見つけた下駄箱の中の、上履きの中にコロンと入れた。そしてすぐに鞄を漁り、さっきまで使っていたノートの、一番後ろの無地の紙を開く。


「い・ち・い・し」


 これで大丈夫。忘れてもこれを見れば思い出せる。間違えた時は捨てればいい。
 物覚えが悪いのは昔からだが、最近は特に難しい。特定の人と連続して関わることすら直近ではなかったし。大家さんは大家さんだし。夜の相手はお互い偽名だし、そんなに呼ぶこともない。


 ―― 誰かの名前を呼ぶのって、新鮮。


 自分の世界の中に誰かがいてくれる。多分それが普通。けれど、私にはとてもとても遠い場所になってしまった。
 どうしてだろう。どうして私なんだろう。考えても仕方のないことだし、これはこれで自分の選んだ道なんだけど。でも、どうしても考えてしまう。


「なんで、私なの」


 彼のものと思しき下駄箱を閉じて、手と、額を押し当てながら呟いた。朝の湿気に押しつぶされた言葉は下駄箱の砂に混ざる。色んな人の土足で踏み潰されるだろう。私がなんと言おうと、それは他の人には特に関心のないことなのだから。
 ……でも。でも、せめて。誰か、誰か一人でも……私のことを……。


「……かえりたい」


 帰りたくても帰れない。帰ったら一人だ。お婆ちゃんも、両親も、誰もいない。無音のあの部屋に一人でいるのは、寂しくて、辛くて、切なくて……。いつまでも慣れないあの空間は、私を優しく迎えてはくれない。
 寒いか暑いかの不快。響かない声。こもった匂い。暗くて平面的な部屋。だから逃げたくなる。私を必要としてくれる人のもとへ。私を温めてくれる人のもとへ。私を深い眠りにつかせてくれる人のもとへ。たとえそれが、悪意からくる欲求だとしても。私が選んだのは、そういう場所だった。
 スマホが小さく鳴いた。
『トオル、今日は?』
 いつもの相手だ。
 いつも突然連絡してくる。昨日の夜に絡んできたことは記憶に残っていないだろう。
『先約ある』
『あそ。じゃあ明日』
『無理』
『だる』
 勝手なのはお互い様。だから適度に返しては適度に終わらせる。割り切った関係と言えば聞こえはいい。お互い不干渉。それが最低限のルール。


「明日、明後日は乗り切れそう……かな」


 昨日は絡まれ、その前は数日間寝続けた。そのあと数日は通常通りでしのげる。根拠はないが、今までの経験上そうだった。
 悪夢を見れば飛び起きるし、嫌な汗もかくけれど、昔に比べれば冷静でいられている。常時寝不足ではあるけれど、眠いようで、意識ははっきりしている。
 夢現? 白昼夢? どちらでもないけどそんな感じ。
 いい加減下駄箱から移動するため、ひとまずは自分の教室へ。相変わらず、私の机だけがひどく歪だ。傷だらけで少し粉っぽいそれに触れた。私の席になってしまったばっかりにこんな姿になってしまって……。なんのイタズラか、射し込んでいる朝日の一部がカーテンに遮られ、影になった場所に私の机がある。日の目を見ない場所。夜にだけ着飾る私には日陰がお似合いか。

 小さい頃にからかわれた。『辛城玲良(シンデレラ)』と読ませた。
 なぜこの名前にたのか問い詰めたくても、その理由を知る人はもうこの世にはいない。結果的に、これ以上ない皮肉になっている。
 シンデレラは虐められていたが、救いの手がさしのべられ、ガラスの靴を履いて夢のような世界へ。零時を超えて夢が醒めないようと、与えられたガラスの靴だけは在り続けた。だからこそシンデレラは幸せな未来へ進めた。
 さて、現代の『辛城玲良(シンデレラ)』はどうだ。みすぼらしい髪。汚れた制服。泥だらけの靴。夜には姿は帰るけれど、向かう先は欲に塗れた世界。
 これが現実だ。辛い、辛い、夢も希望もない世界。
 ……私だけがこんなに辛い目に、とまでは思わない。笑っていられることが良いことだとは限らない。笑顔の裏にナニカがあるかもしれない。人はそうやって隠し事をしながら生きていくんだろう。
 ……でも、笑えるだけ、羨ましくも思う。
 生き方が違えば、もっとまともに通えたかもしれない。そう思いながら、見飽きるほどには見ていない黒板を見つめる。そして椅子を引いて、何気なく座ってみた。
 ぐちゃり、と音がした。


「……うわぁ……」


 透明な何かが塗りたくられている。なんだろう。くっつかないなら接着剤ではないか。水分を含んだそれが制服の色を変える。広範囲が濡れてしまって冷たい。触って、匂いを嗅いでみた。


「ゼラチン?」


 よかった、害はない。不快な感触は残っているけれど。帰りたい気分に拍車がかかった。
 出席は……もういいか……。
 教室内のゴミ箱を持ってきて、ゼラチンを手で掬って捨てた。
 幸い、まだ生徒はいない。こんな姿を見られる前に帰ろう。夜のために備えよう。
 家に帰ってきて、ただ無為に過ごしていたわけではない。ちゃんと勉強した。テストの復習をした。溜まっていた洗濯物を片付けた。休んでしまったことに罪悪感はあるけれど、どうしても今日は乗り越えられるテンションではなかっただけ。
 彼に教わるのだから、私もなるべく予習しておこう。忙しい中時間を作ってくれる彼のためにも。数学以外もやらなければ。数学はクリアできても他の教科でダメでした、なんてことになったら本末転倒だ。

 あれもこれもと手を出しているうちに、時刻はあっという間に十五時。学校はそろそろ終わる。手紙を出した先があっているかわからない。塾があるかも結局のところわからない。待たせるのも忍びない。早めに行こう。
 何路線か通った比較的大きい駅。時間帯はまだラッシュではないが、それなりの人通り。まっすぐ歩けば人に当たる。この中から見つけるのは少し大変そうだ。
 手頃な場所にベンチを見つけた。一先ずは座って待っていよう。


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