おやすみ、灰かぶりの眠り姫。

 唾液を飲む。相も変わらず当てもなく走り続けるタクシー。真っ直ぐは知っていくように言ったのだから、止まらないのはむしろ正解だろう。

「次の信号で右に曲がってください」
「あいよー」

 驚く様子もなく、軽やかな返事。とても車内に似つかわしくない。

「……どうして」

 窓に映る景色と彼を見つめながら、問いかけた。
 彼はどんな顔をしているだろう。霞む目では、窓越しの彼は見えない。外の景色も輪郭がぼやけている。私ってこんなに目が悪かったのか。いつも眠気で多少ぼやけて見えるから、特に問題はないけれど。もしかしたら今も眠いのかもしれないけれど、いつもと違う感じがしている。走ったからか。眠くないからか。逃がしてくれたからか。どれでもいい。それよりも、気になっている。

「どうして、いたの?」

 こんなにもタイミングよく。こんなにも都合よく。なんで君は、何度も私の前に現れるの? 助けてくれるわけでもないのに。君は私の誘いを断ったのに。

「上手くいかなくて、家出した」

 ……ああ、やっぱり。私を助けようとしたわけではないんだね。
 何も含みのなさそうな言い方だった。むしろ気まずそう。それは『嘘』というわけではなく、深掘りを避けているようにも感じる。

「……そうなんだ」

 ――それでも、助けてくれた。

 自分の気持ちがわからない。けど、悪い気はしていない。
 窓の景色は相変わらず霞んでいる。ぼやけたシルエットが見覚えのあるものになりつつある。家も近い。目の前だと大家さんを起こしてしまうかもしれないので、いつもの通り少し離れた場所で降りた。両親も、遺産がこんなふうに使われているとは思わないだろうな。多少の罪悪感を抱えながら、アパートに足を踏み入れる。

「っ!?」
「あっ、ぶな」

 足、ひっかかった。彼が支えてくれなければ、数段上の段差、もしくは外廊下に額をぶつけていただろう。手も出ず、顔面強打。何度もやったことがあるから想像も容易だ。
 お礼はちゃんと伝えた。……まあ、ここまで連れてきちゃったし、彼も付いてきてるし、来てくれなければ怪我して最悪死んでいたし。

「来るならどうぞ」
「……、お邪魔します」

 何かを言いかけたようだけど、車内でのことを思い出すと聞き返すことはやめざるを得なかった。
 蒸し暑い。人が快適に過ごせる温度をはるかに超えている。エアコンを入れた。麦茶も入れよう。

 ―― ……あれ、作った記憶がない。

 なければすぐに作るか代替品を自販機で買ってこなければ。誘っておいて何もお出しせず蒸し暑い場所で過ごさせるのは忍びない。

 ―― あ、よかった。作ってあった。

 過去の自分に感謝。

「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
「ふふ、どういたしまして」

 普段使われることのない言葉遣いに、違和感から来る笑いが漏れた。笑ってしまったからか、彼は動きがぎこちなくなったように思う。小さくとも、笑ったのはいつぶりだろう。
 麦茶が喉を通り過ぎる。しっかり味が出ていて美味しく感じた。
 やはり暑いのか、ひたすらに麦茶を飲んでいる。マグカップ一杯分を勢いよく飲んで、ようやく息を一つついた。残された氷が寂しく音を立てる。一気に飲んで体調は大丈夫だろうか。そういえば、ご家族は大丈夫だろうか。
 現在二十二時前。

「家の人への連絡は、大丈夫?」
「あ……今する」

 そうしてスマホを取り出した。彼の顔は曇っている。怪訝な顔で操作して、電話ではなく文字をタップしている様。
 目線を逸らして、さて、私はどうしようかと。眠くはない。眠りたいとも思わない。……勉強、しよう。進学はもちろんしない。この体質で働けるか不安だけれど、それよりも大学や専門学校に通い続けられる自信がない。高校でさえギリギリなのに。大学まで行けば『いじめ』という救いがない可能性もあるだろう。将来は昏い。何も想像がつかない。 けれど秒針は進むし、心臓も動いている。どんなに嫌でも、私自身も選択していかなければならない。
 嫌気がさす。もういっそのこと、楽になれたらいいのに。