そう思っていたら、家があって、家族がいて、心配してくれる誰かがいて、健康な体があって、自由な時間があって、一般的な心配事しかなさそうな彼が、ひどく妬ましくなった。
なにが「上手くいかなくて」だ。たとえ上手くいかなくても、私にはないものをたくさん持っているじゃないか。ここまで呑気について来られる程度の悩みなのでしょう。どんな悩みかは知らないし、聞く気もないけれど、それも一般的なのでしょう。
「っ」
ああ、汚い。なんてことを考えているんだ。よく知らない相手に対して勝手に想像膨らませて、勝手に羨ましがって、勝手に劣等感に陥るなんて。だめだ。失礼すぎる。私は彼をほとんど知らない。彼も私をほとんど知らない。知らない相手を一方的に責めるなんて愚かなことだ。
マグカップの残りのお茶を勢いよく含んだ。飲みきれなかった。口の端から溢れ出たのを慌てて拭う。スマホに集中していた彼からの反応はなかった。顔を見られないように背を向けて、帰るように促した。私は私のやるべきことをしよう。
「……数学?」
「そう」
「苦手なの。数学。本当にわからない」
決まっている答えがあるのが良いという人もいるだろうけど、その答えに行きつくまでの道筋が思いつく人だからこそだろう。道筋がわからないから嫌いなのだ。
数字を一つ間違えただけでも。記号を一つ間違えただけでも。減点どころか×になってしまう。綱渡りだろうか。後戻りできない。時間と一緒。人生とも一緒。
結局、解き方も考え方もわからないでぼーっと問題を眺めていると、彼が口を出した。キーワードが頭の中を締める。「共通項」ってなんだっけ。
彼は問題を指さしながら解説していく。言われたとおりに問題を解き崩していく。順序も何もなかった数式が、私の手によって整列され、整地され、分解される。
「答え」
「正解……だったはず」
「……わあ……」
数学は嫌いだけど、解けた時の達成感は……嫌いじゃない。
次の問題に目をやれば、形は似ていた。聞いたことを思い出しながらシャーペンを走らせる。数字を書き間違えて、暗算をやめて筆算を傍に書いた。絶対にこれは答えじゃない、と何度も思ってきた計算問題が、どこからか確信が湧いてくる形に変形される。
「解けた……」
自分の力で。
ああ、嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい。
私にも解けた。私でも解けた。今の私でも、乗り越えられた。
さっきまでの私はどこへやら。高揚感が私を支配して、出会って数日程度の彼に頼りまくる。すると、みるみる穴が見つかってしまい、少し恥ずかしいぐらい。
ちょっと残念なものを見るような目をしているのに気づいた。そして困惑。学校に行けてないのだからしょうがないじゃない。……という言葉は飲み込んで。親切に全ての質問に答えてくれる面倒見のいい彼に甘え切る。
「ようやくわかった。ありがとう」
「どういたしまして」
できる人はできるんだ。問題が間違っているわけじゃない。私がどこかを間違えていた。それに自分で気づければいいのだけど、どうしても視野が狭くなってしまう。彼が教えてくれて良かった。
……彼……。
「えっと」
「ん?」
「誰、だっけ」
「え」
「ごめん、名前、知らなくて」
ショックを受けていた。明らかに。
罪悪感を感じながら心に彼の名前、『一石 宏人』くんという名前を心と頭に刻む。
なんで今まで聞いていなかったんだろう。聞く機会もなかったのかな。今まで『次』があると思っていなかったし。
気まずくて、身を縮めながらマグカップの残った麦茶を飲んだ。彼は豪快に飲んでいた。まだ残っていたのか、氷が溶けたのか。その様子が何かに似ていて、すぐ思い出せた。
―― お父さんも、こんな感じだったな。
小さい頃の、若いお父さんの記憶。最近は思い出すことも少なかった。思い出せたことに少しの安堵。今はいないという現実。お願いすれば色々買ってくれたし、助けてくれた。もう……買ってくれたものは処分してしまって、この家にはないけれど。
『助けてほしい』。その思いが、口を滑らせた。
「一石くんに、お願いがあるんだけど」
以前のように不躾な言葉ではない。『勉強を教えてほしい』といえば、一石くんは了承してくれた。学校を卒業するため。留年せずに進むため。私が生きていける道に、進むため。『いいよ』という言葉は、未来への細い梯子にも思えた。
一石くんが帰ってから、流しに置かれたマグカップを見つめた。あの時の、初対面で頼ってしまった時のことを思い出しながら。必死だったというのは言い訳だけれど、眠るのが怖くて、どうしても『抱いて』欲しかったの。
私は人の悪意につけいらないと生きれない。彼がそういう人間ではないと今ならわかる。謝らなければならない。向こうから言ってこないのは、もうなかったことにしてくれたのだろうか。それとも……実は期待されている?
どちらにしても、触れてこないことがありがたく感じてしまっている。謝ったら……付き合いの浅い私たちは、こんなふうにやっていけるのだろうか。
わかっている、これは逃げているだけだ。都合のいい状況に、クラゲのように身を任せているだけ。自身から出ている毒が、何かを犯しているかもしれない。わかっていても行動できない。
ごめんなさい。せめて今、謝らせてください。いつか面と向かってしっかり謝罪するから。今だけは、心地の良いぬるま湯に浸からせてください。
・♢・
なにが「上手くいかなくて」だ。たとえ上手くいかなくても、私にはないものをたくさん持っているじゃないか。ここまで呑気について来られる程度の悩みなのでしょう。どんな悩みかは知らないし、聞く気もないけれど、それも一般的なのでしょう。
「っ」
ああ、汚い。なんてことを考えているんだ。よく知らない相手に対して勝手に想像膨らませて、勝手に羨ましがって、勝手に劣等感に陥るなんて。だめだ。失礼すぎる。私は彼をほとんど知らない。彼も私をほとんど知らない。知らない相手を一方的に責めるなんて愚かなことだ。
マグカップの残りのお茶を勢いよく含んだ。飲みきれなかった。口の端から溢れ出たのを慌てて拭う。スマホに集中していた彼からの反応はなかった。顔を見られないように背を向けて、帰るように促した。私は私のやるべきことをしよう。
「……数学?」
「そう」
「苦手なの。数学。本当にわからない」
決まっている答えがあるのが良いという人もいるだろうけど、その答えに行きつくまでの道筋が思いつく人だからこそだろう。道筋がわからないから嫌いなのだ。
数字を一つ間違えただけでも。記号を一つ間違えただけでも。減点どころか×になってしまう。綱渡りだろうか。後戻りできない。時間と一緒。人生とも一緒。
結局、解き方も考え方もわからないでぼーっと問題を眺めていると、彼が口を出した。キーワードが頭の中を締める。「共通項」ってなんだっけ。
彼は問題を指さしながら解説していく。言われたとおりに問題を解き崩していく。順序も何もなかった数式が、私の手によって整列され、整地され、分解される。
「答え」
「正解……だったはず」
「……わあ……」
数学は嫌いだけど、解けた時の達成感は……嫌いじゃない。
次の問題に目をやれば、形は似ていた。聞いたことを思い出しながらシャーペンを走らせる。数字を書き間違えて、暗算をやめて筆算を傍に書いた。絶対にこれは答えじゃない、と何度も思ってきた計算問題が、どこからか確信が湧いてくる形に変形される。
「解けた……」
自分の力で。
ああ、嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい。
私にも解けた。私でも解けた。今の私でも、乗り越えられた。
さっきまでの私はどこへやら。高揚感が私を支配して、出会って数日程度の彼に頼りまくる。すると、みるみる穴が見つかってしまい、少し恥ずかしいぐらい。
ちょっと残念なものを見るような目をしているのに気づいた。そして困惑。学校に行けてないのだからしょうがないじゃない。……という言葉は飲み込んで。親切に全ての質問に答えてくれる面倒見のいい彼に甘え切る。
「ようやくわかった。ありがとう」
「どういたしまして」
できる人はできるんだ。問題が間違っているわけじゃない。私がどこかを間違えていた。それに自分で気づければいいのだけど、どうしても視野が狭くなってしまう。彼が教えてくれて良かった。
……彼……。
「えっと」
「ん?」
「誰、だっけ」
「え」
「ごめん、名前、知らなくて」
ショックを受けていた。明らかに。
罪悪感を感じながら心に彼の名前、『一石 宏人』くんという名前を心と頭に刻む。
なんで今まで聞いていなかったんだろう。聞く機会もなかったのかな。今まで『次』があると思っていなかったし。
気まずくて、身を縮めながらマグカップの残った麦茶を飲んだ。彼は豪快に飲んでいた。まだ残っていたのか、氷が溶けたのか。その様子が何かに似ていて、すぐ思い出せた。
―― お父さんも、こんな感じだったな。
小さい頃の、若いお父さんの記憶。最近は思い出すことも少なかった。思い出せたことに少しの安堵。今はいないという現実。お願いすれば色々買ってくれたし、助けてくれた。もう……買ってくれたものは処分してしまって、この家にはないけれど。
『助けてほしい』。その思いが、口を滑らせた。
「一石くんに、お願いがあるんだけど」
以前のように不躾な言葉ではない。『勉強を教えてほしい』といえば、一石くんは了承してくれた。学校を卒業するため。留年せずに進むため。私が生きていける道に、進むため。『いいよ』という言葉は、未来への細い梯子にも思えた。
一石くんが帰ってから、流しに置かれたマグカップを見つめた。あの時の、初対面で頼ってしまった時のことを思い出しながら。必死だったというのは言い訳だけれど、眠るのが怖くて、どうしても『抱いて』欲しかったの。
私は人の悪意につけいらないと生きれない。彼がそういう人間ではないと今ならわかる。謝らなければならない。向こうから言ってこないのは、もうなかったことにしてくれたのだろうか。それとも……実は期待されている?
どちらにしても、触れてこないことがありがたく感じてしまっている。謝ったら……付き合いの浅い私たちは、こんなふうにやっていけるのだろうか。
わかっている、これは逃げているだけだ。都合のいい状況に、クラゲのように身を任せているだけ。自身から出ている毒が、何かを犯しているかもしれない。わかっていても行動できない。
ごめんなさい。せめて今、謝らせてください。いつか面と向かってしっかり謝罪するから。今だけは、心地の良いぬるま湯に浸からせてください。
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