結局、この日は遅くまで練習した。
 成実と就也の家には行けなかったのは残念だけど、明日来た時は必ず。
 ヘトヘトで家に帰ると、わたしは夕飯もそこそこに、部屋に引きこもった。
 最近、体重をひとまず三キロ落とすために夕飯は控えめにしている。

(今日書いたメモを整理して、それから……)
 寝るまでにやることを数えると、急に膝から力が抜けた。自分でもびっくりするくらいハデにコケた。
 立ち眩みだ。
 部屋の天井がぐるんぐるん回っている。シーリングライトが目にチカチカしてまぶしい。
 深呼吸をすると、疲労感が全身に広がった。

(疲れてる……のかな)

 ここ二週間、ずっと気を張りっぱなしだったから。
 睡眠時間は減らしてないつもりだけど、つい早朝に目覚めてしまう。やる気が暴走して気が逸っているのだ。
 けれど、休んでなんかいられない。
 今までのツケが回って、圧倒的に技術も体力もすべて足りていないのだ。
 頑張らないと。……ああそうだ、寧音ちゃんに返信しなきゃ。

 と、その時、部屋のドアがノックされた。

「羽鶴、入るわよ」

 お母さんだった。床に寝転がるわたしの手を引っ張って、一瞬だけ心配そうな顔をした後、にっこり笑った。

「ね、少し付き合ってくれない? 久しぶりに三階のロフトに行きましょう?」

 そう言って、家の中なのに何故か大きめのランチバッグを見せてきた。

 三階の部屋にはロフトスペースがある。納戸代わりに使わないものやシーズンものを仕舞っているけれど、整理整頓のおかげでスッキリ片づいている。
 屋根裏部屋っぽくて、小さい頃、よく秘密基地を作った。
 天窓から柔らかな月明かりが差し込む。
 今夜は満月だったのだ。全然気づかなかった。

「羽鶴、こっちこっち」

 お父さんが手招きする。毛布とクッションを置いた上に座り、ブランケットを巻いて天窓を見上げる。
 お母さんが持ってきたポットには、熱々の焙じ茶。紙コップに淹れてお父さんとお母さんに渡すと、「ありがとう」とお礼を言われる。少しくすぐったい響き。
 白い湯気を立てる焙じ茶を飲んだ途端、ぐぅ、とおなかが鳴った。

「そんなこともあろーかと!」

 お母さんがランチバッグからお弁当箱を取り出した。中身はおにぎりと玉子焼きとゆでブロッコリーだ。

「でも、太っちゃう……」

 遠慮しようとしたけど、またおなかが鳴った。
 お父さんとお母さんが笑った。あまりにも正直な腹の虫に、今日だけ、と自分と約束した。
 おにぎりの中身は明太子チーズと梅おかか。玉子焼きはハム入り。わたしの好きなものばかりだ。
 食べながら、わたしは両親に訊いた

「もしかして、心配かけちゃった……?」
「ほんの少しだけね」

 その返事に、また自分が情けなくなる。

「最初からトバしすぎるのはよくないぞー」

 お父さんが玉子焼きを摘まんだ。お母さんがお父さんのおなかのお肉をつまんで、「それ以上太ってどうするのよ」と咎めた。

「焦っちゃダメよ。いま自分がいる位置を確かめるためにも、たまにはのんびり月でも眺めなさい」

 お母さんたちの言いたいことは分かる。
 けど、わたしの実力が無いのは変えようも無い事実だから。

「養成所に通ってもうすぐ一年なのに、わたしまだまだだもん。せっかくお父さんとお母さんに高いお金を出してもらったのに……」

 こんなこと言うつもりじゃなかった。けど、申し訳なさで胸がいっぱいになって、つい溢れてしまった。
 きっと両親は「そんなこと気にしないで」と慰めてくる……と思ったのに、

「そのことなんだけどね。お母さん、羽鶴に言ってなかったことがあって」
「へっ?」

 思いがけない返事に、おにぎりを口に入れた状態で止まる。

「実はね。お母さんも、若い頃声優を夢見てたのよ」
「え!?」
「実はお父さんもだ」
「えぇ!? ゲホッ!」

 驚きすぎておにぎりが喉に詰まった。慌ててお茶を飲む。そんなの初耳だ。
 お母さんは天窓を仰いで、懐かしそうに目を細めた。

「好きだったのよ……アニメが。特にセーラームーンがクラスで大流行してね。友達とのごっこ遊びで、お母さん、作中のイケメンキャラの声真似が誰よりうまかったのよ」
「イケメンキャラ……? タキシード仮面さんだっけ?」
「ううん。セーラーウラヌス」
「そっち!?」

 お母さんはしばらく、女性声優さんの少年声についてアツく語った。出てくる名前がレジェンド級の大御所声優さんばかりで、そしてわたしも好きな人だらけで、声の好みって親子で似るんだなぁと感心した。

「お父さんはラジオドラマ派だ。羽鶴も知ってのとおり、お父さんは七人兄弟の末っ子で、テレビのチャンネル争いではいつも負けた。好きな番組が見れない寂しさをラジオドラマに癒やしてもらってたんだよ」

 追憶するように、お父さんは視線をさまよわせた。
 きょうだいゲンカをして悔しくて眠れない日も、ラジオで声優さんが演じる物語を聴くと、笑ったり感動したりして、いつの間にか寝落ちしたのだそうだ。

「お気に入りの番組は録音して、何度も聴いたっけね……それで自分も声優さんになりたいなって思った」
「でも、すぐに諦めたわよね」

 お母さんの言葉に、お父さんが同意する。

「なんで、諦めたの?」

 わたしの問いに、お母さんたちは笑って答えた。

「――自分には無理だな、って思ったのよ」

 少しの悲しみも、悔しさもない、そんな言い方だ。

「お父さんも早々に諦めたよ。『風邪とかも引けないんだろうな~じゃあ無理だな~俺にはできないな~』って」
「まあ元々本気じゃなかったというか、それこそセーラームーンになりたいって気持ちと同種だったのよね。いい意味で身の程を知ったのよ」
「身の程……」
「適正とでも言うのかしら。話が難しくなるから、また今度話そっか。――つまりね、羽鶴が『声優になりたい』って言った時、なんだか懐かしかったのよ。声優さんになりたいなんて夢……夢とすら言えない夢ね」
「とっくに忘れていたのに、思い出したんだよ。昔々の、なーんにも分かってない子どもだった自分をさ」

 だから、応援しようと思った。
 そうお父さんとお母さんは続けた。

「もし羽鶴が夢を叶えたらって考えるだけで、心躍ったわ。だからね、羽鶴。お金のこととか申し訳なく思う必要ないのよ」
「親が子の手助けをするのは当然っていうのもあるけどな、お父さんたちもほんの少しだけ夢見てたんだ」

 うまく……飲み込めない。
 だけどそれは、わたしがまだ十六歳だからかもしれない。
 わたしもいつか大人になって親になったら、気持ちが分かるのだろうか。
 返事できないでいると、ふいにお父さんとお母さんが表情を引き締めた。

「でもね。お母さんたちも、いつまでも支援できない。それは羽鶴も分かってるでしょう?」

 突然『現実』を突きつけられて、ドキリとした。
 そうだ。お母さんの言うとおりだ。

「昨日の面接、受かるといいな」

 お父さんが眼鏡越しに微笑する。その瞳には、『応援』の色があった。

「……うん!」

 わたしは腹の底から声を出して、返事をした。
 お父さんとお母さんと話せて、よかった。