それから、尿道バルーンが入った。手提げに入れられて中が見えないようになっている。
 全身的に浮腫みが出てきた。二宮さん曰く、不動によって浮腫みが出てくるらしい。リハビリをしていてもいずれはでてくるものだとも。

 髪色は全体的に染めていた黒が抜けてきた気がする。そして痛んでいる。姉が言った通り、寝ているだけでも髪って結構痛むんだろうなと。病院だからあんまり髪も洗えないし。初めて会った時とだいぶ印象が変わってしまって、どことなく寂しい。


「俺も色落ちしたなぁ」


 視界に入った黒い髪を摘まむ。丁度去年だったか、俺が髪を染めたのも。夏休み開ける前に染めた茶色も、面倒くさくて染め直さず、ただただ切るだけだった。カラメル多めのプリン、ほろ苦。


 ―― 久々に染めようかな。


 市販の染め粉を買って、適当に。髪の隙間に映る、辛城。


「……辛城も染める?」


 それはただの呟きで。ちょっとした思い付き。もちろん返事はなく、規則的な寝息が耳を通り抜ける。
 手紙にもあったが、本人は身だしなみの一つとして染めていた。本人が染めたくて染めていた。綺麗な髪だった。だから手入れはしていたのだろう。普通の、髪に気を遣うタイプの女性らしく。
 病室を出て、看護師さんに聞いてみた。


「辛城の髪を染めることってできます?」
「美容師さんは来てくれるけど、カットだけなんですよ」
「じゃあ、俺がやるのは?」
「一石くんが? ……ちょっと待ってね」


 看護師さんはナースステーションの奥に行ってしまった。
 染めるとなったら流したりするわけだし、あまり簡単なことではないか。咄嗟の思い付きを言ってしまったことに後悔の念が湧き出てくる。俺の勝手な想像の範疇を超えないのに。


「お待たせ。専門家の人にも聞いてからの返事になるけど、いいかな?」
「え」


 あれ? もしかして、できるかもしれない?


「じ、じゃあ、俺の姉に聞いてみてもいいですか? 美容師なんですけど。病院でカットもやったことあるって言ってました」
「あら、本当? お願いして良いかな。設備とか準備とかが難しいものでなければ、辛城さんのお楽しみ企画としてできるかもしれない」


 患者さんごとに行われる、主に外出企画。辛城は今までやってなかったって聞いた奴だ。
 あの頃の辛城に、また会える……?
 部屋に戻って、すぐにスマホを手に取った。姉に誤字だらけのメッセージを送る。暇なのか、すぐに返信がある。


『落ち着け、意味わからん』
『ごめん』


 気を取り直して、送り直した。
 髪を切るのは資格がいるが、染めるのはどうなのか。ベッドに寝ながら染められるのか。染めた後のシャンプーはどうしたらいいのか。
 思いつく限りの質問を投げかけた。すると、姉から電話がかかってくる。


「この前話してた子のこと?」
「そう」
「ふーん。その人の保護者は?」
「あ……まだ聞けてない」
「確認してきなさい。保護者の方さえよければ、生意気で可愛い弟のためにできる限りの肌を脱いであげるわよ。出世払いでね」
「! ありがとう」


 返事を待たずに電話を切って、大家さんに連絡する。少し間隔が空いてから、しゃがれた声が返ってきた。詳細を話すと、「玲良ちゃんのためにありがとう」と了承を得た。
 早足でナースステーションに戻る。


「あの! 姉と、大家さんはOKしてくれました!」
「そう。じゃあ話を詰めていきましょうね」


 マスク越しの穏やかな笑顔で、安心感を覚える。


 ―― 言ってみてよかった……んだよね。


 言葉に出すことの怖さ。心の内を曝け出すような行為。嘘をつこうとする勇気もなかなかなくて、誤魔化しの言葉しか出てこない中途半端人間。
 否定されるのが嫌だった。否定されるならば言わない方が良い。否定されるかもしれないことを言うのは無駄な労力でしかないと思っていた。自分の発言で、相手に背負わせるのも嫌だ。それが正しいか、良いことなのかもわからなければ余計に。

 自信がない。何もできていない俺だから。

 病室に戻ってきて、辛城の近くに座る。小さい寝息を立てるのに何度安堵したか。それまでに体の動きは少なくなった。日に当たることも少ないから、肌も一層白くなった。リハビリも、ベッドの高さを上げるだけで足を下ろすことはなくなった。時々目を開けるけれど、虚ろで、声をかけても生返事。
 最後に話した日からもうすぐ半年。辛城の声も、もう忘れてしまいそうだ。


「……辛城」


 体の横の、力の入らない手を握った。どことなく冷たい、骨張ってしまった手。自分の手で温めるように、両手で包んだ。優しくするつもりが、自然と、意識的に力が入っていく。


「頼むから……早く起きて……」


 言ってみてもダメなことがあるって、俺は重々知っている。結局は行動しなきゃダメなんだってことも。正しい行動なのか、正解なのかわからないままに走り出すのは怖いままだ。
 口を突いて出た言葉は、彼女の寝息に囚われた。
 手に力は入らない。一方的に握りめているだけだった。


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