「ん……?」
「ん?」


 無意識に声に出ていた呟きが、誰かに拾われた。横風と正面からの日光が、視界の外側にいた声の主の存在を浮き上がらせる。


「しん、じょう?」
「びっくり。こんにちは」
「こんちは……」


 彼女だった。長袖パーカーのフードをかぶって、スエット生地のズボンを履いて、ボロい靴を履いている。ラフすぎる格好が彼女らしい。


「もう帰るの?」
「え、うん」
「……ちょっと、話せないかな」
「大丈夫」
「ありがとう。ちょっと待ってて」


 駆け足で郵便局に入って行った。辛城が郵便局に、というのはなんとなく意外に感じる。
 彼女の姿が見えなくなって、自分の鼓動の速さに気がついた。
 心臓を握る。


「……単純バカ」


 俺という生き物は、意識して呼吸しないといけない存在のようだ。


 ・♢・


「お待たせ」


 五分経ったか、三十分経ったか。ようやく整ってきた拍動(びょうしん)が、その瞬間にまた狂わされた。
 フードではっきり見えなかった顔だが、俺を見上げることで光を取り入れる。日本人にしては少し深い彫り。陰影がお互いに主張し、それはまるで彫刻のようにも思わせる。
 普段よりも力強さのある表情だ。


「歩きながらでもいいですか?」
「うん」


 辛城は来た道をなぞり始めた。
 足と手が交互に揺れる。秋の風が吹いて、唇を乾かす。子どもたちが楽しそうに遊び、開かれた車窓が運転手の髪を揺らす。そうして意識しないようにしている自分を風が揶揄う。


「暫く連絡出来なくてすみませんでした」
 最初は謝罪。それは俺の最近の悩み。
「心配したよ。どうしたの?」
「……調子悪くて、寝込んでました」
「え……、って、顔色いつも悪いもんね。無理させちゃったかな。もう大丈夫なの?」
「うん。しっかり休みました。知恵熱みたいなものです。ご心配おかけしてすみません」
「大丈夫ならよかったよ」


 本当に。数日の重さが軽くなった瞬間だった。
 それを察してかわからないが、横目が合った。口角は上がって、眉と目尻が下がる。一方の俺は瞼と心拍が上がる。


「て、テストはどうだったの?」


 次に大事なこと。体調を崩してまでやり切った試練(イベント)
 聞いた瞬間、視界の端で彼女の体が一瞬固まった。


「郵便局に来る前、学校に行ってきました」


 そう言って、彼女はカバンの中から二つに折られたレシートみたいな紙を出す。俺もよく知る、テスト結果が全て書いてあるヤツ。
 横列で教科。その下に自己点と平均点、学年順位。赤点のところは自己点が赤くなっているものだ。
「どうぞ」と一声付きで渡される。覚えのある、背中を伝う汗。貴重な湿気が心地悪い。


「……失礼します」


 異様に硬い手と指が、紙の表面を晒す。
 俺の視界に映る赤はどんなものだったか。思い出すための時間を稼ぐ間はなかった。


「……………………ふむ」
「これでもいつもより頑張れたんですよ」
「う、うん」
「笑わないでくださいよ」
「ごめん」


 自分じゃ見た事のない数字の羅列に、別の緊張が身を駆けた。けれど、辛城の拗ねたような言葉に笑ってしまった。たった一枚の、大きくはなく薄っぺらい、モノクロの(セカイ)


「ありがとうございます。赤点は回避出来ました」


 差す(いろ)がないからこそ。それがむしろ、輝いているようにも見えた。


「よかった……」


 努力が実るって、嬉しい。自分のことのように誰かの努力を喜べたのは、いつぶりだろうか。ここしばらくの体の緊張がほぐれた感覚がした。


「それで、相談なんですけど」
「うん?」


 テストが無事で安心して、お礼と言うことで飲み物をもらった。自販機で買った缶コーヒー。公園のベンチに座って、微糖と無糖で乾杯した矢先の言葉。飲み始めていた甘いそれを胃に収める。


「たぶん、受験で忙しくなると思うんですけど、合間にまた、勉強を教えてくれませんか?」


 フード越しの目が、控えめに見上げてくる。
 それはもう、返答は決まっている。


「大丈夫だよ」
「本当に? 無理じゃない?」
「うん。俺も、辛城に勉強を教えてから調子いいんだ。辛城の言う通り受験で忙しくはなっちゃうんだけど、時間が合う時でよければ」
「嬉しい。ありがとう」


 黒いそれを、顔を日に当てながら注いだ。
 伏していた瞼は弧を描き、頬はふっくらとしている。
 満たされているのはどちらのナニか。