彼女を知ったのは、夏休み明けの九月、高校三年生の塾帰り。
夜の闇にネオンが輝く、大人しか入ることが許されない場所。そこに、大人っぽく化粧をして、黒く肩下まである長い髪を巻いて、色っぽい恰好をした彼女がいた。
背が高くて髪色が明るくて、アクセサリーをジャラジャラつけて、とんがった靴を履いていて、いかにも「遊んでます」といった出で立ちの男と腕を組んでいた。
その時は、ただ目を奪われただけだった。年上の綺麗なお姉さんが、危ない遊びをしている。ただそれだけだったのに。ちらりと見えた彼女は、そこらへんに輝いているネオンの光を一切受け付けず……いや、すべてを飲み込むような、黒い瞳をしていた。
その瞳に、俺の目も吸い込まれた。
そんなことがあった次の日。いつも通り夜更かしした結果のあくびを噛み殺しながら、学校の下駄箱についた。内履きと外履きを履き替えると、ふと泳いだ視線が、一際目立つ下駄箱に漂流する。
『来るな』『バーカ』『死ね』
見慣れたそれは、いつも自己主張が激しい。誰も消そうとせず、むしろ重ねて書いているから。黙認。それは俺に限らず、周りも、本人もだった。
眠気で開ききらない目に、バサバサの黒髪が映る。制服。手が伸びて、漂流先の下駄箱が開く。
どろっ。隙間から、何かが垂れてくる。透明だけどどこか白っぽい。嗅いだことのある匂い。技術室? 自室? トイレ?その垂れ出たものを目で追う。重力に逆らわずに落ちたそれは、足元の簀子にシミを作る。
―― あーあ。さすがにやりすぎじゃね?
間違いなく、同情。他人事だからこそ思うし、思うだけ。余計なことに首は突っ込まない。他人に自分のキャパを割いている余裕なんてない。巻き込まれるなんてごめんだし、巻き込まれたくもない。見なかったことにして通り過ぎようとした。
その時。風が吹いて、手入れなんてほとんどされていないような髪に隙間ができた。
―― お。
普段から、この人のことは知っていた。陰気で、顔が見えなくて、声も聞いたことがないけど。名前は知ってても『下駄箱の人』という認識でしかなかった。興味がある、と考える前に、反射的に曝け出された顔をガン見する。
青白くて不健康そうな肌。カサカサの唇で、一本に結ばれた口。黒縁眼鏡。顔の半分は眼鏡が覆っている。深いクマと、眠そうに半開きの目。
―― すべてを飲み込むような、黒い瞳。
息を飲んだ。頭で考えるよりも早かった。こいつは。この人は。このいじめられっ子は。
辛城(しんじょう)は。
―― 昨日の夜に目を奪われた、あの人だ。
「あのさっ」
すぐ、しまったと顔に出たことだろう。得意の猫被りは突然のことには対応不可能。すでに陰気を完璧に纏った彼女は、億劫に、鬱陶しそうに体を捻る。
「……なんですか」
初めて聞いた声は思ったよりも……いや、見た目通りに綺麗ではない、掠れていた。
「あ、いや……だ、大丈夫?」
それこそ、何が、だ。大丈夫じゃないことぐらい、見てわかるだろうに。もしかしたらそう顔に書かれていたかもしれないが、生憎、顔は見えない。俺の顔を見ているのだろう、頭の向きを向けたまま、しばし沈黙。少し溜息のような、欠伸のような呼吸音が聞こえた。
ぐちゃ、と、嫌な音がする。
「気にしないでください」
手に取ったベタベタな内履き。持つ。下ろす。履く。歩く。内履きとは思えない粘液の音をさせ、通りかかる人に避けられながら、まっすぐ教室に向かって行った。
あの人に話しかけた俺も、珍しいものを見るような目で見られる。気恥ずかしくなって、図らずしも足跡を追うことになった。
甲高い笑い声が響いている。周囲の目線から避けるように下を向いていた目線を上げると、目的地の教室の扉付近に、前を歩いていたその人がいる。
……足元は、さっきとは違う様子で濡れている。
遠巻きに背後に回って、奥の扉に向かう。
「なんでその靴でくんだよ! きったねーな!」
「バケツ用意しておいて正解だったねー!」
「一昨日の雨水とか誰が用意しておいたんだよ!」
「用意はしてねぇよ。バケツ置いただけー」
「それだよ!」
甲高い声の発生源が、一際大きく空気を揺らす。見慣れた光景のはずなのに、何故かいつもと感じ方が違う。教室を照らす日が眩しいからか。いつもより人数が多いからか。声がうるさいからか。扉から離れているからか。
―― わからない。
その人は雫を垂らしながら教室に入る。周囲の人間に避けられながら、自身の机に荷物を置いた。後ろのロッカーから、体操服を入れる指定のバッグをとりだす。それを持ったまま、教室を抜けていった。
「……ぷっ、アハハハハハ!!」
笑い声が鼓膜を突き抜ける。彼女がいたところは水が溜まっている。足早に、後ろの扉から教室に入った。
「おー、いっちーおはよー」
「おはよ……」
クラスメイトに声をかけられる。何とか取り繕って挨拶を返すが、「どうした?」とバレバレだった。
「いや、目の前で辛城がいじめられてるの見ちゃって……」
「あーなるほどなー。あいつら今日も変わらずひっでーよなぁ」
「な……」
教室に入っても、テレビの中の出来事でしかない。クラスの一番派手なグループは、辛城が置いていったカバンの周りに集まっている。それを見て見ぬふりして着々とカバンの中身を出す。
「そういえば髪色いいじゃん」
「ん、あぁ、気分転換にな」
「大丈夫か? 親厳しいんだろ?」
「まあ……あんまり会わねぇしな」
「ふーん。今度俺にもやってよ」
「任せろ」
扉付近の水たまりに驚いて、しかしそのままクラスの中に入ってきた教師が号令をかける。なぜ水たまりになっているか、疑問にも思わず。というより、疑問に思わずもとも、理由なんてわかってるんだ。辛城は、クラス全員からイジメられている。数カ月、もしかしたら数年前からの事実。見て見ぬ振りも、また同じぐらい。
一人が欠けたまま、今日の日常は進んでいく。
・♢・
夜の闇にネオンが輝く、大人しか入ることが許されない場所。そこに、大人っぽく化粧をして、黒く肩下まである長い髪を巻いて、色っぽい恰好をした彼女がいた。
背が高くて髪色が明るくて、アクセサリーをジャラジャラつけて、とんがった靴を履いていて、いかにも「遊んでます」といった出で立ちの男と腕を組んでいた。
その時は、ただ目を奪われただけだった。年上の綺麗なお姉さんが、危ない遊びをしている。ただそれだけだったのに。ちらりと見えた彼女は、そこらへんに輝いているネオンの光を一切受け付けず……いや、すべてを飲み込むような、黒い瞳をしていた。
その瞳に、俺の目も吸い込まれた。
そんなことがあった次の日。いつも通り夜更かしした結果のあくびを噛み殺しながら、学校の下駄箱についた。内履きと外履きを履き替えると、ふと泳いだ視線が、一際目立つ下駄箱に漂流する。
『来るな』『バーカ』『死ね』
見慣れたそれは、いつも自己主張が激しい。誰も消そうとせず、むしろ重ねて書いているから。黙認。それは俺に限らず、周りも、本人もだった。
眠気で開ききらない目に、バサバサの黒髪が映る。制服。手が伸びて、漂流先の下駄箱が開く。
どろっ。隙間から、何かが垂れてくる。透明だけどどこか白っぽい。嗅いだことのある匂い。技術室? 自室? トイレ?その垂れ出たものを目で追う。重力に逆らわずに落ちたそれは、足元の簀子にシミを作る。
―― あーあ。さすがにやりすぎじゃね?
間違いなく、同情。他人事だからこそ思うし、思うだけ。余計なことに首は突っ込まない。他人に自分のキャパを割いている余裕なんてない。巻き込まれるなんてごめんだし、巻き込まれたくもない。見なかったことにして通り過ぎようとした。
その時。風が吹いて、手入れなんてほとんどされていないような髪に隙間ができた。
―― お。
普段から、この人のことは知っていた。陰気で、顔が見えなくて、声も聞いたことがないけど。名前は知ってても『下駄箱の人』という認識でしかなかった。興味がある、と考える前に、反射的に曝け出された顔をガン見する。
青白くて不健康そうな肌。カサカサの唇で、一本に結ばれた口。黒縁眼鏡。顔の半分は眼鏡が覆っている。深いクマと、眠そうに半開きの目。
―― すべてを飲み込むような、黒い瞳。
息を飲んだ。頭で考えるよりも早かった。こいつは。この人は。このいじめられっ子は。
辛城(しんじょう)は。
―― 昨日の夜に目を奪われた、あの人だ。
「あのさっ」
すぐ、しまったと顔に出たことだろう。得意の猫被りは突然のことには対応不可能。すでに陰気を完璧に纏った彼女は、億劫に、鬱陶しそうに体を捻る。
「……なんですか」
初めて聞いた声は思ったよりも……いや、見た目通りに綺麗ではない、掠れていた。
「あ、いや……だ、大丈夫?」
それこそ、何が、だ。大丈夫じゃないことぐらい、見てわかるだろうに。もしかしたらそう顔に書かれていたかもしれないが、生憎、顔は見えない。俺の顔を見ているのだろう、頭の向きを向けたまま、しばし沈黙。少し溜息のような、欠伸のような呼吸音が聞こえた。
ぐちゃ、と、嫌な音がする。
「気にしないでください」
手に取ったベタベタな内履き。持つ。下ろす。履く。歩く。内履きとは思えない粘液の音をさせ、通りかかる人に避けられながら、まっすぐ教室に向かって行った。
あの人に話しかけた俺も、珍しいものを見るような目で見られる。気恥ずかしくなって、図らずしも足跡を追うことになった。
甲高い笑い声が響いている。周囲の目線から避けるように下を向いていた目線を上げると、目的地の教室の扉付近に、前を歩いていたその人がいる。
……足元は、さっきとは違う様子で濡れている。
遠巻きに背後に回って、奥の扉に向かう。
「なんでその靴でくんだよ! きったねーな!」
「バケツ用意しておいて正解だったねー!」
「一昨日の雨水とか誰が用意しておいたんだよ!」
「用意はしてねぇよ。バケツ置いただけー」
「それだよ!」
甲高い声の発生源が、一際大きく空気を揺らす。見慣れた光景のはずなのに、何故かいつもと感じ方が違う。教室を照らす日が眩しいからか。いつもより人数が多いからか。声がうるさいからか。扉から離れているからか。
―― わからない。
その人は雫を垂らしながら教室に入る。周囲の人間に避けられながら、自身の机に荷物を置いた。後ろのロッカーから、体操服を入れる指定のバッグをとりだす。それを持ったまま、教室を抜けていった。
「……ぷっ、アハハハハハ!!」
笑い声が鼓膜を突き抜ける。彼女がいたところは水が溜まっている。足早に、後ろの扉から教室に入った。
「おー、いっちーおはよー」
「おはよ……」
クラスメイトに声をかけられる。何とか取り繕って挨拶を返すが、「どうした?」とバレバレだった。
「いや、目の前で辛城がいじめられてるの見ちゃって……」
「あーなるほどなー。あいつら今日も変わらずひっでーよなぁ」
「な……」
教室に入っても、テレビの中の出来事でしかない。クラスの一番派手なグループは、辛城が置いていったカバンの周りに集まっている。それを見て見ぬふりして着々とカバンの中身を出す。
「そういえば髪色いいじゃん」
「ん、あぁ、気分転換にな」
「大丈夫か? 親厳しいんだろ?」
「まあ……あんまり会わねぇしな」
「ふーん。今度俺にもやってよ」
「任せろ」
扉付近の水たまりに驚いて、しかしそのままクラスの中に入ってきた教師が号令をかける。なぜ水たまりになっているか、疑問にも思わず。というより、疑問に思わずもとも、理由なんてわかってるんだ。辛城は、クラス全員からイジメられている。数カ月、もしかしたら数年前からの事実。見て見ぬ振りも、また同じぐらい。
一人が欠けたまま、今日の日常は進んでいく。
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