氷の針みたいな、冷たい声がした。
雛田先輩だった。その声に違わず冷たい目線を板山部長に向けている。
「ロクに練習する気もない、真剣に舞台を作り上げる気もない。だったらやらない方が遥かにマシだ」
雛田先輩がわたしたちを見下ろす。
その瞳の色は言葉に代えると――『軽蔑』だった。
「雛田!」
香西先輩が諫めるけど、雛田先輩はなおも続ける。
「去年みたいに中止にすればいいんじゃないのか。こんなやつらと、俺は関わりたくない」
言い捨てると、さっさと講堂から出ていった。
しばらくの間、沈黙。そして、
「何よ、あれっ!」
「クッソ性格悪い! ふつーヒトをこんなやつら呼ばわりするか!?」
「調子こきすぎじゃね!?」
一気に雛田先輩への不満を爆発させた。織屋先輩だけ、「顔はいいのになぁ……」と残念がった。
胸がドキドキしてる。ときめきじゃなくてプチ恐怖で。
確かにこの演劇部はゆるくてぬるい。真剣さに欠けるし、不真面目と言ってもいい。
でも、それを正面切って言う人、初めて見た。
成実ですら口に出さないのに。場の雰囲気が悪くなることが分かりきっているからだ。
(わたしには逆立ちしたって無理……)
さっきとは別の意味で、『生きる世界が違う』、と感じた。
「みんな、ごめんね」
香西先輩が謝ると、口々に「先輩は悪くないですー!」という声が上がる。
「でも困りました……雛田さんに台本渡してないし、連絡係も必要だし。まさか本当に中止にするわけにはいかないし」
板山部長がしょぼんとつぶやくと、成実が手を上げた。
「連絡係、羽鶴に任せたらどうですか?」
突然の提案に、心臓が飛び出るほど驚く。
「小山内さん? なんで?」
「たぶん気が合うと思うんですよ。雛田先輩も羽鶴も、『選ばれた側』だから。ね、羽鶴」
(成実……?)
織屋先輩が「選ばれた側ってどゆこと?」と尋ねると、成実が答えた。
「羽鶴、オーディションに受かったんですよ。前に言ってたアニメにレギュラーで出演するんです」
成実の声は明るかった。けれどその表情は、その目の色は、薄暗かった。
そんな成実を見るのは初めてで、わたしは冷たい手で首筋を触られたような寒々しさを感じた。
またもや講堂が驚きに満ちる。二年生の先輩たちがわたしを取り囲んだ。
「すごいじゃん、羽鶴ちゃん!」
「出演てことは、プロってこと? 高校生で!?」
「うわー今のうちサインもらっとこうかな!?」
キラキラした目と歓声を浴びせてくる、けど。
「よかったね、羽鶴」
それを横目で見ていた成実が、薄笑みを浮かべた。
ちっともよさそうな顔じゃない。就也は居心地悪そうにしている。
「じゃあ小山内さんに頼もうかな。はい、台本」
「あ、あの、部長、わたしっ」
無理です、とは言えなかった。
「雛田は一見とっつきにくそうだけど、中身はいいやつだよ。小山内さんにとってもいい刺激になると思う」
香西先輩がにっこり笑って、わたしは……。
押しに弱い自分を呪いたくなった。
薄い台本を片手に、講堂を出て、雛田先輩の足取りを追う。
もう下校しちゃってるかもしれない。
いやむしろ、その方がいい。あんな怖い人と関わるのは遠慮したい。
(成実……)
スマホを取り出し、LINEを開く。
今朝成実に送った「おはよう」は既読スルーされていた。いつもなら「おはよう」なりスタンプなり返すのに。
教室では返事してくれたけど、すごく素っ気なかった。
成実がああなった原因は、考えるまでもない。
わたしだけオーディションに受かったからだ。
(わたしなんかじゃ……そりゃムカつくよね……)
仕方ないこととはいえ、憂鬱だ。
どんどん重くなる足取りで、ひとけのない廊下を進む。すると雛田先輩の後ろ姿を見つけてしまった。
(え……?)
声をかけようとして、喉が詰まった。
廊下を歩く雛田先輩。背筋がピンと伸びて堂々としている。
そのまっすぐな背中の周りに、何か奇妙なものがふわふわ浮いていた。
黒い球体。でもその輪郭はぼんやりとしていて、黒カビのような……そうだ、『となりのトトロ』に出てくるまっくろくろすけに似ている。
そんな黒丸の影が、たくさん、雛田先輩の周囲を漂って……スゥ、とその肩に、鳥みたいに止まろうとした。
「あっ」
知らず、声に出していた。雛田先輩が振り返る。すると黒丸の影はパッと消えた。
(何、今の……)
見間違い? 幻覚?
静かに混乱するわたしに、雛田先輩が怪訝そうにねめつける。
「何か用か」
不機嫌さを隠そうともしない態度に、さっきの混乱は恐怖に塗り替えられてしまう。
「あ、あの、これ、台本……です」
びくびくと台本を差し出す。
雛田先輩は渋々といった様子で受け取り、パラパラと中身を確認した。
「……つまんねぇ脚本」
ぼそっと毒づき、わたしに突っ返した。
「あ、あの、受け取って頂かないと困りま」
「おまえ、一年生か」
依然目も合わせられないわたしに、先輩が遮った。
そうです、と恐る恐る答えた。
「香西から訊いた。声優志望なのか」
ギクリとした。即座にイエスと答えられる質問のはずなのに。
声優志望。
その何度も使った言葉が、急に重くて、大きくて、……さっきの黒丸の影みたいに得体の知れないもののように感じた。
喉がつっかえる。見えない手に首を絞められているような感じがする。
「……そ、そう、です」
そう答えるとほぼ同時に、先輩の冷たくて固い声が降ってきた。
「嘘つけ」
一瞬、頭が真っ白になる。
……今、何て。
顔を上げると、先輩が冷ややかにわたしを見下ろし……違う。見下していた。
「そんな声で、どこが声優志望だ」
そう吐き捨てると、雛田先輩は背中を向けてわたしの前から去っていった。
呆然と立ち尽くす。指先が冷えているのを感じる。外で強い風が吹いたのか、窓ガラスが震えた。
雛田先輩だった。その声に違わず冷たい目線を板山部長に向けている。
「ロクに練習する気もない、真剣に舞台を作り上げる気もない。だったらやらない方が遥かにマシだ」
雛田先輩がわたしたちを見下ろす。
その瞳の色は言葉に代えると――『軽蔑』だった。
「雛田!」
香西先輩が諫めるけど、雛田先輩はなおも続ける。
「去年みたいに中止にすればいいんじゃないのか。こんなやつらと、俺は関わりたくない」
言い捨てると、さっさと講堂から出ていった。
しばらくの間、沈黙。そして、
「何よ、あれっ!」
「クッソ性格悪い! ふつーヒトをこんなやつら呼ばわりするか!?」
「調子こきすぎじゃね!?」
一気に雛田先輩への不満を爆発させた。織屋先輩だけ、「顔はいいのになぁ……」と残念がった。
胸がドキドキしてる。ときめきじゃなくてプチ恐怖で。
確かにこの演劇部はゆるくてぬるい。真剣さに欠けるし、不真面目と言ってもいい。
でも、それを正面切って言う人、初めて見た。
成実ですら口に出さないのに。場の雰囲気が悪くなることが分かりきっているからだ。
(わたしには逆立ちしたって無理……)
さっきとは別の意味で、『生きる世界が違う』、と感じた。
「みんな、ごめんね」
香西先輩が謝ると、口々に「先輩は悪くないですー!」という声が上がる。
「でも困りました……雛田さんに台本渡してないし、連絡係も必要だし。まさか本当に中止にするわけにはいかないし」
板山部長がしょぼんとつぶやくと、成実が手を上げた。
「連絡係、羽鶴に任せたらどうですか?」
突然の提案に、心臓が飛び出るほど驚く。
「小山内さん? なんで?」
「たぶん気が合うと思うんですよ。雛田先輩も羽鶴も、『選ばれた側』だから。ね、羽鶴」
(成実……?)
織屋先輩が「選ばれた側ってどゆこと?」と尋ねると、成実が答えた。
「羽鶴、オーディションに受かったんですよ。前に言ってたアニメにレギュラーで出演するんです」
成実の声は明るかった。けれどその表情は、その目の色は、薄暗かった。
そんな成実を見るのは初めてで、わたしは冷たい手で首筋を触られたような寒々しさを感じた。
またもや講堂が驚きに満ちる。二年生の先輩たちがわたしを取り囲んだ。
「すごいじゃん、羽鶴ちゃん!」
「出演てことは、プロってこと? 高校生で!?」
「うわー今のうちサインもらっとこうかな!?」
キラキラした目と歓声を浴びせてくる、けど。
「よかったね、羽鶴」
それを横目で見ていた成実が、薄笑みを浮かべた。
ちっともよさそうな顔じゃない。就也は居心地悪そうにしている。
「じゃあ小山内さんに頼もうかな。はい、台本」
「あ、あの、部長、わたしっ」
無理です、とは言えなかった。
「雛田は一見とっつきにくそうだけど、中身はいいやつだよ。小山内さんにとってもいい刺激になると思う」
香西先輩がにっこり笑って、わたしは……。
押しに弱い自分を呪いたくなった。
薄い台本を片手に、講堂を出て、雛田先輩の足取りを追う。
もう下校しちゃってるかもしれない。
いやむしろ、その方がいい。あんな怖い人と関わるのは遠慮したい。
(成実……)
スマホを取り出し、LINEを開く。
今朝成実に送った「おはよう」は既読スルーされていた。いつもなら「おはよう」なりスタンプなり返すのに。
教室では返事してくれたけど、すごく素っ気なかった。
成実がああなった原因は、考えるまでもない。
わたしだけオーディションに受かったからだ。
(わたしなんかじゃ……そりゃムカつくよね……)
仕方ないこととはいえ、憂鬱だ。
どんどん重くなる足取りで、ひとけのない廊下を進む。すると雛田先輩の後ろ姿を見つけてしまった。
(え……?)
声をかけようとして、喉が詰まった。
廊下を歩く雛田先輩。背筋がピンと伸びて堂々としている。
そのまっすぐな背中の周りに、何か奇妙なものがふわふわ浮いていた。
黒い球体。でもその輪郭はぼんやりとしていて、黒カビのような……そうだ、『となりのトトロ』に出てくるまっくろくろすけに似ている。
そんな黒丸の影が、たくさん、雛田先輩の周囲を漂って……スゥ、とその肩に、鳥みたいに止まろうとした。
「あっ」
知らず、声に出していた。雛田先輩が振り返る。すると黒丸の影はパッと消えた。
(何、今の……)
見間違い? 幻覚?
静かに混乱するわたしに、雛田先輩が怪訝そうにねめつける。
「何か用か」
不機嫌さを隠そうともしない態度に、さっきの混乱は恐怖に塗り替えられてしまう。
「あ、あの、これ、台本……です」
びくびくと台本を差し出す。
雛田先輩は渋々といった様子で受け取り、パラパラと中身を確認した。
「……つまんねぇ脚本」
ぼそっと毒づき、わたしに突っ返した。
「あ、あの、受け取って頂かないと困りま」
「おまえ、一年生か」
依然目も合わせられないわたしに、先輩が遮った。
そうです、と恐る恐る答えた。
「香西から訊いた。声優志望なのか」
ギクリとした。即座にイエスと答えられる質問のはずなのに。
声優志望。
その何度も使った言葉が、急に重くて、大きくて、……さっきの黒丸の影みたいに得体の知れないもののように感じた。
喉がつっかえる。見えない手に首を絞められているような感じがする。
「……そ、そう、です」
そう答えるとほぼ同時に、先輩の冷たくて固い声が降ってきた。
「嘘つけ」
一瞬、頭が真っ白になる。
……今、何て。
顔を上げると、先輩が冷ややかにわたしを見下ろし……違う。見下していた。
「そんな声で、どこが声優志望だ」
そう吐き捨てると、雛田先輩は背中を向けてわたしの前から去っていった。
呆然と立ち尽くす。指先が冷えているのを感じる。外で強い風が吹いたのか、窓ガラスが震えた。