「オレはね、幼い頃、身体が弱かった。小学校の低学年まで入退院を繰り返していた。そんなオレの心の支えは、本とアニメだけだった。その中で一番のお気に入り――心の友達は、ジュニパーだった。孤高の旅人で、サーカス団を影から助けるジュニパーは、オレのヒーローだったんだよ」

 とろりとした面持ちで、就也は語った。

「オレはベッドの上でいつも夢見てた。いつかアロサカがアニメになったら、オレがジュニパーの声をあてたいって。ジュニパーになりたいって。その夢のおかげで、つらい治療も乗り越えて、健康体になれた」

 今回のオーディションを知った時、運命だと思った。そう就也は語った。

「絶対に、絶対にオレがジュニパーの役を射止めるつもりだった……なのに、選ばれたのは羽鶴だった」

 就也の長い指先が、わたしを刺殺する勢いで指す。

「なんで? って思ったよ。だっておまえだよ? オレたちの腰巾着で成実がいなければ何もできないししようともしない。声も顔も普通で、才能もなければ努力もしない。なあ……なんで?」

 ふらつく足取りで、就也が近づいてきた。わたしの足は縫い止められたように動かない。
 就也が憎しみを込めた視線で、わたしを見下ろし、叫んだ。

「なんでおまえなんだよぉ!!」

 心からの、音割れするほどの叫びに硬直した。
 微動だにできないわたしを、就也は鼻で笑う。

「知ってるか、羽鶴。アロサカの各キャラクターの担当声優には、補欠がいるんだ。厳しいレッスンに根性なしが音を上げた時のために」

 覚えてる。桐月先生たちが「あなたたちの代わりはいます」と断言したもの。

「オレはジュニパーの補欠の一人だ。それで思ったよ。羽鶴が辞退すれば、オレがジュニパーになれるって。それで〈カナコちゃんの呪い〉を利用することにした。最初は呪いに恐れをなして、少しノイローゼになって辞退すればいいと思ったんだが、案外おまえはしつこかった」

 それで、成実の仕業に見せた。
 訊いてもいないのに、就也はベラベラとしゃべり続ける。壊れた音声機器みたいに。

 最初はスニーカーを盗んで、焼却炉に入れた。
 部活の日にもう一度盗んだのは練習に遅刻させて、成実の不興を買わせ、けしかけるため。
 そしてあの日――就也は適当な嘘で部活に遅刻して、更衣室に置いたわたしのトートバッグを盗み、一旦教室に戻った。破るプリントだけを抜き取って。
 わたしたちがバラバラになった時、一年生の教室がある三階に向かって、紙吹雪でわたしたちを誘き寄せて――

 成実の仕業に見せかけたのだ。

 全部、全部……

「あれで、もう立ち直れないくらい傷つくと思ったのに」

 バン!
 心底面白くなさそうな顔で、就也は手近な机を叩いた。

「なのに何やる気とか出してんだよ。今更! 今までロクに努力しなかったくせに――」
「聞き捨てならねぇな」

 就也の激昂を、雛田先輩の冷ややかな言葉が遮った。
 先輩がわたしと就也の間に入る。大きな背中でわたしを隠す。まるで庇うみたいに。

「こいつのどこを見て、『努力してない』なんて言えるんだ」

 思いがけない言葉に、わたしも就也も面食らった。
 けれど先輩は構わず、

「最近分かった。こいつは『口だけで努力をしない連中』の反対だ。口では自分なんかと卑下するのに、行動は夢にまっすぐ向かっている。自己否定がうっとうしいし、矛盾もしているが、侮辱される謂われは無い」

 就也が戸惑いを見せた。

「それは、成実と話を合わせるために」
「ダチと話を合わせるために八分以上ある外郎売を毎日読めるか。おまえはどうなんだ、毎日読んだか? 全部暗記しているのか?」

 就也が口ごもる。
 確かに就也は練習でも、口上を書いたメモを見ることが多かった。
 見る見るうちに就也の顔から血の気が引いていく。

「お笑いぐさだな。偉そうに抜かしといて、やったことはコソコソ人の物を盗んで、他人にその罪をなすりつけることだけか。――んなことしてっから、てめぇは合格しなかったんだよ!」

 先輩が就也の胸ぐらをつかむ。

「やめてください!」

 わたしは咄嗟に先輩の腕にしがみついた。

「どうかやめてください……就也を責めないでください」

 わたしの懇願に、先輩が信じられないものを見る目をして、手を放した。
 就也は何か言いたげにして、そして逃げていった。
 足音が遠くなるにつれて、わたしの膝から力が抜ける。
 教室の床に座り込み、顔を隠して、声を殺して泣いた。
 雛田先輩は、ずっと隣にいた。
 何も言わず、かつての就也のように肩を抱くことも頭を撫でることもせず、ただ隣にいてくれた。
 わたしはしゃくり上げて、

「本当は気づいてたんです……就也が犯人だってこと。だって、あのプリントのことは、就也しか知らなかったから……」

 アフレコ授業の前にそのことに気づいた。できることなら一生気づきたくなかった。
 見て見ぬふり、知らないフリをしていたかった。
 就也への同情とか友情とか、そんな理由じゃない。

「だって、就也までいなくなったら、わたし本当に独りになっちゃう……」

 本音はこれだ。
 わたしは未だに、ひとりきりになるのが怖いのだ。怖くて怖くてたまらないのだ。

 頭の奥で、何かがひび割れるような音がした。

 オーディションの合格を知ってから、何度も何度も聞こえた音。
 きっとわたしたちの関係にヒビが入った音だ。
 わたしが今までいた世界が、成実がいて就也がいて、平和に楽しく甘いだけの夢を見ていた世界がひび割れた音だ。
 認めたくなかった。
 認めたら、わたしはもうあのままではいられない。もう戻れない。
 けれど一度壊れれば、もう元には戻らない。

 わたしを守っていた世界が、無残に壊れようとしている……

(……いや、もう、とっくに壊れたのかな……)

 苦しみのままに吐露すると、先輩は深く長く息を吐いた。
 そしてポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出すと、わたしに放り投げる。

「……この間言った、うちのバアさんの言葉覚えてるか」
「『夢を手放すな』ってやつですか……?」
「それの続きだ」

 先輩はまるで朗読するように……、絵本の読み聞かせでもするように、言った。

「『夢を手放すな、たとえどんな孤独でも、夢だけは絶対に手放しちゃいけない』」

 優しく抑揚をつけて、大切にしているのだろう言葉を紡いだ。わたしに向かって。

「この言葉は俺の指針だ。……おまえにも分けてやるよ」

 先輩がほんの少しだけ、笑った気がした。