「体を動かしていきますね」


 リハビリの人がそう声をかけた。布団がまくられ、寝間着姿が空気に触れる。袖や裾から見える四肢は想像以上に細かった。背中に手を入れ込むようにして背中、もしくは肩甲骨をほぐす。腕を浮かせて、回して、あらゆる方向に腕を動かしている。左右、そして足も同様に。
 それはおおよそ二十分ほど続いた。ただ見ているだけだった。俺から声をかけることは、なかった。目を開けない彼女にかける言葉が、見つからなかった。


「よろしければ、お名前をお伺いしてもいいですか?」


 リハビリの人が声をかけたのは俺だった。


「一石です」
「一石さんですね。よろしくお願いします」
「ヨロシクオネガイシマス……」
「彼女、辛城さんについてお伺いしてもよろしいですか?」
「……はあ」


 そう言ったわりに、リハビリの二宮さんは辛城にむかって「体起こしましょうか」と声をかけた。布団は腰まで掛けられた。ベッドのリモコンを使って上体を上げ、下半身も曲げられていく。マッサージチェアにでも座っているような状態で、まるで気持ちよくなって眠っているようだ。


「辛城さんとは学校が同じだったんですか?」
「はい。高校で」
「ああ、じゃあ最近まで一緒の学校だったんですかね」
「クラスも一緒でした」
「同級生。どんな子でした? どの教科が得意とか、苦手とか」
「数学はダメでしたね。俺が教えてました」
「そっかあ。私も数学は苦手だったなぁ。教えてたってことは一石さんは勉強が得意なんですか?」
「……まあ、辛城よりかは」


 勉強会を思い出して、少し頬が緩んだのがわかった。二宮さんはそんな俺を見て、そして辛城を見て言った。


「楽しかったんですね」


 楽しかった……。ああ、楽しかった。楽しかったと思う。学校の奴らといるより。塾の奴らといるより。家族といるよりも。
 俺たちの関係は二人だけの秘密だった。誰に言うつもりもなく、ただただその時間を待ち望んでいた。その時間だけは、嫌なことを考えなかった。


「さあ、今日はこれで終わります。お疲れ様でした」


 二宮さんは再度、ベッドのリモコンを操作する。真っ平らになってから辛城の姿勢を直し、布団を胸元まで掛け直した。そしてまた血圧を測って、脈も測った。


「もし次お会いできたら、またお話を聞かせてください」


 一言を残して、二宮さんは退室した。部屋は俺と彼女の二人だけになった。話すことは特にしなくて、風が入ってくる音だけが鼓膜を揺らす。


「あ、荷物」


 大家さんから預かった荷物がそのままだった。小物類や物品を部屋の引き出しにしまっていく。わからないものは看護師さんに言えば大丈夫だろうか。
 ガサガサと荷物の中身を漁っていると、一通の封筒を見つけた。「榊原先生、看護師さんへ」と書いてある。先生……医師だろうか。
 病室を出て、ナースステーションへ。何人かの看護師さんのうち、一人が寄ってきてくれた。


「辛城の見舞いに来た一石なんですけど、榊原先生っていらっしゃいますか?」
「榊原先生は主治医ですね」
「そうですか。でしたらこの封筒を渡していただきたいんですけど」
「これは……?」
「すみません、俺にもわからなくて」
「中身拝見しますね」


 ハサミで封を開き、一枚の紙が出てきた。
 看護師さんはその中身を見て、「ああ」と一言納得したようだ。


「委任状ですね。君が一石さん、ですよね?」
「え、はい。そうです」
「承知しました。病室でお待ちください」
「はあ」


 なんだかわからないことになっている。委任状? 大家さんから何かを頼まれるのだろうか。荷物運びだけじゃなかったのか。
 モヤモヤとした気持ちのまま、病室に逆戻り。俺とは真反対に清々しいその部屋で、気持ちよさそうに目を閉じていた。 少し期待していたけれど、目は開いていない。


「どうしたっていうんだよ」


 答えはもちろんなくて。埃のように風どこかへ消えていった。
 ベッドの横に座って、顔を見つめる。血の気のある顔を見るだけでも少し安心できる。 触れれば、柔らかく、温かい。生きているというのを実感する。


「って、何触ってんだ、俺」


 慌てて引っ込めた手だが、ではむしろどこに置けばいいのか。仕方なしに、両膝の上に拳で乗せた。その時、部屋がノックされた。


「失礼します」
「はい?」


 入ってきたのは白衣を着た男性だ。中年程度の医者の中では若い方だろうか。眼鏡の奥で柔らかく笑みを浮かべている。


「榊原と申します。辛城さんの主人を担当しています」