土曜の朝、人で溢れる博多駅のコンコース。大きな電光掲示板には次々と列車の情報が表示され、その下では観光客や通勤客、そして僕達のような高校生たちがせわしなく行き交っている。約束の時間より少し早く着いた僕は、筑紫口側の二階にあるベンチへ移動し、人の往来を眺める。何も特別なことはない。特別なことはないが、いつもより少しだけ浮き足立ったような、自分でも説明しづらい感覚が心と体を揺らしていた。
 
「あ、いたいた。涼くん!」
 桜井さんの声が耳に飛び込む。振り向くと、いつもとは違う姿の桜井さんがそこに立っていた。風にそよぐ薄い水色のワンピースの裾、白のスニーカー、手に持った小さなリュック。普段の制服姿とはまるで別人のような彼女の姿に、言葉が出てこない。彼女の私服姿を見たのはこれが初めてだったからか。いや、もしかしたら、その姿があまりに愛らしくて、心がその印象に追いつかなかっただけなのかもしれない。
「私の恰好、そんなに変かな……」
「えっと、そうじゃなくて、ほらお互い私服で会うの初めてだからさ。なんというか、その……」
 桜井さんは照れくさそうに笑っていたが、その表情の奥に嬉しさが見え隠れしている。どう言葉を返そうかと考えていると、いつの間に到着していたのか、横から蓮太郎がすっと現れ、肩を叩いてきた。
「娘の花嫁衣裳を観た時のお父さんみたいやな」
 蓮太郎は悪戯っぽく笑い、その言葉に動揺を隠すように顔を逸らし「いや、別にそういうんじゃないけど……」と返すと、蓮太郎はますます楽しそうに笑った。桜井さんはそんなやり取りを見て、くすくすと笑う。
「じゃあ行こうか。今日は水族館だから、楽しみだね!」
 桜井さんが僕達の腕を軽く引っ張りながら、賑わう駅の中を歩き出す。彼女の明るい声は緊張を解きほぐし、その足は自然と前に進んだ。

 博多駅から香椎駅までは快速電車で移動し、そこで香椎線に乗り換えて海ノ中道駅へ向かう。電車の中はほどよく空いていて、窓際の席に座った僕達はゆったりと流れる景色を楽しんでいた。
 都市の風景が次第に緑に変わり、やがて遠くには博多湾の青が広がっていく。桜井さんは窓の外を眺めながら「今日は海水浴日和だね」と呟く。
「私たち、普段は学校と家の往復だから、こうして電車でどこかに行くのもいいよね」と体を社内の方へと向き直し、両足を小さく揺らしている。
「確かにな。自転車で行ける距離ばっかりやけん。電車に乗る機会も中々ないわな」
 蓮太郎はスマホで漫画を読みながらも、時折顔を上げては話しかけてくる。窓の外の風景に目をやりつつ、ふと桜井さんの無邪気な様子を横目で見て、自然と口元が緩んだ。
「涼くん、何か見つけたの?」
 彼女が突然こちらに振り向いたので、「……あ」と言葉に詰まった。でも景色にこれといった感想があるわけでもない。
「いや、まあ普通に……綺麗だな、と」目を泳がせながら曖昧に答える。「だよね。ああ、水着持ってきて泳ぎたかったなぁ」と桜井さんは少々残念気味だ。

 海ノ中道駅に着くと、マリンワールドまで徒歩でわずか5分。歩いている途中、桜井さんは歩道沿いに咲く花に目を留めたり、「ここも写真に撮っておきたいな」と道端に広がる景色を見ている。
「観光客みたいやな」と蓮太郎が笑ったが、桜井さんは「いいでしょ別に。こういうのも楽しいじゃん」と全く気にしていなかった。
 そして、巨大な水族館が姿を現した。白のアーチ状の建物が青い空に映え、入り口には大きな海の生物たちのポスターが掲げられている。
 僕達はチケットを購入し、入り口を抜けると、館内は水族館特有の涼しさと淡い照明に包まれていた。
「わくわくするなあ。どう?涼くん」
 桜井さんがそう言って目を輝かせた。
「いや、まだロビーだからなんとも。桜井さんは何度も来たことあるんでしょ?反応が初見の人みたいだけど」
「来るたびに展示内容とかは変わってるからね。それにこういう非日常の空間は何度来ても気持ちも昂るのよ」
 彼女の言葉に、蓮太郎も「そうやな。エアコン効いて涼しいし」と同意した。非日常ではない意見が飛び出したので苦笑いを浮かべながらも、この空間に心地よさを感じていた。
 最初に三人が向かったのは魚たちの展示エリア。色とりどりの魚たちが水槽の中を優雅に泳ぎ回り、その姿はまるで絵画のようだ。しかし、その美しい景色の背後から、蓮太郎の魚に関する雑学が何故かついてくる。
「この魚は、カワハギの仲間なんやけど、こいつらは意外と性格が荒いけん、他の魚と一緒にすると結構喧嘩するんよな」
「へえ、そうなんだ」
 桜井さんは蓮太郎の解説を興味深く聞いていたが、そのたびに少しずつ集中力が削がれていくのを感じていた。
「で、この次の魚がハリセンボンで……」
 蓮太郎はなおも続けた。その場の雰囲気を壊さないように頷きつつも、心の中で「静かにしてくれないかな」と思わずにはいられない。

 大水槽の前に立った時、その迫力に圧倒された。巨大なガラス板の向こうには大きなサメやエイ、そして群れを成して泳いでいる無数の小さな魚たち。光が水面で屈折し、まるで自分が海の中にいるような錯覚に陥る。
「すごいね、ほんとに海の中にいるみたい」
 桜井さんが感動しているのはすぐに分かった。彼女の目は大水槽に釘付けで、時折歓声を上げる子供たちと一緒に笑顔を浮かべていた。その景色に多少なりとも感動していたが、ふと感じた違和感を口にした。
「こんなに広くても、魚たちはここに閉じ込められてるって感じたりするのかな」
「こいつらは保護されとるけん、こうやって長く生きられるんやろ。自然の中やったら、もっと寿命も短くて、環境も過酷なはずやしな。絶滅を防ぐためには、こうやって守られることも必要なんやと思うよ?」
 確かに。蓮太郎の言葉には一理ある。桜井さんの表情には特に批判も賛同もなかった。ただ、二人の意見の交換を楽しんでいるようにも見えた。
 水槽の魚たちは静かに限られた空間を、でも自由に泳ぎ続けていた。

 大水槽を後にして、僕達はタッチプールのエリアへと向かう。子供たちの賑やかな声が響き渡り、浅いプールにはヒトデやナマコ、ウニといった海の生き物がゆっくりと動いている。その光景を見た桜井さんは、「触ってみたい!」と目を輝かせながら駆け寄った。
「わぁ、ヒトデって触ってみると結構硬いんだ」
 桜井さんが指先でヒトデをつついていると、蓮太郎がすかさず横に割り込んできた。
「で、これがナマコ。触ってみ、プニプニしとるけん」
 蓮太郎は自信満々にナマコを手に取ってみせた。彼の様子を見て「さすがにそれは……」と一瞬ためらったが、桜井さんは興味津々の顔で近づいてきた。しかし、実際に触れる寸前で手を止め、眉をひそめた。
「う……なんかヌメヌメしてそう……いやあ、ちょっとこれは無理かも」
「何や、怖いん?桜井でもそんなことあるんやな。ほら、触ってみぃ?」
 桜井さんが苦笑いしながら手を引っ込めたが、蓮太郎はニヤニヤしながら、からかっている。
「うーん……ナマコはちょっと……ね。」
「そんなこと言わんで、ほら!」
 蓮太郎がナマコをぐっと近づけてきたので、桜井さんは思わず後ずさりして「ちょっと!やめてよもう!」と声をあげた。 
 そのやり取りを見て笑いながら、「あんまり無理させるなよ、ナマコに」と一番の被害者を心配した。
「大丈夫大丈夫、ほら涼も触ってみらんや」
 今度は僕にナマコを差し出してきたので、仕方なく手を伸ばす。触れると予想通りの感触だったが、やはりこの柔らかさとヌメヌメ感には少し抵抗があった。
「うーん、これは……好き嫌い分かれる感じだな」微妙な顔で手を引っ込めた。
「やっぱり私もヒトデがいいかな。ナマコは見てるだけでお腹いっぱいです」
「かわいそうに。お前随分と嫌われちまったな」
 蓮太郎はナマコに話しかけながらを水に戻すと、桜井さんは、ほっとした表情でヒトデをもう一度手に取り、楽しそうにつついていた。

 タッチプールを離れた後、僕達はイルカとアシカのショーが行われる屋外の会場へと向かった。足を踏み入れると、涼しい風が頬を優しく撫で、遠くの水平線には光を反射してキラキラと輝く海が広がっている。観客席はほぼ満席で、子連れの家族やカップルたちが期待に胸を膨らませながら、次のショーの始まりを待っていた。
 桜井さんは「このために来たようなもんだよね!」と両手をすり合わせながら、やや興奮気味だ。
 ショーが始まると、イルカたちが音楽に合わせて水中を泳ぎ回り、ジャンプを繰り返した。そのたびに水しぶきが上がり、観客たちの歓声と拍手が響き渡る。彼女は手を叩きながら目を輝かせ、何度も「すごいね!」「かっこいい!」と声を上げていた。
「イルカってほんとにすごいんだな。こんなに高くジャンプできるなんて」
 蓮太郎が横から話に割り込んできた。
「イルカはさ、頭がいいけんトレーニングさえすれば何でもできるんよね。あれだけの技を覚えるのも、相当な努力が必要なんよ」
 相変わらずの知識披露がくどいのだが、桜井さんの手前特に何も言わなかった。
 続いてアシカが登場し、ボールを鼻で回したり、フラフープをくぐったりと、愛嬌たっぷりのパフォーマンスを披露した。桜井さんは大きな拍手を送り、「可愛い!萌える!」と何度も叫んでいる。
「アシカもすごいね。あんなに器用にバランス取れるなんて……」
 感心していると、蓮太郎がまたもや知識を披露してきた。
「アシカとアザラシの違いって知っとお?アシカはああやってあるけどアザラシは歩けないんよ。でさ、アザラシには耳がないけどアシカには耳が……」
 蓮太郎の話は既に右耳から入って左耳に抜ける状態だった。
 僕達はその後もショーを楽しみながら、たくさんの拍手を送り続ける。ショーが終わると、観客たちは一斉に立ち上がり、僕達もその波に飲まれるようにして席を立った。
 桜井さんは会場を見渡しながら「また見たいなあ」と呟く。その言葉に頷き、「また来ればいいよ」と言おうとしたが、彼女の悲しみとも寂しさとも言えない表情を見た時、その言葉は喉の先で止まった。

 最後はお土産コーナー。桜井さんは目を輝かせながら、棚に並ぶグッズを次々と手に取っては「これも可愛い!」「あ、こっちもいいなあ」と楽しそうに見て回っている。
「これとかどげん?定番やけどカクレクマノミのぬいぐるみとか」
 蓮太郎が手に取ったぬいぐるみを見せると、桜井さんは「うん、それも可愛いね」と頷きながらも、すぐに別のものに目を奪われた。
「見て、ダイオウグソクムシのぬいぐるみだって!これも可愛いかも」
 彼女がぬいぐるみを持ち上げた時、僕と蓮太郎は一瞬言葉を失った。
「いや桜井よ、それは……どうなん?」
 蓮太郎が呆れたように言うと、僕も「まあ、桜井さんらしいと言えばらしい……のかな?」と笑った。しかし桜井さんは全く気にせず、楽しそうにそのぬいぐるみを抱えていた。
「こういうのも可愛いと思うんだよね。なんか、見てると愛着が湧いてくるというか」
 最終的に桜井さんが選んだのは、小さなラッコのぬいぐるみだった。そのラッコは柔らかな毛並みと愛らしい表情が特徴で、桜井さんはそのぬいぐるみを嬉しそうに抱えていた。
「これにする!このモコモコ感、気に入りました!」
 僕と蓮太郎は「それならいいかも」とその選択に安堵の息を漏らす。
 
 その後、僕達はマリンワールドを後にして、帰りの電車に乗り込んだ。窓の外に目をやると、空は淡いオレンジと紫が溶け合い、水平線の向こうへとゆっくりと沈みゆく太陽が、名残を惜しむように世界を照らしている。
 疲れが出ていたけど、それがむしろ心地よい。桜井さんは先ほど買ったラッコのぬいぐるみを大事そうにバッグから取り出して、じっと見つめていた。
「今日はありがとう、二人とも。すごく楽しかった」
「そりゃよかった」と蓮太郎はスマートフォンを眺めながら軽く返事をした。
「でも涼くんが魚好きになってくれる事が本来の目的だったんだけどね……どうだった?」
「育てられるか自信はないけど、ちょっと飼ってみたいと思う。買うとしたらどんな魚がいいのかな」
「そうねぇ……ベタがいいんじゃないかな、綺麗だし他の魚よりも飼いやすいらしいから」
 スマートフォンで調べてみると、ヒレが優雅に長く、色とりどりの美しい魚が次々と表示される。
「なるほど、本当に綺麗だね。今度ペットショップに行ってみるよ」
「ふふ、よかった。水族館にいった甲斐があったわ」
 楽しい時間が終わるのはいつもあっという間で寂しいけれど、それでもまた次の約束があると思えば前向きになれる。
「またどこか行こうぜ。次は映える神社を巡ってみるか?」
 蓮太郎がそう言うと、桜井さんは「うん……いいね」と静かに頷く。
 博多駅に着くと、僕達はそれぞれの帰り道に向かって歩き出した。振り返ると、桜井さんはこちらを見て手を振っている。
「本当に……本当にありがとう!」
 まるで生涯の別れのような言葉に、戸惑いながらも手をふり返し、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
 
 そして、次の約束が果たされる事はなかった。