『突然ごめん。今日会える? 話したいことがあるから家に行きたいんだけど』
『わかりました』


 塾を出てすぐに、約束を取り付けた。頭の中は模試と受験と、辛城への言葉ばかり。
 曇った冬の空は今にも雪が降りだしそうなほど冷気を醸し出している。けれどこの地域では早々雪が降ることはない。そんなロマンチックな展開が起こるのは、創作の中だけだ。
 足が重い。けれど、早く行きたい。気持ちは急いているのに、心は後ろを向きたくなっている。
 早いとか、遅いとか。早くとか、遅くとか。到着してからどう思ったかで、本心がなんとなくわかると常日頃から思っていたけれど。どうしてか、今日はどちらも思わなかった。思えなかった。記憶が、飛んでいた。


 ―― げんかんのまえに、しんじょうがいる。


 こちらにはまだ気づいていない。両手を口元に添えている。真冬の夜中に、マフラーを巻かずに上着だけ。
 寒いだろう。いつからいるんだ。そんな風に待っていなくてよかったのに。俺がくるからって。俺のためにそんなこと、しなくていいのに。俺は、今から……君になって言えばいいんだ。
 足が止まっていた。冷たい空気の中で立ちすくむ。早く行かないと、辛城が。地面を擦りながら足を動かす。
 彼女と目があった。顔の横で、手のひらが向けられる。動きが固い。
 足が早くなった。


「おつかれさまです」


 唇は紫(あお)かった。


「ごめん、中で待っててよかったのに」
「なんとなくね」
「いや、それで体調崩したら……」
「……きみが、いつもと違うような気がして」
「……」
「気が気じゃなくて、つい」


 はは、と笑っているような言葉を言いつつも、その顔に血の色はない。目や口の端っこだけが微かに動いていた。締め付けられる。視界が歪む。歯が軋む。……苦しく、なる。


「中で……話していい?」
「そうしよっか。流石に寒すぎたね。ココア見つけたから入れるよ」


 暖房のおかげで室内は安心するほどに暖かい。こんなに暖かい場所があるのに、なんで出てたんだと責めたくなるのを堪えた。
 寒いところから、暖かいところへ。
 俺より小柄な彼女は、上着を脱いで奥へ進む。体が痺れるのは、きっと、温度差のせいだ。靴だけ脱いで、彼女の背中を見つけた。


「待ってね、お湯沸いてるからすぐできるよ」
「あの、さ」
「……うん」


 背中が、向きを変える。まだ白い顔をしている彼女は、怒っている様子も呆れている様子もなく、俺を見つめる。目線があって、思わずそらして、もう一度見る。柔らかいカーブを描いている睫毛の隙間へ、室内灯が差し込んでいる。


「模試なんだけど」
「うん」
「……あとちょっと、ってところなんだ」
「うん」
「本番までももう少しで……できれば、なんだけど」
「集中してやったほうがいいと思う」
「……うん」
「明日からは来ちゃダメだよ。私のことを気にしちゃうでしょ。ありがたいけど、今はダメ」
「うん」
「大事なタイミングだよ。私に気を遣わず、自分のやりたいことのために頑張れ」


 ―― やりたい、こと。


「私は君に助けられた。恩人のようなもの。君の負担にはなりたくないよ」
「恩人って大袈裟な」
「ううん。私にとっては恩人なの」
「そう、か」
「うん。だから、全力で応援してる。ずっとずっと応援してる」
「……ありがとう」


 背中を向けた。よし、という掛け声の後、電気で沸いたお湯を、マグカップに注いだ。また振り向いて、近づいてきて。少しだけ温かみのある両手を俺の冷えた頬に添えた。


「……もしよかったら、試験が終わったら、来てほしいな」
「……わかった」
「ありがとう。頑張って」
「ありがとう」
「うん。元気で」
「うん」


 マグカップが温まる。透明なままの液体が、冷めていく。


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