戻ってきた姉が、藪から棒に提案する。気を取り直す意味も込めて追加注文した。またもや野菜ジュースの姉は、一気にコップの半分以上を胃に流し込んだ。


「私さ、病院にヘアカットしに行ってるのよ」
「へぇ、そうなんだ」
「病院の人に聞いたんだけど、眠ってても声は聞こえることもあるらしいわよ」
「ほー」
「実際、目覚ましって寝てる時に聞こえるしね」
「あぁ、確かに」
「不思議なもんで、寝るために安眠ミュージックを聞いたりもするし。意識と聴覚って関係が深いだかなんだからしいわよ」
「へぇ……」
「だから、案外、話しかけてると起きたりするかもしれないわよ」
「……そうだね」


 数ヶ月、近くの物音にほとんど反応を示さない辛城にも、実は聞こえているのだろうか。より声をかけ続ければしっかり起きるだろうか。希望じゃなく可能性。蜘蛛の糸よりも細く脆いと、そう考えているのは俺の主観。


「起きてほしいなら声をかけ続けなさい。けど、気をつけなきゃいけないわよ」
「何を?」
「女の子なんでしょ。あんたと同じぐらいの。なら、起きた時の自分の姿を多少は気にすんじゃない?」
「しん……どうだろう」
「考えてみなさい。起きて自分がハゲてたら」
「ハゲは嫌だ」
「でしょ。寝てると摩擦で髪が痛むのよ。可能性は0ではないわ」
「なるほど……」
「起こしたい、起きてほしいなら、起きた時のことも考えてあげてみたら? またショックで寝込んじゃったら嫌でしょ?」


 それは確かに嫌だ。冗談交じりに話すが、美容師である姉ならではの例えだ。そして納得のいく例えでもある。
 辛城は髪を黒くしていた。気にしていたのだろうか。じゃあ、起きて意識が戻った時、灰色の髪は気になってしまうのだろうか。それでショックで寝込む、ってことはあるのだろうか。
 姉の何気ないアドバイスに反して、真面目に捉えた俺は心の予定帳に刻んだ。起きるかもわからない。本人がどう思うかわからない。それを確認するすべも今はない。けど、彼女のためになるかもしれない。


「ねーちゃん」
「うぉ?」
「ありがと」
「んー? どういたしまして?」


 伝わったのか伝わってないのか分からない返事をして、姉は肉を飲み込んだ。追加の肉が届いて、半分以上は俺が食べた。文句を言われたが腹が減っていたので。再度、再再度と追加注文し、ラストオーダーまで食べ続けた。「食べ放題にして正解だった」とポソっと呟いたのは、聞かなかったことにする。


 ・♢・


 勉強とお見舞いの傍ら、医者に限らず多様な職業について調べた。一応気にしているのは興味があること。好きなものは何だろうかと考えたけど、正直これと言ってなにもない。じゃあ生活が安定するようにと、公務員や資格について知識を増やした。けれど、増えたのは知識だけで、正直これと言って気になるものはない。

 そうこうしているうちに、六月末。辛城と再会してから三カ月が経とうとしている。
 相も変わらない生活が続いていた、梅雨の真っただ中。病院の窓から見えるのは、雨に打たれながら咲き誇る紫色の紫陽花。花言葉は『家族思い』だったか。華が集合しているところから来ていたと思う。でも『浮気』というのもあったはず。植わっている土の成分によって色が変わるから。正反対の花言葉。知れば複雑。知らなければ気持ちの天秤は大きく傾く。


「紫は……アルカリ性」


 たぶん、これは受験では使わない。ただの雑学。そんなことを考えている俺は、おそらく集中力を欠いているのだろう。
 辛城は眠り続けている。この二カ月の間、同室の、同じ配置。窓辺から見る辛城自身は何も変わらない。ずっと目を閉じている。