辛城のあの台詞はそういうことだったのか。彼女に問うことのできなかった難問が、彼女のいないところで解かれている。まるで了承を得たカンニング。


『寝たくないけど、寝ないと生きていけない。私には死ぬ勇気がなかった。なんならピアスを開けたり、死なない程度の自傷行為もできませんでした。だから、学校ではいじめられて眠らないようにして、時々抱いてもらってました。見ず知らずの、後腐れのない人の悪意に頼るしかできませんでした』


 チク。針で刺されたような痛みが肋骨の隙間に走った。両肩に力が入る。掌に指先が食い込む。膝が上がって、踵が浮く。顎が。目線が。気持ちが。下がっていく。


『だから、彼には申し訳なくて』


 全身が強張った。


『彼、というのは』
『……恩人です。なんの繋がりもなかったのに、私を見つけて、抱いてほしいという私の失礼なお願いを聞かないで、でも助けてくれたんです。すごく、すごく感謝してて、感謝してもしきれない程です』


 ちょっと笑ってしまった。


 ―― 感謝なのか、申し訳ないのか、どっちだよ。


 そう思った瞬間、彼女の声が笑う。俺が思ったことを彼女も思ったのだと、そう言った。


『私には両親もきょうだいも、親族もいません。大家さんはあくまで他人だし、高齢で持病もあります。学校の先生は気にかけてはくれるけど、眠ってしまうから、なんて理由は言えませんでした。だから彼は……一石くんは、なにも言わずとも近くにいてくれた、大切な友人です』
「辛城……」


 声しかなくてよかったなんて、失礼にもほどがあるだろう。ただ、どうしてもそう思わずにはいられない。
 全身ガチガチで。けれど目だけは弱弱しくて。鼻が垂れそうな俺なんて見られたくない。
 まだまともなままの俺だけを知っていてほしい。
 歯を食いしばって、眼にも力を込めた。視線のあった先生の表情は柔らかくて、少し気恥しい。一時停止していたのか、「続けます」と一言添えた。


『彼が勉強を教えてくれたんです。数年遅れてなんとか入学したけれど、レベルは高いわ、授業はほとんど集中していられないわで、私は相当勉強できませんでした。彼が教えてくれて、一緒にいるのが楽しくて、寝る間も惜しいくらいでした。悪夢を見ても忘れられたんです。引き摺らなかったんです。だから、少し寝るのも怖くなくなった。けど……だから、油断してしまった。悪夢じゃなくて、強い眠気に勝てなかった』
『悪夢と眠気は別なんですね』
『はい。悪夢は事故にあった頃からですが、強い眠気は高校に入ってからです』
『ご自分でなんとか対応されていたんですね。どこか病院にかかったことはありますか?』
『ありません。普段寝なさ過ぎてる反動だと思ってました。いずれ治ると……』
『ここに運ばれる直前まで、そう思ってたんですか?』
『……いえ。治ってほしい、とは思ってました。ただの睡眠不足と偏りだと思いたかったんです。病院に行って、診断が出てしまうのが怖かった』
『そうですね。そう思う方は多くいらっしゃいます。不思議なことではありません。では、どうして病院に運ばれてきたかは覚えていますか?』
『それは……彼に会った最後の日……、すごく眠かったことまでは覚えてるんですが』


 ―― え……あの日……?


『それは何日でしたか?』
『……三が日。一月三日、かな』
『なるほど。辛城さんが運ばれてきたのは一月五日です』
『じゃあ、二日間は寝てしまってたんでしょうか』
『恐らくそうだとは思いますが、なにぶん、その間のことを知る人がいらっしゃらないので断定はできません。ただ、通報してくださったのは大家さんです』
『またご迷惑をかけちゃった……』
『とても心配しておられましたよ。……そして、そのときに辛城さんの体に起こったことについてお話ししなければなりません』
『眠っていただけじゃないんですか?
『ご説明する前にみなさんに確認しています。大家さんには立場上、説明義務がありますのですでに電話でお伝えしてあります。辛城さんにお伝えするかは、大家さんは僕に託すと言ってくださいました。そして、僕は辛城さんが望むならばお話ししようと思います』
『……あんまりいい予感はしませんね』
『実際のところ、どちらとも言えません。受け取り方によると思います』
『教えてください』


 力強くて、迷いがなくて、びっくりした。診断が出るのが怖いと思っていた人の返事なのかと。少し間が空いて、辛城のはっきりとした声が続いた。