「七〇九号室です」
病院の受付で言われた番号は、この病院でも上の方の階だった。エレベーターの中盤に乗って、降りたのは最後。上昇していくはこの中からは景色は見えなかった。けれど、フロアからはよく見えた。
清々しいほどの青空。ぽつぽつとある白い雲はゆっくりと流れている。空との境界線がわからないところに海が見える。大きな観覧車が雲と同じぐらいのペースで動いているように思う。まるで世界がその程度のスピードで動いている様に錯覚する。
そんな俺の足は止まっていた。フロアごとの受付に行かなければならないのに、荷物を持ったまま、景色をただ見つめている人になっている。
二台目のエレベーターが止まった。中から人が出てきて、俺を追い抜いていく。小さい子どもが早々と、それを追いかける大人と賑やかに通り過ぎて行った。
やはり、この世界のスピードはそんなにゆっくりじゃない。
自分のものとは思えないほどの重さの足を、体を仰け反らせながら持ち上げた。
「七〇九号室は向かって左側、すぐのお部屋です」
似たような案内を聞いて、次の順番待ちの人に場所を譲る。角を曲がればすぐに目的の部屋があった。個室であるそこには当然、辛城の名前しかない。
閉められている扉の前で息を飲む。握った拳を持ち上げて、深呼吸を二回、三回。
ノックした。……返事はない。
「失礼します……?」
もしかしたらいないかもしれない。そんなことを片隅に願って、扉を開けた。
「……辛城?」
実際の彼女の家よりも少し広く感じるのは、物が少ないからだろう。
ベッドの足元が見える。膨らんでいる。恐らく足。上半身のほうは手前に壁があって見えない。その奥の窓は開いていて、風がカーテンを揺らしていた。
中に人がいるのはわかっているのに、無意識に忍び足で中に入る。後ろ手に扉を閉めて、荷物を抱えてベッドまでの距離を詰める。
「辛城」
呼んでも返事はない。ベッドの丁度顔の部分を覗き込んだ。
「……はいいろ……?」
風に遊ばれるカーテンの様に、辛城の髪もゆっくり揺れていた。それは俺の知っている淀んだ黒一色ではなく、白と黒と、大半が灰色だった。
一瞬にして、時が止まったようだった。髪は流れているのに、俺と彼女はほとんど動かない。胸元を見て、息をしているのはわかる。だから生きている。のに、まるで死んでいるようにも……。
「辛城、起きて」
声をかけた。
「辛城」
肩を揺すった。
少しだけ。
ちょっと力を込めて。
強く。
強く、強く。
「辛城!」
叫んだ。わかっていても叫ばずにはいられなかった。そう錯覚してしまったから。
「辛城ってば!」
「こんにちはー」
「っ!?」
扉の方から誰かが入ってきた。
「面会中すみません、リハビリの二宮です。……出直しましょうか?」
「あ、いや、すみません。大丈夫です。ほら辛城、起きろって」
「……失礼します」
目を開ける気配がない。緑色の医療用ケーシーを着た女性が、恐る恐るといった風にベッドの横へ来る。
俺は窓際の椅子へ離れ、様子を窺うことにした。
そのリハビリの女性は、ベッド横のチェストにあった血圧計を手に取る。
「辛城さんこんにちは、リハビリです。血圧測りますね」
意識はない、そんなことは構わないというのか、腕を優しく持ち上げた。血圧計に空気が入っていく音がする。
「辛城さんのお友達ですか?」
ふと、話しかけられた。友達かと聞かれると迷ってしまう。
「ま、まあ、そんなところです」
「そうですか。おばあさんが来られないと聞いていたので、心配してたんです。きてくれてよかったですね」
よかった、と声をかけたのは、やはり眠ったままの辛城で。まるでそれが普通、それがいつも通りという風な対応だった。
―― 寝たきり? 植物状態?
そんな言葉が頭の中によぎる。
大家さんは「安定している」と聞いたはずだ。まさか、この状態で安定しているというのか? 最後に会った時よりも痩せた顔。恐らくは体も痩せているだろう。顔色は……どちらかというとよくなったか。病院で栄養管理されているからだろう。あんなに声をかけても、揺すっても反応がなかったのは……どうしてなんだ。
病院の受付で言われた番号は、この病院でも上の方の階だった。エレベーターの中盤に乗って、降りたのは最後。上昇していくはこの中からは景色は見えなかった。けれど、フロアからはよく見えた。
清々しいほどの青空。ぽつぽつとある白い雲はゆっくりと流れている。空との境界線がわからないところに海が見える。大きな観覧車が雲と同じぐらいのペースで動いているように思う。まるで世界がその程度のスピードで動いている様に錯覚する。
そんな俺の足は止まっていた。フロアごとの受付に行かなければならないのに、荷物を持ったまま、景色をただ見つめている人になっている。
二台目のエレベーターが止まった。中から人が出てきて、俺を追い抜いていく。小さい子どもが早々と、それを追いかける大人と賑やかに通り過ぎて行った。
やはり、この世界のスピードはそんなにゆっくりじゃない。
自分のものとは思えないほどの重さの足を、体を仰け反らせながら持ち上げた。
「七〇九号室は向かって左側、すぐのお部屋です」
似たような案内を聞いて、次の順番待ちの人に場所を譲る。角を曲がればすぐに目的の部屋があった。個室であるそこには当然、辛城の名前しかない。
閉められている扉の前で息を飲む。握った拳を持ち上げて、深呼吸を二回、三回。
ノックした。……返事はない。
「失礼します……?」
もしかしたらいないかもしれない。そんなことを片隅に願って、扉を開けた。
「……辛城?」
実際の彼女の家よりも少し広く感じるのは、物が少ないからだろう。
ベッドの足元が見える。膨らんでいる。恐らく足。上半身のほうは手前に壁があって見えない。その奥の窓は開いていて、風がカーテンを揺らしていた。
中に人がいるのはわかっているのに、無意識に忍び足で中に入る。後ろ手に扉を閉めて、荷物を抱えてベッドまでの距離を詰める。
「辛城」
呼んでも返事はない。ベッドの丁度顔の部分を覗き込んだ。
「……はいいろ……?」
風に遊ばれるカーテンの様に、辛城の髪もゆっくり揺れていた。それは俺の知っている淀んだ黒一色ではなく、白と黒と、大半が灰色だった。
一瞬にして、時が止まったようだった。髪は流れているのに、俺と彼女はほとんど動かない。胸元を見て、息をしているのはわかる。だから生きている。のに、まるで死んでいるようにも……。
「辛城、起きて」
声をかけた。
「辛城」
肩を揺すった。
少しだけ。
ちょっと力を込めて。
強く。
強く、強く。
「辛城!」
叫んだ。わかっていても叫ばずにはいられなかった。そう錯覚してしまったから。
「辛城ってば!」
「こんにちはー」
「っ!?」
扉の方から誰かが入ってきた。
「面会中すみません、リハビリの二宮です。……出直しましょうか?」
「あ、いや、すみません。大丈夫です。ほら辛城、起きろって」
「……失礼します」
目を開ける気配がない。緑色の医療用ケーシーを着た女性が、恐る恐るといった風にベッドの横へ来る。
俺は窓際の椅子へ離れ、様子を窺うことにした。
そのリハビリの女性は、ベッド横のチェストにあった血圧計を手に取る。
「辛城さんこんにちは、リハビリです。血圧測りますね」
意識はない、そんなことは構わないというのか、腕を優しく持ち上げた。血圧計に空気が入っていく音がする。
「辛城さんのお友達ですか?」
ふと、話しかけられた。友達かと聞かれると迷ってしまう。
「ま、まあ、そんなところです」
「そうですか。おばあさんが来られないと聞いていたので、心配してたんです。きてくれてよかったですね」
よかった、と声をかけたのは、やはり眠ったままの辛城で。まるでそれが普通、それがいつも通りという風な対応だった。
―― 寝たきり? 植物状態?
そんな言葉が頭の中によぎる。
大家さんは「安定している」と聞いたはずだ。まさか、この状態で安定しているというのか? 最後に会った時よりも痩せた顔。恐らくは体も痩せているだろう。顔色は……どちらかというとよくなったか。病院で栄養管理されているからだろう。あんなに声をかけても、揺すっても反応がなかったのは……どうしてなんだ。