少し戻って、勉強会の初日の朝。学校ではいまだにいじめられている。辛城にどうやって話しかけるかを考えながら下駄箱を開けた。
というのも、勢いで決まった勉強会について、いつからやるかとか、どこでやるかとか、内容はともかく初回について何も話さずに今に至るからだ。連絡先さえ知っていればよかったのだが、それさえもない。
単純ミスが過ぎる。たぶん、あの家にいたから変な方向へ意識が向いていたんだ。
「あてっ」
靴を履こうとしたら、何かを踏んづけた。上履きの中に何か入っている。トキメキ展開を期待するなんてことはなく、むしろ直前までいじめられっ子について考えていたので冷や汗が流れた。恐る恐る足を避けたら、入っていたのは折り畳まれた『紙』。何かが書かれ、千切られた厚紙。
「……メモ? ごみ?」
なんだこれ。広げて見れば『数』と書かれている。なんとなく触ったことのあるそれは、数学の教科書だ。朝のざわめきに紛れた呟きとともに、やけに小さい教科書を取り上げた。
一体何のだろう。広げて見れば、裏面に他の押しつぶすように、太い文字で書いてあった。
『夜、時計台で』
全身に力が入りかけた。紙よりは少し強い小さな手紙を握り潰してしまうところだった。
誰からとは書いていない。それは学校での立場による配慮か、書かなくてもわかるだろうということか。どちらだとしても、確定で俺にこれを渡すような相手は一人しか思い当たらない。
下駄箱で、ただくしゃくしゃの紙を見ているだけの俺に向けられる視線に気づいた。手紙を隠すようにポケットに入れて、何食わぬ顔で靴を履き替えた。
「いっちーおはよー」
「はよ」
「……風邪か?」
「え?」
「なんか顔色変だ――」
「なんでもないよ」
「ふぅん?」
クラスメイトは不思議そうに見てきた。まだ残暑が残っているんだから、多少の火照りはあるだろう。なんなら汗だってかいているんだから。
なるべく不自然のないように深呼吸。教室の中は冷房が効いていて少し寒い。呼吸しながら教室の中を盗み見ていたが、辛城の姿はなかった。一日を通して、彼女の机は傷だらけの空席だった。
その日の待ち合わせにはむしろ先に来ていた。時計台近くの、花壇のようなベンチに座っている。サイズの合っていない大きいパーカーでフードを被って、血色の悪い細い足を出して。手元にはノートが開かれている。
顔なんてほとんど見えないのに、なぜか姿形と雰囲気でその人だとわかった。
少しの緊張。汗ばんでいるのは暑さのせい。
「っ、よ」
「こんばんは」
意を決した軽やかな挨拶は、丁寧に返される。
閉じたノートをカバンにしまった。スラリと立ち上がり、「行こうか」とかっこよく誘われる。
「今日は塾?」
「うん。いつから待ってたの?」
「……あんまり時間見てなかった」
「ええぇ……」
「大丈夫よ。時間なんてあっという間に過ぎるんだから」
リップだろうか、潤った唇が小さく弧を描く。
どことなく説得力のない全体とのアンバランス。
「コンビニ寄ろう」
「うん?」
「頭働かせるならなんか食べよう。あと水分。顔色悪いよ」
「うーん、大丈夫だけど、ありがとう」
「あと……連絡先、教えて」
「そう、だね」
パンと、おにぎりと、お菓子と、飲み物。体調崩しませんように、と、ちょっと違和感のある願いをこれらに託す。どれだけ待たせたのかわからない、ちょっとした罪悪感。道すがらに自分が飲めば、辛城もつられて一口。
勉強について話しをしながらの帰り道。実はもう三度目となる辛城の家。変わらず緊張するのは、致し方ないだろう。
誰もいない蒸し暑い家に「ただいま」と。上ずらないように細心の注意を払いながら「お邪魔します」と。
気のせいか良い匂いがする。家の冷房がついて、匂いが一層ふわりと舞う。
買ってきたものは冷蔵庫に。その唯一、快適な環境から取り出された麦茶を二人でいつかのように飲む。ごくり、と鳴った。
「それじゃあ、さっそくお願いします」
「ヨロシクオネガイシマス」
・♢・
というのも、勢いで決まった勉強会について、いつからやるかとか、どこでやるかとか、内容はともかく初回について何も話さずに今に至るからだ。連絡先さえ知っていればよかったのだが、それさえもない。
単純ミスが過ぎる。たぶん、あの家にいたから変な方向へ意識が向いていたんだ。
「あてっ」
靴を履こうとしたら、何かを踏んづけた。上履きの中に何か入っている。トキメキ展開を期待するなんてことはなく、むしろ直前までいじめられっ子について考えていたので冷や汗が流れた。恐る恐る足を避けたら、入っていたのは折り畳まれた『紙』。何かが書かれ、千切られた厚紙。
「……メモ? ごみ?」
なんだこれ。広げて見れば『数』と書かれている。なんとなく触ったことのあるそれは、数学の教科書だ。朝のざわめきに紛れた呟きとともに、やけに小さい教科書を取り上げた。
一体何のだろう。広げて見れば、裏面に他の押しつぶすように、太い文字で書いてあった。
『夜、時計台で』
全身に力が入りかけた。紙よりは少し強い小さな手紙を握り潰してしまうところだった。
誰からとは書いていない。それは学校での立場による配慮か、書かなくてもわかるだろうということか。どちらだとしても、確定で俺にこれを渡すような相手は一人しか思い当たらない。
下駄箱で、ただくしゃくしゃの紙を見ているだけの俺に向けられる視線に気づいた。手紙を隠すようにポケットに入れて、何食わぬ顔で靴を履き替えた。
「いっちーおはよー」
「はよ」
「……風邪か?」
「え?」
「なんか顔色変だ――」
「なんでもないよ」
「ふぅん?」
クラスメイトは不思議そうに見てきた。まだ残暑が残っているんだから、多少の火照りはあるだろう。なんなら汗だってかいているんだから。
なるべく不自然のないように深呼吸。教室の中は冷房が効いていて少し寒い。呼吸しながら教室の中を盗み見ていたが、辛城の姿はなかった。一日を通して、彼女の机は傷だらけの空席だった。
その日の待ち合わせにはむしろ先に来ていた。時計台近くの、花壇のようなベンチに座っている。サイズの合っていない大きいパーカーでフードを被って、血色の悪い細い足を出して。手元にはノートが開かれている。
顔なんてほとんど見えないのに、なぜか姿形と雰囲気でその人だとわかった。
少しの緊張。汗ばんでいるのは暑さのせい。
「っ、よ」
「こんばんは」
意を決した軽やかな挨拶は、丁寧に返される。
閉じたノートをカバンにしまった。スラリと立ち上がり、「行こうか」とかっこよく誘われる。
「今日は塾?」
「うん。いつから待ってたの?」
「……あんまり時間見てなかった」
「ええぇ……」
「大丈夫よ。時間なんてあっという間に過ぎるんだから」
リップだろうか、潤った唇が小さく弧を描く。
どことなく説得力のない全体とのアンバランス。
「コンビニ寄ろう」
「うん?」
「頭働かせるならなんか食べよう。あと水分。顔色悪いよ」
「うーん、大丈夫だけど、ありがとう」
「あと……連絡先、教えて」
「そう、だね」
パンと、おにぎりと、お菓子と、飲み物。体調崩しませんように、と、ちょっと違和感のある願いをこれらに託す。どれだけ待たせたのかわからない、ちょっとした罪悪感。道すがらに自分が飲めば、辛城もつられて一口。
勉強について話しをしながらの帰り道。実はもう三度目となる辛城の家。変わらず緊張するのは、致し方ないだろう。
誰もいない蒸し暑い家に「ただいま」と。上ずらないように細心の注意を払いながら「お邪魔します」と。
気のせいか良い匂いがする。家の冷房がついて、匂いが一層ふわりと舞う。
買ってきたものは冷蔵庫に。その唯一、快適な環境から取り出された麦茶を二人でいつかのように飲む。ごくり、と鳴った。
「それじゃあ、さっそくお願いします」
「ヨロシクオネガイシマス」
・♢・