「成実、就也!」

 わたしが叫ぶと、ふたりがゆっくりと振り返った。呼吸が止まった。
 顔色が悪い、なんてものじゃない。成実と就也はゾンビみたいな様相だった。
 目の下の濃いクマに、コケた頬。何より瞳に色も光もない。
 まっくろだ。がらんどうだ。

(黒丸の影が……あんなに)

 最初に目にした時はいくつもなかったのに、今は砂糖に群がる蟻のように密集している。まるで真っ黒なマントだ。それに覆われて、成実と就也は案山子のように佇む。

 カサカサに乾いた唇で、成実が言った。

「どうして、あんたがオーディションに合格するの……」

 血走った目を見開いて。

「あたしが落ちたのに、なんであんたが……あんなに頑張ったのに……」

 前髪が乱れ、片目が隠れた就也が言った。

「どうして、おまえがオーディションに合格したんだ……」

 唇を噛み、血がひとすじ流れる。

「オレの方がよっぽどうまくジュニパーを演じられるのに……ジュニパーはオレの役だったのに……」

 地獄の底から響いてくるような声音で、成実と就也は――わたしの友達が、わたしへの恨み言を放ち続ける。
 耳を塞ぎたかった。いや、いっそ鼓膜を破りたかった。
 こんなの聞きたくない。友達なのに。ずっと一緒に夢を見てきた友達なのに。

「……っ!」

 こらえきれない涙が、土砂降りと化した雨と混ざり合う。

「あたしに譲ってよ、羽鶴。あたし、このままじゃ声優の夢を諦めなきゃなんないの。お金がないだけで、小さい頃からの夢を捨てなきゃなんないの……嫌、嫌よ。あたし声優になりたいの!!」
「オレに譲ってくれ、羽鶴。オレは本当にジュニパーが好きなんだ。羽鶴は少年声は苦手だって言ってたよな? 無理して身の丈に合わない役をすべきじゃない、それは後で絶対に苦しむことになる……」

 ふたりの手が、わたしに差し伸べられる。
 成実と就也がわたしに泣きながら訴える。
 それを振り払うなんてできない、したくない。
 でも、でも……

 ポケットの中の演技ノートが、ふいに重みを持つ。
 頭の中で残像が弾けた。
 真新しい専門学校の校舎。身近で見た声のプロの人たちの仕事。憧れの人の外郎売。ポップガードがついたマイク。未完成の絵が映ったモニター。赤いキューランプ――

 わたしは掴まれた手を振り払うことはしなかった。
 代わりに、ふたりの手を強く強く握った。

「できない」

 きっぱりと言い放つ。
 
「できないよ。だって、わたしに与えられたチャンスだから」

 掴んだ、と言えないのが我ながら情けない。
 でも本当にその通りなのだ。
 何の運命の悪戯か一生分の幸運か、わたしはオーディションに合格してしまった。夢への切符を手に入れてしまった。

「不相応なのは分かっている。でもわたしは、そのチャンスに応えられるわたしになりたい。ううん、なるから。なってみせるから!」

 だからお願い、許してほしい。
 わたしなんかが夢を叶えるチャンスを得たことを。
 応援も祝福もしなくていいから、ただ、認めてほしい。

 そう心底願った。けど、成実がわたしの腕に爪を立て、就也がわたしの腕を握る手に力を込めた。

 痛い、けど、絶対に引くものか。

「……押し退けるのか」
「羽鶴は、自分の夢のために……あたしたちを押し退けるの……?」

 ふたりの手の震えが、ダイレクトに伝わってくる。
 わたしは息を吸って、答えた。

「うん」

 たった一言、たった二文字なのに、わたしにとっては喉が焼かれるほど痛くて苦しい答えだった。

 ――ああ、何かがひび割れたような音がする。

 かろうじて残っていた最後の部分が崩壊した。
 これでもう完全に、絶対に元に戻れない。

「だって……次は成実と就也がわたしを押し退けるんでしょ?」

 ピクリとふたりの肩が動く。

「次にまた同じオーディションを受ける時は、成実も就也も、わたしから役を奪うんでしょう……?」

『奪う』という強くてむごい言葉を使ったのはわざとだ。『役を勝ち取る』ことは、そのまま他の誰かから『(チャンス)を奪う』ことに繋がる。
 ひとつの役に声優は一人しかいらない。
 たったひとつの役を、何人もの声優が奪い合う。
 声優に限ったことじゃないけど、他よりも熾烈な競争を強いられるだろう。

「声優になるって、きっとそういうことなんだよ……」

 あの高遠さんや偉大な先輩たちも、求めて挑んでもほとんど掴めないと言った。

 それを聞いた時から、
 わたしにはひとつの予感があった。

 次はきっと、わたしは選ばれない。
 選ばれるように頑張るけど、全力を尽くすけど、
 どんなに努力してもどんなに強く願ってもそんなの一切関係なく、
 選ばれない時は、選ばれないのだ。

「でも……選ばれなくても、わたしは『次』を目指すよ。『次の次』がダメでも、その『次』に向かいたい……苦しいと思うよ。つらいと思うよ。一生続くんだと思うよ。それでも……わたしは目指したい」

 いつか、
 憧れた人たちと、同じ所に行けるまで。
 思い描いた『わたし』になれるまで。

 ……凍えそうな寒雨の中、わたしたち三人は微動だにしなかった。降りしきる雨が髪も服もしとどに濡らしていく。
 ――やがて、

「……そうよ……」
 成実の手から力が抜けた。続いて、就也も。

「『次』は……あんたなんかに負けない」
「もっと頑張って、『次』こそは……オレが役を勝ち取ってやる」

 ふたりの目元に涙が浮かび、淡く笑う。
 成実と就也の目に、光が戻った。

「うん。……わたしも負けない」

 言いながら、またわたしの目から涙がこぼれた。