「じゃあ俺は右からやります」
「私は左足からね」


 辛城の体を動かす。他人の体を動かすのは当然、自分の体を動かすのと違う。自分は筋肉を使って安全に動かしているが、他人の体となると変な方向に捻ってしまう可能性もある。だから二宮さんに教わりながら、時に自分の体でやってもらいながら、辛城の体を動かしている。
 二宮さんは「足よりは腕の方が、辛城さんの抵抗感が少ないと思う」と配慮して、俺を腕担当にした。両腕を入念に、けれど効率よく各方向に動かしたら、次だ。


「ベッドの高さを変えます」


 リモコンを使って、決められた高さに変更する。頭の高さもリクライニング機能で変更したところで二宮さんが血圧を測る。頭の位置を変更した際に血圧が下がることがあるらしい。


「大丈夫だね。じゃあ座ろう。足をお願いね」
「はい」


 足をベッドから下ろすのと同時に、捻った上半身もベッドから離れさせる。ベッドの縁に座らせて、二宮さんが背中側から体を支える。辛城は力なく座っている。両膝の上に枕をのせて、その上に辛城の両腕を乗せた。俺は目の前にしゃがむ。


「勉強はどう?」


 二宮さんが聞いてきた。辛城ではなく、俺に。


「ぼちぼちです」
「頑張ってる人に頑張れは失礼かもしれないけど、応援してるよ。一石くんみたいに努力家で優しい人に医者になってほしいと思ってるし」
「ありがとうございます」
「……浮かない顔してるね」


 気持ちは、沈んでいる自覚がある。二カ月間交流のある二宮さんにはもうわかってしまうほどらしい。
 勉強は順調だ。けれど、どうしても定まらない。


「人格や性格としては望んでもらえても、自分自身の問題で。医者になりたいとは……いまだに思えなくて」


 愚痴というか、呟きというか。程々の距離感にいる人に打ち明けてしまった。親にも、兄姉にも、友人にも、先生にも、辛城にも打ち明けなかった内心。限界、というわけではなく。ただ正直、決めきれないということについて、どうでもよくなっているだけ。
「ふぅん」と、返答に困っているような反応だった。辛城の体を支え、肩を擦りながら、二宮さんは語る。


「私が今の職に就こうと思ったのは親に勧められたからでね」
「はあ」
「もともと親が医療関係者だったの。だから私も漠然と、医療の道に進むんだろうなと思ってて。でも医療関係者の職って、子どもの頃の私には医者か看護師しかわからなくて。そんな私にこの仕事を教えてくれたのよ」
「リハビリ、ですか」
「そう。この職を知って、あ、なんかいいな、って思って。そんなちょっとした理由」
「そうなんですか」


 自分語りが始まって、けれど別に戸惑うとか、引くとかそういうものはなくて。たぶん、自分の進みたい道が見つかるって、そういうものなんだろうと思う。誰かに言われたことがきっかけとか。自分が何かを経験したとか。


「既にやっているんだろうけど、医者も色々だからさ。どんな医者があるのかを知るのも一つだと思うよ。医者じゃなくても、医者に関わる関係者とか、仕事とか」
「あー……医者以外は、許してくれないと思うんですよね」
「ご両親が?」
「はい」
「そうだねぇ。ご両親の意向で進むのも一つはありだとは思うよ。でも、医者を目指せるほどの頭の良さなら他にもいろんな道に進めると思うし、医者にこだわらないでも探してみたら?」
「いや、でも」
「ご両親がどういった理由で医者になれっていってるのかは、私にはわからないよ。けど、一石くんは医者になりたいと思わない理由とか、むしろなりたくない理由とかって話したりした?」
「それは……話して、ないです」


 話すのを避けてた。どうせ否定されるってわかっているから。昔からある威圧感が、口を開くことを許してはくれない。重圧が、ただ頭を垂れ、頷くことだけを強要してくるようで。


「一石くんがやりたいこととか話してみたら? 今はやりたいものがなくても、何か探してみたらいいんじゃないかな? 医者に限らず、向上心とか好奇心がないままに続けられる程、仕事って甘くないしさ。そういう話をしてみたら、ご両親も医者になるリスクみたいなものも気付いてくれるんじゃないかな」


 そう言い終わったタイミングでリハビリの時間は終わった。辛城をベッドに寝かせ、最後にもう一度血圧を測って、二宮さんは帰って行った。最後に「上から話しちゃってごめんなさい」と申し訳なさそうにして。