起きたよ!
 さあ、来客だ。飲み物はあるだろうか。ゆっくりする時間はないだろうからできる限りの準備をしよう。ああ、ココアの粉がある。勉強で疲れているだろうから甘いものはいいかな。お湯を沸かしておこう。カップも温めておこう。どれくらいでくるだろう。連絡はない。玄関で待っておこうかな。さすがに上着は着ておこう。


「わぁ、寒いなぁ」


 雪は降るかな。降らないだろうけど。降ったらいいな。ロマンチックだ。滅多に見られない、ふわふわと落ちていく真っ白な雪。
 あれを最後に見たのはいつだろう。最後に認識したのはいつだろう。景色を楽しむなんて、いつからできていなかったんだろう。
 息が白い。吸いこんだ空気は冷たい。風はないが冷気が私を包む。目が覚めるなあ。指先が冷える。息を当てて暖をとる。早く来ないかな。寒いだろうに。なんの話だろう。模試の結果が良かったのかな。向こうが急にくるなんて初めてだからそわそわしてる。自分で呼ぶのと、相手が来るのと、心構えは全く違うんだね。初めて知った。冷えた頬は動きにくい。
 ……ああ、来た。


「おつかれさまです」


 舌も硬くて喋りにくい。彼は慌てていた。私が外にいたことに驚いたと。


「きみが、いつもと違うような気がして」


 ―― 何かいいことでもあったのかなって。


「気が気じゃなくて、つい」


 ―― 早く聞きたかったんだよ。


 わくわくしているのが恥ずかしくて、言葉足らずを承知で伝えた。照れ笑いも顔が冷え固まっておぼつかない。大丈夫だよ。寒いけど、そこまでじゃないんだよ。体は暖かいんだ。暖房も入れてたからね。だから、そんな悲しそうな顔をしないで?
 彼に促され、自宅に入る。ココアの準備は万端だ。
 マグカップは温かい。お湯をシンクに捨てると湯気が顔を包み込む。


「あの、さ」


 入れるまで待てないらしい。
 彼がその気なら、先に聞こうか。私はどちらでも構わないから。
 マグカップを置いて、シンクに寄りかかる。ああ、暖かい部屋はやっぱり眠くなってしまうな。瞼が落ちそうだ。少し見上げる彼の顔は暗かった。


「模試なんだけど」
「うん」
「……あとちょっと、ってところなんだ」
『あとちょっと』で、目標に届くのかな? それとも危ういのかな?
「本番までももう少しで……できれば、なんだけど」


 あ、そっか。頑張りたいんだね。君も、頑張りたいことに近づいてるんだね。
 一歩前に踏み出そうとしているならば、私はもう決めている。


「集中してやったほうがいいと思う」


 ―― 寂しいな。


「明日からは来ちゃダメだよ。私のことを気にしちゃうでしょ。ありがたいけど、今はダメ」


 ―― でも、嬉しいな。


「大事なタイミングだよ。私に気を遣わず、自分のやりたいことのために頑張れ」


 ―― 少しでも君の力になれたって、思ってもいいかな?


「私は君に助けられた。恩人のようなもの。君の負担にはなりたくないよ」


 ―― 君のおかげで、諦めていた私にも頑張りたいことができたんだよ。


「全力で応援してる。ずっとずっと応援してる」


 ―― 私がどうなろうと、君のことを応援し続けるよ。


 ようやく笑った君は、でも、悲しそうだった。


「……ありがとう」


 ―― 私こそ、ありがとう。


 もう、会えないかもしれない。
 そう考えたら悲しくて、涙が出そうになった。背を向けて、湧いてあるお湯をカップに入れる。透明なそれに波紋が広がる。ぎゅっと目を閉じて、目を開きながら振り向いた。


「……もしよかったら、試験が終わったら、来てほしいな」
「……わかった」
「ありがとう。頑張って」
「ありがとう」
「うん。元気で」
「うん」


 私も伝えたいことがあったんだ。受験、するんだよ。しないつもりだったけど、テストの点が上がったから、先生が提案してくれたんだ。まともに生きられない私だから、学校も仕事も、普通の生活も諦めてたんだけどね。
 本当はね、大家のおばあちゃんの介護がしたいと思ってたんだ。実のおばあちゃんの時からお世話になってるし。私の後見人になってくれたし。大変な身体に鞭打ってこのアパートも経営してくれたし。恩返ししたかったんだ。
 本当はね、このアパート、取り壊す予定だったらしいの。けど私のことが心配で、私しか住んでないのに、私のためだけに経営を続けてくれたんだ。嬉しくて、申し訳なくて、どうしようもなかった。両親が遺してくれたお金で援助できればと考えてたの。でも、資格が取れたら、私が直接恩返しできる。だから、ありがとう。
 選択肢を与えてくれてありがとう。私が一歩踏み出すための靴をくれて、ありがとう。
 見送って。扉を閉めて。鍵を閉めて。
 冷たい床で、縮こまりながら眠りについた。


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