「……お邪魔します」
手は、不自然な高さに上がって、下りる。その代わりに出された足が、相手の陣地に踏み入った。
明かりがつけられて、もう一度、既視感、と思う。部屋に違和感があるような、ないような。そんな断定できるほど来てもなければ、まじまじと見たわけでもないけれど。多少の緊張を隠すように唇に力を入れて、いつもより丁寧に靴を脱いだ。家の主がいる方に行けば、クッションを床に置いているようだ。
「今エアコン入れたから、ここ座ってて。お茶入れる」
すれ違って、残り香を残していく。なんとなく自分の考えに赤面して、それを隠すように座った。クッションと、背中のベッドが俺を受け止めてくれる。
涼しい風が汗ばんでいた頭に当たる。他人のではあるが、家の中というのが少しの安心感を与えてくれた。天井を見上げ、無意識に息が漏れた。こっそりと、部屋に響く生活音に耳を澄ませ、様子を探る。
足音が近づいてきた。
「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
「ふふ、どういたしまして」
マグカップを置く手が、一瞬震えた。氷が揺れて涼しげな音を鳴らす。部屋の熱気のせいか、胃の近くが熱い。
斜め前に座った辛城も似たようなマグカップを持って、二人して口元に運ぶ。真夏に飲む麦茶のなんとも言えない充足感。もったいなくて、でもどんどん求めてしまって、口の中に何度も継ぎ足す。氷がまた、カランと音を立てた。
「家の人への連絡は、大丈夫?」
「あ……今する」
スマホを手に取って、充電が半分程度まで減っていた。着信がいくつかきている。全部母親から。留守電はない。ただ、最後のメッセージに「連絡ください」とだけあった。
伏目がちにお茶を飲んでいる辛城を見た。電話をするのはなんとなく憚られた。メッセージの返信は当たり障りなく、そして否定されないように、「散歩してる。今日中には帰る」と打った。
家に帰ったのは21時。今の時間は22時。そんなにゆっくりしている時間はない。けれどもどうしても、気が向かない。
「適当に帰りなよ」
どき、とした。考えを見透かされたようで。
反射的に見れば、むしろ彼女の目線は俺に向いていない。四つ這いで身を乗り出して、俺の反対側にある本棚に手を伸ばしていた。その体勢から意識を逸らすように、手元を注視する。
「……数学?」
「そう」
座り直して、目の前のテーブルに冊子とノートを広げた。
また、既視感。今日授業でやっていた部分だ。開かれた冊子は、教科書のコピーだ。そういえば、今日は辛城は休みだった。
「苦手なの。数学。本当にわからない」
彼女は開かれたページの文字を睨めつける。どこか眠そうで、しっかりと見開かれることのない瞳に数式が映っている。り込んでしまった。真剣に見える。
見つめて、何も書かれていない真っ白な面に一筆、二筆。文字の多い数式を書き写して、止まった。シャーペンは辛城の指の腹を突く。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……共通項でまとめて」
「……きょう、つうこう」
思わず口を出せば、オウム返し。本人も意識していなかったのか、半開きの目が憎そうな相手からたまたま連れ帰った俺に向く。
―― 若干、口、開いてる。
二分の一から三分の二になった黒い瞳。うっすらと赤い唇が再度、「共通項」と言う。
「これの場合、xの四乗、三乗、二乗、単体、数字だけってあるでしょ」
「うん」
「見やすい順番に並び替えた後、乗数ごとにカッコでまとめて」
「うん……あ、ここ、分解できる」
「そうそう」
「それでこの公式?」
「そう」
引っかかりながら走っていたシャーペンが、つっかえが取れたように滑る。
辛城はぼそぼそと呟きながら数式を砕いていく。
「答え」
「正解……だったはず」
「……わあ……」
三分の二の瞳が、きらりと光った。なぜか潤んでいるそれは、いつもの眠そうなそれとは違ったように見える。頬が少しだけ色づいているのは、暑いからか。
勢いづいたのか、次の問題を書き写す。類似問題なので解き方はほぼ一緒。絶え間のないシャーペンの走る音。
今度は口を挟む必要はなさそうだ。
「……解けた」
達成感が口から漏れ出た。
手は、不自然な高さに上がって、下りる。その代わりに出された足が、相手の陣地に踏み入った。
明かりがつけられて、もう一度、既視感、と思う。部屋に違和感があるような、ないような。そんな断定できるほど来てもなければ、まじまじと見たわけでもないけれど。多少の緊張を隠すように唇に力を入れて、いつもより丁寧に靴を脱いだ。家の主がいる方に行けば、クッションを床に置いているようだ。
「今エアコン入れたから、ここ座ってて。お茶入れる」
すれ違って、残り香を残していく。なんとなく自分の考えに赤面して、それを隠すように座った。クッションと、背中のベッドが俺を受け止めてくれる。
涼しい風が汗ばんでいた頭に当たる。他人のではあるが、家の中というのが少しの安心感を与えてくれた。天井を見上げ、無意識に息が漏れた。こっそりと、部屋に響く生活音に耳を澄ませ、様子を探る。
足音が近づいてきた。
「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
「ふふ、どういたしまして」
マグカップを置く手が、一瞬震えた。氷が揺れて涼しげな音を鳴らす。部屋の熱気のせいか、胃の近くが熱い。
斜め前に座った辛城も似たようなマグカップを持って、二人して口元に運ぶ。真夏に飲む麦茶のなんとも言えない充足感。もったいなくて、でもどんどん求めてしまって、口の中に何度も継ぎ足す。氷がまた、カランと音を立てた。
「家の人への連絡は、大丈夫?」
「あ……今する」
スマホを手に取って、充電が半分程度まで減っていた。着信がいくつかきている。全部母親から。留守電はない。ただ、最後のメッセージに「連絡ください」とだけあった。
伏目がちにお茶を飲んでいる辛城を見た。電話をするのはなんとなく憚られた。メッセージの返信は当たり障りなく、そして否定されないように、「散歩してる。今日中には帰る」と打った。
家に帰ったのは21時。今の時間は22時。そんなにゆっくりしている時間はない。けれどもどうしても、気が向かない。
「適当に帰りなよ」
どき、とした。考えを見透かされたようで。
反射的に見れば、むしろ彼女の目線は俺に向いていない。四つ這いで身を乗り出して、俺の反対側にある本棚に手を伸ばしていた。その体勢から意識を逸らすように、手元を注視する。
「……数学?」
「そう」
座り直して、目の前のテーブルに冊子とノートを広げた。
また、既視感。今日授業でやっていた部分だ。開かれた冊子は、教科書のコピーだ。そういえば、今日は辛城は休みだった。
「苦手なの。数学。本当にわからない」
彼女は開かれたページの文字を睨めつける。どこか眠そうで、しっかりと見開かれることのない瞳に数式が映っている。り込んでしまった。真剣に見える。
見つめて、何も書かれていない真っ白な面に一筆、二筆。文字の多い数式を書き写して、止まった。シャーペンは辛城の指の腹を突く。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……共通項でまとめて」
「……きょう、つうこう」
思わず口を出せば、オウム返し。本人も意識していなかったのか、半開きの目が憎そうな相手からたまたま連れ帰った俺に向く。
―― 若干、口、開いてる。
二分の一から三分の二になった黒い瞳。うっすらと赤い唇が再度、「共通項」と言う。
「これの場合、xの四乗、三乗、二乗、単体、数字だけってあるでしょ」
「うん」
「見やすい順番に並び替えた後、乗数ごとにカッコでまとめて」
「うん……あ、ここ、分解できる」
「そうそう」
「それでこの公式?」
「そう」
引っかかりながら走っていたシャーペンが、つっかえが取れたように滑る。
辛城はぼそぼそと呟きながら数式を砕いていく。
「答え」
「正解……だったはず」
「……わあ……」
三分の二の瞳が、きらりと光った。なぜか潤んでいるそれは、いつもの眠そうなそれとは違ったように見える。頬が少しだけ色づいているのは、暑いからか。
勢いづいたのか、次の問題を書き写す。類似問題なので解き方はほぼ一緒。絶え間のないシャーペンの走る音。
今度は口を挟む必要はなさそうだ。
「……解けた」
達成感が口から漏れ出た。