わたしのたまごだったセカイ

「先々週の日曜日、プロの声優さん……いえ、先輩方の技術を目にして、初めてアフレコをしました。ずっと震えてました。先輩方が偉大すぎて、声優の世界の果てしなさが少しだけ見えて……怖いと思うこともありました。でもそれ以上に、なんかこう、わーっとなって、ひゃーっとなって、かーっとなって、今に至ります。……えと、分かりますか?」
「分っかんねぇよ!」

 雛田先輩が床に置いた鞄をパンと叩く。

「パイセン、考えるな感じろですよ!」
「つまり、とんでもなく感動したんだね。今までの小山内さんを塗り替えるほど、強く深く」

 香西先輩の翻訳に助けられた。

「――はい」

 レッスンの最中は、追いかけるだけで精一杯だった。
 なのに最後のアフレコで、ジュニパーに初めて触れて、ジュニパーとしてしゃべって――出来はきっと良くないのだろうけど、とにかくわたしは、

 楽しかったのだ。
 もっとあの感覚を味わいたいと、望んでしまうくらいに。

 そしてあの日から、四字熟語で言うと『一念発起』の状態が続いている。
 帰宅するや否や、今まで養成所でもらった課題を見直した。
 昔読んだ声優になるための本を読み直し、積ん読だった本も読んだ。動画サイトで声優に関する動画も見始めた。
 しばらくして、アニメの見方が変わった。分析的に見るようになって、「ああ、ここはこういう状況でこういう背景と心境があるからこういう言い方になるんだな」みたいな感じ方になった。 
 漫画も映画も、インプットの面が強くなる。そうすると今まで何でもなかった表現がすごく心に刺さって、感動することが多くなる。
 世界の見え方が、少し変わった。
 十二色しかないと思ってきたのに、実は二五六色くらいあることに気づいた、ような。

 つまり、今のわたしは、燃料を大量投入された暴走列車状態だ。

 美容に気を遣うのも、雛田先輩を引っ張り出すのもその一環……なわけだけど。いまいち効果が出ているのか分からない。
 早く養成所の日になればいい。
 志倉先生に質問したいことが山ほどあるし、他の人たちに聞きたいことがある。それに他の人の演技も見たい。

「……その様子じゃ、あの友達のことは吹っ切れたようだな」

 雛田先輩が尋ねた。
 成実のことは、今でもつらい。
 けれど、そのことを考える余裕がない――というのが正直な感想だ。
 自分がすごく薄情な人間に思える。
 けれど、時間が無いのだ。次のアロサカのレッスン日まで一ヶ月もない。

「今は前だけ見てたい……って感じです」

 正直に言うと、雛田先輩は「そうか」とだけ答えた。
 次は何をしようかと考えていると、講堂の出入り口が騒がしい。

「お、来た来た」
 織屋先輩がそう言うと同時に、数人の生徒が入ってきた。
「二年の……先輩方!? 板山部長も」
 背後で香西先輩が「おっ」と感心した声を漏らし、雛田先輩が「げっ」と嫌がる声が聞こえた。

「はづるんの頑張りを話したら、見てみたいってさ。それに卒業式公演もあるし」
「あ!」

 すっかり忘れていた。卒業式公演のこと。
 雛田先輩が周囲を一瞥して、

「丁度いい。おまえ、あいつらの前で設定つき外郎売をもう一度やってみろ」
「! は、はい!」
「ただし、さっき言った点は改善しろよ。俺のアドバイスを無駄にするな」
「はい! ……その前に、タオルとってきていいですか?」

 返事の代わりに雛田先輩が手をひらひらさせる。
 素速く立ち上がって、隅に置いたトートバッグの元に行くと、中を探る手が止まった。

 タオルがない。
 ここに入れたはずのタオルがない。

 冷たい指先でうなじを撫でられたような感覚がした。鳥肌が立つのを抑えられなかった。
 けれど、

「よろしくお願いします!」

 騒ぐことはしなかった。わたしは動揺を抑え込んで、六人に増えた先輩たちの前に立った。
 翌日の水曜日。教室に入ると、違うグループの子に手招きされた。

「小山内ちゃん。これ、昨日言ってた美容リップ。これマジうるつやになるよ。」
「わ、ありがとう!」

 その子は美容や化粧品に詳しくて、進学せずにメイクの専門学校に行くらしい。
 今まで関わりはなかったけど、先週、勇気を出して話しかけた。

「いいって。それと眉の整え方なんだけど」

 その子と話し込んでいると、成実が教室に入ってきた。パチッと目が合う。
 けれど成実は、もうわたしを睨んではこなかった。その代わり、一切話しかけなくなった。クラスのみんなも察したのか、特に何も言わない。

(成実、ちょっと痩せた……)

 そう考えながらも、わたしはクラスメイトから聞いた内容をひたすらメモした。

 放課後になり、慌ただしく教室を出た。
 今日は図書室で本を返した後、帰りに履歴書を買って記入しないといけない。
 図書室の窓際の席に、雛田先輩がいた。
 数冊の本を積んだ横で、ノートを広げている。新作の執筆だろうか。
 本はシェイクスピアの戯曲が数冊。『ロミオとジュリエット』を読むのがなんだか意外だ。
 万年筆のキャップをいじりつつ、時折、遠くを見る目をする。そんな先輩を見るのは初めてで、ドキリとした。

 あそこだけ、空気が光っている気がする。

 周囲にいる女子も先輩をチラ見して頬を赤らめる。そんな先輩を見ていると、わたしは胸の中が熱くなった。

 昇降口に行くと、足が止まった。成実がわたしの靴箱を閉めていたのだ。
 成実はすぐにわたしに気づいた。

「羽鶴……」

 成実は虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに鼻を鳴らした。
 けれど不遜な雰囲気はない。目の下のクマが濃いせいか、萎れた花みたいだった。

「そのノート……最近、頻繁にメモとってるよね」

 成実がわたしの手にあるノートを指す。

「あ、うん。癖づけようと思って」

 高遠さんのアドバイスを受けたからだ。
 東京駅の雑貨屋さんで新幹線を待つ間に買った。メモ帳じゃなくてリングノートなのは、書くことがたくさんあるから。表紙はファイルになっていて、高遠さんからもらったメモを挟んである。

「部活、頑張ってるみたいね。先輩方まで引っ張ってさ」
「う、うん」
「なんか自分磨きも始めたみたいじゃない。あたしがダイエットする傍で、カロリーバカ高いミルクティーをガブガブ飲んでたのに」
「そう、だね」

 今は常温の水か、ポットに入れたはちみつ入りのジンジャーティーを飲むようにしている。

「……ようやく本気になったってわけ?」

 成実の冷たい目線と声音が、わたしの心臓を鷲掴みにする。

「だとしたら、遅すぎなんじゃない?」

 冷笑が、いばらみたいにわたしの心を絡めて刺す。けれど、

「確かに……今更って思われるかも知れない。わたし、この一年近く、養成所に通う以上のことをしてこなかった」

 それを思うと、羞恥も自分への怒りも覚えるけれど、

「無駄な時間を過ごしたってすごく後悔してる。でも、反省もしてる。だから遅すぎだとしても、今からでも出来ることは全部やりたいの!」

 成実の顔を、久しぶりに正面から見た。
 本当に痩せた。一週間前、やっと登校した成実はクラスメイトに挨拶もしなくなった。昼休みも教室から姿を消す。ごはんはちゃんと食べているんだろうか。

「あっそ」

 力の無い返事だった。暗い笑顔を向けて、成実が「ねえ羽鶴」と呼んだ。

「……アンタの靴とかお弁当がなくなったことだけど」
「分かってるよ」

 わたしは成実の言葉を遮った。

「全部分かってるから」

 そう繰り返すと、成実はバツの悪そうな顔をして、踵を返して去って行った――

(……え?)

 成実の背中に、黒い染みがある。いや、違う。影だ。黒くてまるい影が成実の周囲に漂っている。
 最近は見なくなって、ただの勘違いだったと思えたのに、また現れた。
 あれは何なんだろう。
 そう考えて、浮かぶ言葉はたったひとつだ。

「〈カナコちゃんの呪い〉……」

 刹那、ざわっと、空気が変容した気がした。
 窓の外の木々が風になぶられて騒がしい。

 ……コトン

 靴箱をひとつ隔てた向こうから、物音が聞こえた。そのすぐ後に、靴箱の影から一人の男子生徒が早歩きで飛び出してきた。
 その男子生徒は胸に何かを抱えていた。あれは……ローファーの靴? あの人は上靴を履いたままなのに?
 靴箱の戸がひとつだけ開いている。名札には『雛田颯』とあった。

(あれ、雛田先輩の靴!?)

 男子生徒は早歩きで廊下の奥へ向かう。どこを目指しているのか直感で分かった。奥には裏庭に続く扉があり、そこには焼却炉がある。
 走って追いかけ、扉を思いっきり開ける。案の定、男子生徒は焼却炉に靴を入れようとしていた。

「やめて!」

 わたしが叫ぶと、男子生徒が振り返った。
 見知った顔だ。図書室と文芸部の部室で見た――川添さん。雛田先輩に突っかかった人だ。
 川添さんは怯えを露わにし、「何だよ!」と言った。

「そっ、その靴、雛田先輩のですよね?」
「か、関係ないだろ、そっちには!」
「返してください!」

 この人だったのか。何度も先輩の持ちものを盗んだのは。
 やっぱり七不思議の呪いなんかじゃなかった……とこっそり安堵する。

「もう、雛田先輩のものを隠すのはやめてください」
「……後輩の女子に庇われるなんてな。やっぱりイケメンは得だな」
「そんな話はしてません! 返してください。さもないと」

 一瞬詰まった。勢いで言ったけど、脅しなんてしたことないから続きが思いつかない。

「おっ、大声を出します!」
「はあ? 出せるものなら出してみろよ」

 完全に舐められてる……当然か。
 ならば、とわたしは息を吸い込んだ、けど。

「無闇に大声を出すんじゃない。大事な喉が潰れるぞ」

 いつの間にか背後にいた雛田先輩に止められた。
 わたしはびっくりして、吸い込んだ空気を呑み込んでしまった。

「雛田……っ!」
「誰かと思えば川添か。何のつもりだ。嫌味を言うだけじゃ飽き足りなくなったか」
「……っ!」

 川添さんが唇を噛む。悔しそうに声を絞り出した。

「だって……納得いかない! ぼくのは落選して、君なんかが受賞するなんて、絶対にありえな」
「おまえの作品が面白くなかった。前にも言ったが、それだけだ」

(雛田先輩……!?)

 やばい。この人、歯に衣を着せるという概念が無い。分かっていたつもりだったけど!

「何だと!?」
「おまえ、文芸部だろ。こないだ部室に寄った時、一昨年の文化祭の部誌に載せた作品を読んだ。まったく面白くなかった」

 川添さんは今にも白目を剥いて卒倒しそうだ。横で聞くわたしすら耳を塞ぎたくなる。

「――だが、去年のは面白かった」
「へ……?」

 間の抜けた声は、わたしと川添さん両方のものだ。

「タイムトラベルネタのSFだったな。地味だけど、伏線回収は見事だった。――面白くない作品は確かに存在する。だが、面白い作品を作れない人間はいない」

 受け売りだけど、と雛田先輩が続ける。誰からなのかは訊かなくても分かった。

「次の作品が書けたら、また読ませてほしい」

 雛田先輩の言葉には、靴を盗んだ川添さんに対する怒りもなじりも、カケラも無かった。
 川添さんは戸惑いがちに頷いて、靴を先輩に返した。そして走って行く。その目に涙が浮かんで、キラリと光った。
 それを見届けた後、わたしは靴のホコリを払う先輩に言った。

「先輩って……すごく口下手なんですね」

 今更だけど、なんとなく理解できた。先輩という人を。

「……口がうまかったら、物語なんか作らねぇよ」

 なるほど。――理由はよく分からないけど納得した。
 それと同時に、先輩がすごく身近に感じて嬉しかった。それから『大事な喉』と言われたことも。
 ふふっと笑ってると、

「――何だこれ?」
 と先輩が言って、振り返る。
 開けっぱなしの焼却炉の蓋を閉めようとした先輩が、淡いレモン色のタオルをつまみ上げた。

「タオル? でも新しいな」
「それ……」

 無意識に声が出たことを、わたしは直後に悔いた。
 しまったと思った時にはもう遅い。

「おまえのか……?」

 先輩が言い当てた。外見の変化には疎いのに、こういう時は勘が鋭い……。

「まだ物を盗まれてるのか」
「そうです、けど。大したものじゃないです。靴は持ち歩いてますし」

 それは本当だ。タオルの他に、ハンカチやティッシュ、消しゴム……その程度のもの。
 前回と違うのは、戻ってこない点だ。やっぱり捨てられていたのか。

「もう教師に言え。窃盗だ」
「せ、先輩だって放っておいたじゃないですか」
「俺はいいんだよ。というか教師は気づいている。受験真っ只中の時期だから大事(おおごと)にするなと言われた」
「そんな……」
「別にいい。テレビ局からも、言動には最大限に注意しろって言われているんだ。今の時代、SNSですぐ拡散されるからな。主演アイドルのイメージもあるし」

 何なんだ、それは――と思いかけたけど、思い直した。

 そうか、雛田先輩も同じなのか。
 先輩も『商品』で『コンテンツ』になっているのか。

「誰の仕業か、分かってるのか?」

 わたしは答えない。

「……誰にも言わないでください。お願いします」

 そう頭を下げると、先輩はもう何も言わなかった。
 ……けれど。

 水曜日は部活の日じゃないけど、織屋先輩を通して講堂に呼ばれた。
 板山部長が招集をかけたらしい。珍しいを通り越して、初めてのことだ。

「ええっと。金曜日は二年生の都合が悪いと言うことで、一度卒業公演についてミーティングをします」

 板山部長が口火を切る。
 織屋先輩に連行されたのか、雛田先輩と香西先輩もいる。

「突然どうした。やる気を見せてきて」

 雛田先輩が腕組みをしたまま言った。
 つっけんどんな物言いは変わらない。けれど板山部長は、照れたように頭を掻いた。

「いや、小山内さんの練習を見たら……一年生の子がひとりででも頑張ってるのに、と思っちゃいまして」

 え? わたし?

「触発されたって言うのかな。一年に一回だし、せっかく演劇部に入ったし」

 予想外の動機に、わたしはアワアワした。
 たぶん板山部長に負けないくらい頬が赤くなっている。でも正直に言うと、嬉しい。

「……すごいな、羽鶴」

 隣に座る就也の褒め言葉が頭上に落ちた。見上げると、

(就也……?)

 就也は笑っていた。口元だけは。

「羽鶴、ごめん! オレ、家の用事あるの忘れてた! 詳細は後で送ってくれるか?」

 そう頼む就也の声は明るかった。声だけは。
 けれどその両目は、まっくろなビー玉みたいだ。
 返事すらできずにいると、就也は板山部長や先輩方に断って早退した。

「――主人公なんだけど、小山内さんに頼んでも大丈夫かな?」
「えっ。あ、はい!」

 慌てて返事をする。
 台本の読み合わせをすることになり、わたしは薄い脚本と演技ノートを用意しようとトートバッグに手を入れた。

「――!?」

 無かった。
 さっきまで手元にあった、演技ノートが。

「小山内さん、どうしたの?」

 香西先輩の問いに答える間もなく、わたしは「すみません、失礼します!」とだけ言って、講堂を出た。
 運動場を全速力で横切る間、心は祈りに近い願いでいっぱいだった。

 お願いだから返して。
 あのノートだけは。

「おい!」

 背後で雛田先輩の声がした。なんで追いかけてくるの!

「来ないでください!」

 と叫んだけど、先輩が了承するワケがない。
 わたしは必死に『彼』の姿を探した。
 下駄箱を見ると靴はあった。まだ校内にいる。どこにいるんだろう。

 ……教室!
 きっと教室だ。前のプリントもそうだった。
 他人の物を盗んだ身で、他の教室や特別教室には行きづらいだろう。慣れ親しんだ自分の教室か、トイレだ。
 半泣きで階段を駆け上がり、そして。

「――就也ぁ!」

 静まり返った無人の教室に、就也がいた。

 その手にはわたしの演技ノートがあり――そして。
 あの黒丸の影がいた。
 けれどそれは、雛田先輩が到着すると同時に消えた。

「……返して。お願いだから、返して」

 手を合わせて懇願する。
 就也は無表情だ。宇宙人みたいで、言葉が通じる感じがしない。

「おまえだったのか、こいつのものを盗んでたのは。あの女子じゃなくて」

 雛田先輩が尋ねる。

「そうですよ」

 就也の声は、瞳は、今まで見たことがないほど暗くて深くて、がらんどうだ。

「なんで就也が……? いつも応援してくれたのに……」

 何故、なんて。
 訊かなくても分かる。
 就也も心の底ではわたしの合格を、

「羽鶴が、……ジュニパーになったから」
「へ……?」
「オーディションに合格しただけなら、別に許すよ。奇跡ってあるものだし。でもジュニパーはダメだ。オレはずっと、ジュニパーになりたかったのに」
「どういうこと……?」

 アロサカのアニメは、今回のプロジェクトのために作られたオリジナルのはずだ。
 なのに何故、就也はジュニパーを知っているんだろう。

「違う。元ネタがあるんだ。海外のマイナーな古い児童文学だ。……そんなことも知らなかったのか?」

 底なしの侮蔑を込めて、就也がわたしをねめつける。ゾクリと悪寒が走った。
「オレはね、幼い頃、身体が弱かった。小学校の低学年まで入退院を繰り返していた。そんなオレの心の支えは、本とアニメだけだった。その中で一番のお気に入り――心の友達は、ジュニパーだった。孤高の旅人で、サーカス団を影から助けるジュニパーは、オレのヒーローだったんだよ」

 とろりとした面持ちで、就也は語った。

「オレはベッドの上でいつも夢見てた。いつかアロサカがアニメになったら、オレがジュニパーの声をあてたいって。ジュニパーになりたいって。その夢のおかげで、つらい治療も乗り越えて、健康体になれた」

 今回のオーディションを知った時、運命だと思った。そう就也は語った。

「絶対に、絶対にオレがジュニパーの役を射止めるつもりだった……なのに、選ばれたのは羽鶴だった」

 就也の長い指先が、わたしを刺殺する勢いで指す。

「なんで? って思ったよ。だっておまえだよ? オレたちの腰巾着で成実がいなければ何もできないししようともしない。声も顔も普通で、才能もなければ努力もしない。なあ……なんで?」

 ふらつく足取りで、就也が近づいてきた。わたしの足は縫い止められたように動かない。
 就也が憎しみを込めた視線で、わたしを見下ろし、叫んだ。

「なんでおまえなんだよぉ!!」

 心からの、音割れするほどの叫びに硬直した。
 微動だにできないわたしを、就也は鼻で笑う。

「知ってるか、羽鶴。アロサカの各キャラクターの担当声優には、補欠がいるんだ。厳しいレッスンに根性なしが音を上げた時のために」

 覚えてる。桐月先生たちが「あなたたちの代わりはいます」と断言したもの。

「オレはジュニパーの補欠の一人だ。それで思ったよ。羽鶴が辞退すれば、オレがジュニパーになれるって。それで〈カナコちゃんの呪い〉を利用することにした。最初は呪いに恐れをなして、少しノイローゼになって辞退すればいいと思ったんだが、案外おまえはしつこかった」

 それで、成実の仕業に見せた。
 訊いてもいないのに、就也はベラベラとしゃべり続ける。壊れた音声機器みたいに。

 最初はスニーカーを盗んで、焼却炉に入れた。
 部活の日にもう一度盗んだのは練習に遅刻させて、成実の不興を買わせ、けしかけるため。
 そしてあの日――就也は適当な嘘で部活に遅刻して、更衣室に置いたわたしのトートバッグを盗み、一旦教室に戻った。破るプリントだけを抜き取って。
 わたしたちがバラバラになった時、一年生の教室がある三階に向かって、紙吹雪でわたしたちを誘き寄せて――

 成実の仕業に見せかけたのだ。

 全部、全部……

「あれで、もう立ち直れないくらい傷つくと思ったのに」

 バン!
 心底面白くなさそうな顔で、就也は手近な机を叩いた。

「なのに何やる気とか出してんだよ。今更! 今までロクに努力しなかったくせに――」
「聞き捨てならねぇな」

 就也の激昂を、雛田先輩の冷ややかな言葉が遮った。
 先輩がわたしと就也の間に入る。大きな背中でわたしを隠す。まるで庇うみたいに。

「こいつのどこを見て、『努力してない』なんて言えるんだ」

 思いがけない言葉に、わたしも就也も面食らった。
 けれど先輩は構わず、

「最近分かった。こいつは『口だけで努力をしない連中』の反対だ。口では自分なんかと卑下するのに、行動は夢にまっすぐ向かっている。自己否定がうっとうしいし、矛盾もしているが、侮辱される謂われは無い」

 就也が戸惑いを見せた。

「それは、成実と話を合わせるために」
「ダチと話を合わせるために八分以上ある外郎売を毎日読めるか。おまえはどうなんだ、毎日読んだか? 全部暗記しているのか?」

 就也が口ごもる。
 確かに就也は練習でも、口上を書いたメモを見ることが多かった。
 見る見るうちに就也の顔から血の気が引いていく。

「お笑いぐさだな。偉そうに抜かしといて、やったことはコソコソ人の物を盗んで、他人にその罪をなすりつけることだけか。――んなことしてっから、てめぇは合格しなかったんだよ!」

 先輩が就也の胸ぐらをつかむ。

「やめてください!」

 わたしは咄嗟に先輩の腕にしがみついた。

「どうかやめてください……就也を責めないでください」

 わたしの懇願に、先輩が信じられないものを見る目をして、手を放した。
 就也は何か言いたげにして、そして逃げていった。
 足音が遠くなるにつれて、わたしの膝から力が抜ける。
 教室の床に座り込み、顔を隠して、声を殺して泣いた。
 雛田先輩は、ずっと隣にいた。
 何も言わず、かつての就也のように肩を抱くことも頭を撫でることもせず、ただ隣にいてくれた。
 わたしはしゃくり上げて、

「本当は気づいてたんです……就也が犯人だってこと。だって、あのプリントのことは、就也しか知らなかったから……」

 アフレコ授業の前にそのことに気づいた。できることなら一生気づきたくなかった。
 見て見ぬふり、知らないフリをしていたかった。
 就也への同情とか友情とか、そんな理由じゃない。

「だって、就也までいなくなったら、わたし本当に独りになっちゃう……」

 本音はこれだ。
 わたしは未だに、ひとりきりになるのが怖いのだ。怖くて怖くてたまらないのだ。

 頭の奥で、何かがひび割れるような音がした。

 オーディションの合格を知ってから、何度も何度も聞こえた音。
 きっとわたしたちの関係にヒビが入った音だ。
 わたしが今までいた世界が、成実がいて就也がいて、平和に楽しく甘いだけの夢を見ていた世界がひび割れた音だ。
 認めたくなかった。
 認めたら、わたしはもうあのままではいられない。もう戻れない。
 けれど一度壊れれば、もう元には戻らない。

 わたしを守っていた世界が、無残に壊れようとしている……

(……いや、もう、とっくに壊れたのかな……)

 苦しみのままに吐露すると、先輩は深く長く息を吐いた。
 そしてポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出すと、わたしに放り投げる。

「……この間言った、うちのバアさんの言葉覚えてるか」
「『夢を手放すな』ってやつですか……?」
「それの続きだ」

 先輩はまるで朗読するように……、絵本の読み聞かせでもするように、言った。

「『夢を手放すな、たとえどんな孤独でも、夢だけは絶対に手放しちゃいけない』」

 優しく抑揚をつけて、大切にしているのだろう言葉を紡いだ。わたしに向かって。

「この言葉は俺の指針だ。……おまえにも分けてやるよ」

 先輩がほんの少しだけ、笑った気がした。
 翌日、学校を休むことはしなかった。

 いつもどおり――といっても十日くらい前からの習慣だけど、朝早く起きて、体力作りとダイエットのためにウォーキングして、ストレッチをした。
 最初は河原で発声練習もしようかと思ったけど、寧音ちゃんとのLINEで「起き抜けは喉が開かないからやめた方がええよー」とアドバイスをもらったので、やめた。

 昨日借りた雛田先輩のハンカチを、可愛いラッピング袋に入れる。
 手洗いして部屋干しして、アイロンもかけた。
 シワひとつない白いハンカチは雛田先輩にぴったりだ――なんて、ナチュラルに考える自分に苦笑する。
 あんなに怖いと畏れたのに。

 忘れずに鞄に入れて、出かけに鏡を見る。
 動画を見て練習した編み込み、いい感じにできてよかった。昨日散々泣いたけど、目を冷やしたおかげで腫れも少ない。

「今日も早いわね。まだ七時なのに」
 と、お母さんがお弁当を渡す。

「うん。ごめんね。お弁当急かしちゃって」
「いいのよ。どうせお父さんも七時前には出るんだから。ね、今日も遅くなる?」
「うん。帰りに面接なんだ」
「ああ、そうだったわね。……ね、羽鶴。大丈夫? 無理してない?」

 お母さんの心配げな顔に、ギョッとした。

「羽鶴がすごーく頑張ってるのすごーく分かるんだけど、お母さんとしてはちょびっとだけ心配なの。お願いだから身体だけは気をつけてね」

 困ったように笑い、お母さんが手を握る。
 そのぬくもりを感じながら、わたしは頷いて「いってきます」と出かけた。

(でもね、お母さん。わたしにはもう……)

 空を見上げた。
 とても久々に、空の青さと雲の白さ、太陽のまぶしさを感じた気がする。
 近所のおうちの庭に植わる梅が綻びかけている。薄紅の花のつぼみが春を告げる。
 この冬が明けて春になった時、わたしはどうなっているんだろう……
 なおも生まれようとする不安を打ち消したくて、わたしは通学路を駆けだした。

 一番乗りの教室で、図書館で借りた演劇論の本を読んでいると、続々とクラスメイトが入室してきた。
 紙面の文字を追いつつ、教室の喧噪――クラスメイトたちの何気ない会話に耳をそばだてる。
 これは使えると思った会話は演技ノートに書き留めた。いつかアフレコの現場で、『学校の教室』と指定された場面でガヤをすることになった際、きっと役立つと思ったからだ。
 全部、本や動画で知ったことの真似だ。けど、今は片っ端から試したい。

 成実と就也は、ショートホームルームが始まるギリギリに登校した。ふたりともわたしを見ようとしない。
 そんなわたしたちを、クラスメイトは遠巻きに見てヒソヒソ話をする。居心地が悪かった。
 昼休みになると、逃げるように手荷物を持って教室を出た。行き先は図書室。目当ての人はすぐ見つかった。

「ハンカチ、ありがとうございました」

 窓際の席を陣取る雛田先輩に、小声でお礼を言う。
 先輩は頬杖をついたまま、片手で受け取った。
 今日も先輩のそばには本の山。
 愛読書らしい脚本の指南書の横には、名刺大のカードが並んでいた。走り書きで『出会い① 学校の廊下。薄暗い夕方。少しの驚き』とか『対立② 練習場。夕方。負けん気。ミッドポイント』とか書いてある。

「これは何ですか?」
「イベントカード。……今日は休むかと思ったんだが」

 先輩はハンカチを無造作に鞄に仕舞った。わたしは軽く頭を振る。

「立ち止まってる余裕、無い……ですから」

 笑ったつもりだけど、うまくいかなかった。
 本心ではあるけど、背伸びした答えだった。
 やっぱり素っ気ない先輩の返事。邪魔しちゃ悪いからすぐに去ろうとした、けど。

 ふいに足が止まり、また衝動のままに、その理知的な横顔に問うた。

「先輩は、どんな作品を書くんですか?」
「……は?」

 それは急激な、そして唐突な興味だった。

「聞いたことなかったな、と思って……。賞を獲ったのはサスペンスものですよね。女性刑事主人公で、劇場型殺人鬼を追うっていう粗筋だけ見ました」

 わたしは怖い系の作品があまり得意じゃない。
 就也に教えられた時は「絶対に観たくない」と思ったものだけど。

「ジャンルは、まあ何でも。サスペンスも恋愛も青春も、コメディも……巧くはないが、好きだな。最近は漫画原作の舞台の脚本にも興味あるかな」

 指折り数えて淡々としゃべる先輩に、もっと話を聞きたいと思ってしまった。けど。

「で、それがどうかしたのか?」

 秒で会話が終了した。……うーん。

「映像化、楽しみにしてます。シナリオブックとか出たら嬉しいです」

 今更だけど、先輩がどんな物語を書くのか興味が芽生えた。
 これはわたしが最近、他の人の演技をよく観察するになったのと同じ現象かな。インプットの一環かな。
 なんて考えつつ先輩を見ると、ギクリとした。

「そうか……」

 そう答える先輩の声に、珍しく張りがない。
 また遠い目をして、先輩は万年筆をカチカチさせた。
 どうしたんだろう、何かマズいこと言っただろうか、と思う間もなく、香西先輩が来た。

「雛田、僕はもう帰るけど、今日も下校時刻までいるつもり?」
「まあな」
「毎日よく続くね。織屋さんじゃないけど、新作の草案もシナリオの勉強も家でやればいいのに」
「……家にいると、余計なことばっか考えちまうからな」

 余計なことって何だろ、と思った。

「あと単純にきょうだいがうるさい」
「! 先輩、きょうだいいるんですか?」
「五人きょうだいの真ん中なんだよ。意外だろ?」

 香西先輩がいたずらっぽく笑う。
 確かに意外だ。個室も勉強机もないので、学校の方が集中できるそうだ。
 雛田先輩がイヤホンをつけたので、わたしたちは図書室から出た。
 わたしが文芸部の部室に行くことを告げると、香西先輩がためらいがちに言った。

「明日は演劇部の集まりだよね? 雛田は顔出すって言ってた?」
「いえ。先輩、卒業公演で使う脚本を『つまらない』って言ってたし、難しいかもです」
「ああ、そうだったね……悪いけど小山内さん、雛田を連れてってくれないかな。僕は明日、外せない用事があって」

 思いがけない頼み事に、「へっ!?」と声が出た。

「難しいかな。でも、あまり雛田を一人にしたくないんだ。あいつ、最近少し様子がおかしくてね」
(香西先輩も気づいたんだ……)
「自分でも、心配しすぎだと思うけどね。どうしてもほっとけないだ。僕は……雛田をひとりにしたから……」

 香西先輩は卒業後、シンガポールに留学する。
 将来はお父さんの仕事を継ぐつもりで、その勉強のためだ。
 ――「卒業したら演劇をやめる」
 そう言った時の、悲しそうな寂しそうな香西先輩の微笑。それを思い出して、少し切なくなった。

 香西先輩が留学を決めたのは去年の秋だそうだ。

 それまでは地元の大学に進学し、雛田先輩と演劇を続けるつもりだったけど諦めた。きっと断腸の思いだったんだろう。
 そんな仕方がないことに対して、「雛田を一人にした」と自分を責める言葉を使う香西先輩は、やっぱり優しい人だ。
 わたしが「一応、言ってみます」と言うと、香西先輩が柔らかい笑顔を見せてくれた。
 別れた後、わたしは文芸部の部室に向かった。織屋先輩と昼食をご一緒する約束していた。

「いらっしゃーい! 狭いとこだけど寛いでってね!」

 部室は狭くて暖房が置けない。でも今日は陽射しがあたたかいし、先輩の歓待っぷりもホットなので問題なし。
 古い長机の上に、付箋がついた文芸部の部誌が積み上がっていた。わたしが先輩に見せて欲しいと頼んだものだ。
 昼食を済ませ、わたしはカナコちゃん――阿妻叶子さんの作品を読んだ。

「えぇ……?」

 まさかの内容に、わたしは頭を捻った。
 阿妻叶子さんが書いたという短編小説は、なんと可愛らしい恋物語だった。
 主人公の女の子が道端に咲くたんぽぽをキッカケに、同じクラスの男の子を好きになるっていうド王道の少女小説。
 冊子の最後のページに後記があった。昔流行ったアニメのキャラのイラストが彩る紙面に、まるっこい手書き文字が踊っている。


【ブチョウ:やっと脱稿できました~!】
【ふくぶちょー:今回スランプで死ぬかと思ったヘロヘロ】
【アヅマ:みんな~! アヅマの作品、読んでくれてサンキュー! え? 誰も読んでないって?(笑)】


 部員たちの対談という形のそれは、初めから終わりまでテンションが高かった。SNSのリプ合戦みたいだ。ますます疑念が募る。

「どーよ、はづるん。カナコちゃんの作品その他を読んだ感想は」
「七不思議の呪いのモトになった人物だとは……思えません……」
「そう。私も、単なる一昔前のオタクやん! 全然謎の人物でも何でもないやん! ホラー映画とかだったらカナコちゃんは『スプラッター小説を好んで、最後に遺した作品は自分の血をインクにして書いた』みたいな設定が出てくるのにっ! ……的な惜しさを感じた」

 織屋先輩のクレーム(?)はなんとなく理解できる……けど、現実なんてこんなものかもしれない。

「んで、これがカナコちゃんの顔写真。図書室にある歴代のアルバムから、こっそり写してきた」

 先輩がスマホの画面を見せてきた。カナコちゃんはセミロングの眼鏡女子だった。取り立て美人ではないけど、白い歯を見せる笑い方が可愛い女の子。

 イメージと全然違う。
 こんな子が、本当に小説賞に落選したから自殺したっていうの?

 わたしがそう疑問を口にすると、

「うーん。もしかしたら、それだけが理由じゃないのかもねえ」
「え?」
「当時のカナコちゃん、三年生でしょ。進路とかで本気で悩む時期じゃん。色々としんどいことが重なって、カナコちゃんは慢性的に追い詰められてたんだよ」

 織屋先輩が別の部誌を差し出した。
 ごく短い掌編小説。病気の女の子が病室の窓から散る花を見て涙を落とすという――物語というより、一場面を掬い上げたような作品だった。
 作風が違うのは後記もだ。イラストがなくなった寂しい紙面に、かすれた文字が並ぶ。

【アヅマ:受験が本格化してきて、迷走中。ぶっちゃけしんどいです。小説書くのもしばらく休もうと思います。どんな時でも物語を綴ることだけはやめないと思ってたんだけどなぁ……】

 別の部誌では、散文的な詩が一篇だけ。後記にはこうあった。

【アヅマ:今回で部誌も発行中止になってしまいました……。でも、もうすぐ高校生限定小説賞の、一次選考の発表なんですよー。アヅマがずっと憧れてた賞です。大賞とりたいな。とれますように。そうすれば、また小説が書けるような気がします。】

 ——また、小説が書きたいな。

 そんな願いで締めくくられた。これがカナコちゃんの最後の作品だった。

「最後の拠り所だったんじゃないかな、その小説賞」

 わたしもそう思った。
 一縷の希望、細い蜘蛛の糸、心の拠り所。
 わたしにとって成実と就也がそうだったように、カナコちゃんにとってはその小説賞が日々の支えだったのだ。
 他人から見れば、くだらないと一蹴されるような気持ちかもしれないけど、
 わたしには分かった。頭じゃなくて心で理解できた。カナコちゃんの絶望が。まっくらな感情(もの)が。

「落選は……トドメでしかなかった……?」
「だね。――ほら、雛田パイセンも成実ちゃんについて言ってたじゃん。『魔が差した』ってやつ」

 確かにそう言った。雛田先輩は、成実が――本当は就也なんだけど――わたしの持ちものを盗んだのを、『魔が差した』と表現した。
 魔が差したから、普通では、普段では考えられないようなことをしたのだ。

「……『すぐ切り替えられる人がいつでも切り替えられるってわけじゃない』。織屋先輩、前に言ってましたよね? 香西先輩も」

 ――どんな前向きで強い人でも、後ろ向きになって弱くなることがある。

(そうだ……)

 カナコちゃんも、成実も、就也も一緒なのかも知れない。
 成実は確かにわたしに冷たい態度をとった。
 就也はわたしの物を盗んで、それを成実の仕業に見せかけた。
 けれど、それはただの行動だ。それは成実と就也のすべてじゃないし、本質じゃない。

 だってわたしは知っている。
 成実と就也の優しさと、懸命さを。

 だって、……ずっと一緒にいたんだから……

 視界が少し潤む。チクチクと胸が痛い。

「あるんですね、そういうの……どうしても、ダメになる瞬間が。暗い感情に負けちゃう時が」
「……だね。カナコちゃんはそのダメになる瞬間に魔が差して、自殺しちゃったのかもね」

 わたしにもそんな一瞬があった。
 ひとりきりの講堂で部活をしていた時、ギャラリーの高さが目に入った。指先にタオルが触れた。

 ……あ、このタオルをあの柵に繋いで、首をかけて飛び降りれば、死ねる……

 捨て鉢な気持ちでそう思った。それしか頭になかった。声優の夢も、オーディションも、両親のことも頭から吹っ飛んでいた。
 なんてバカなことを……そう言えるのは、わたしが死なずに済んで、冷静な頭で振り返っているからだ。
『その瞬間』は、真っ当な考えなんてできない。
 ゾクリとした。こんなのまるで、以前テレビで見た、鬱病の人の希死念慮……だっけ、自殺したくなる瞬間みたいじゃないか。

(……怖い)

 あの時に見えた、あの黒丸の影。
 あれの正体は、その『魔』というやつではないだろうか。
 それをカナコちゃんが――この際、呪いとか幽霊が実在すると仮定して――操っているとしたら……?

(でも待って。そうすると、影が……『魔』が成実や就也を巣食ったのは何故なの?)


 カナコちゃんに呪われるのは、
 夢が叶った生徒。
 カナコちゃんに呪われたら、
 ――持ちものが、なくなる。


 けど、実際に持ちものを盗んだのは生きている人間……就也や川添さんだ。

 ということは、〈カナコちゃんの呪い〉が作用するのは、『夢が叶った生徒』本人ではなくて、その周囲の人たち?
 その人たちの中にくすぶる怒りややるせなさ、嫉妬心をカナコちゃんは煽って、『物を盗む』ように仕向けるんじゃ……。
(じゃあ、「カナコちゃんに呪われた人は最後には死ぬ」って……)

 周囲の人たちの悪意を露呈させて、追い詰めて傷つけて疲弊させて、自ら死を選ばせるってこと……?
 眩暈がした。
 なんておぞましい呪いだろう。
 ホラー映画みたいに、普通に呪い殺しに来る怨霊の方が百倍マシだ。
 恨みつらみよりもドロドロとした、底無しの悪意を感じる。

 この仮説が……ほとんど妄想に近いけど、もし本当だとしたら、どうにか追い払わなきゃ。

(でも、どうすれば……)
 頭を抱えて煩悶していると、

「はづるん、またしょっぱい顔してる!」

 と、織屋先輩が背中を叩いてきた。

「色んな心配があるのも分かるけど、抱えすぎちゃダメだよ。もっと先輩に頼って!」

 織屋先輩が自分の胸を叩いたけど、力が強すぎたのか、ひどくムセた。
 格好つかないと嘆く先輩に、緊張がスルッと抜けた気がした。

 ……呪いだとしても、そうじゃないとしても。
 一度、成実と就也と本気で話がしたい。
 あっちはわたしと話どころか顔も合わせたくないだろう。もう友達とは思ってないかも知れない。
 でも、わたしはふたりを友達だと思ってる。
 行動する理由はそれで充分だ。

(……雛田先輩の言ったとおりかも……)

 わたしは結構、図々しいのかもしれない。また苦笑いがこみ上げてくる。

 自分の図太さを信じて、勢い込んで教室に戻ったけど、ふたりとも早退していた。
 LINEや電話も出ない。家に行こうかと思ったけど、その日の放課後はどうしても外せない用事があった。

 翌日の金曜日は、ふたりとも休んだ。
 先生によると、急な体調不良とだけ連絡が来たらしい。
 心配だったけど、明日の土曜日は登校すると聞いて、ひとまず安心した。
 部活の日なので講堂に行くと、織屋先輩と板山部長、二年生の先輩が既にいた。
 練習着姿に驚いたけれど、さらに仰天することが待ち受けていた。

「ん」

 突然現れた雛田先輩が、ストレッチ中――何故かわたしが先輩方に練習メニューを指示することになった――のわたしたちに、数枚の紙をホチキスで留めたものを渡した。
 思わず受け取ると、表紙に『卒業公演 脚本修正版』とあった。

「あまりにもクソつまらん内容だから、少し手直しした」

 そっぽを向いて雛田先輩が言った。
 背後で織屋先輩が口を手を押さえ、板山部長たちが困惑する気配がした。

「いらなかったら捨てろ」

 なんて、憎まれ口をお叩きになる。通常営業だ。
 わたしが脚本を開くと、織屋先輩たちが覗き込んできた。
 その内容は……

「……パイセン、これめっちゃいい話じゃないっすか」

 織屋先輩が呆然とつぶやく。板山部長が、コクコクコクコクと高速で同意の頷き。
 元の脚本は、数人の登場人物が各々自分の夢を語って、「一緒に頑張ろう!」と言うだけの話だった。
 ヤマも無ければオチも無い。公演時間を考えると仕方ないのかと妥協したけれど、雛田先輩が手を入れたそれは、

「……悲しい話ですね……」

 目尻に涙がにじみそうになるのを堪えて、正直な感想を述べる。

「『別れ』をテーマにしたからな」

 今のわたしには傷口に塩のテーマだ。でも、

「わたし、演じたいです。この台詞を声に出して言いたい……いえ、伝えたいです」

 心の底からわきおこる感覚。演劇部でそんな風に思ったのは初めてだ。

「さんせー。卒業式にぴったりだし。どうよ、板山氏。今から脚本変わるけど、いける?」
「みんなが文句言っても、僕が説得します!」

 板山部長の瞳が燃えている。織屋先輩が「フッフウ!」と囃し立てた。
 雛田先輩は呆れたように肩を竦めた。でもどこか嬉しそうに見えた。
 すると、織屋先輩がわざとらしい渋面で「ズルいですよ、パイセン!」と文句(?)をつけた。

「ここに来てのツンデレの波動はヤバいです。こんなん惚れちまいますよ――板山氏が!」

 えっ、織屋先輩じゃなくて?

「見てくださいよ、すっかりパイセンを見る目が『雨の日に不良が猫を拾ったのを目撃した少女漫画のヒロイン』のソレじゃないっすか。どーすんすか!」

 織屋先輩が親指で板山部長を指す。最悪だった第一印象をひっくり返され、すっかり好意を持ってしまった人の瞳だ。トキメキと表現してもいい。

「アホか」

 心の底から「知らんがな」と言いたげな面持ちの雛田先輩。けれど、突き放すような雰囲気はなかった。
 その後も、雛田先輩は練習に付き合ってくれた。
 脚本の読み合わせ、意見交換をした後、簡単に立ち位置を決めた。特にミザンス――役者や舞台装置を含めた全体の配置に関して、先輩はすごく頼りになった。

(雛田先輩、なんか変わったな)

 キツい物言いは変わらないけど、刺々しかった雰囲気はまるくなり、笑顔はないけど仏頂面が少なくなった。
 変わったのか、それとも香西先輩の言うとおり『元々は面倒見がいい』のが表に出たのか……

 どちらにせよ、わたしは嬉しい。

 雛田先輩と、演劇部の先輩たちと一緒にひとつの作品を作っていることが。たとえ一度だけでも、短くても。
 こんな雛田先輩を見たら、香西先輩の憂いもきっと晴れるだろう。
 わたしは演技に全身を使いながら、そんな風に考えていた。
 結局、この日は遅くまで練習した。
 成実と就也の家には行けなかったのは残念だけど、明日来た時は必ず。
 ヘトヘトで家に帰ると、わたしは夕飯もそこそこに、部屋に引きこもった。
 最近、体重をひとまず三キロ落とすために夕飯は控えめにしている。

(今日書いたメモを整理して、それから……)
 寝るまでにやることを数えると、急に膝から力が抜けた。自分でもびっくりするくらいハデにコケた。
 立ち眩みだ。
 部屋の天井がぐるんぐるん回っている。シーリングライトが目にチカチカしてまぶしい。
 深呼吸をすると、疲労感が全身に広がった。

(疲れてる……のかな)

 ここ二週間、ずっと気を張りっぱなしだったから。
 睡眠時間は減らしてないつもりだけど、つい早朝に目覚めてしまう。やる気が暴走して気が逸っているのだ。
 けれど、休んでなんかいられない。
 今までのツケが回って、圧倒的に技術も体力もすべて足りていないのだ。
 頑張らないと。……ああそうだ、寧音ちゃんに返信しなきゃ。

 と、その時、部屋のドアがノックされた。

「羽鶴、入るわよ」

 お母さんだった。床に寝転がるわたしの手を引っ張って、一瞬だけ心配そうな顔をした後、にっこり笑った。

「ね、少し付き合ってくれない? 久しぶりに三階のロフトに行きましょう?」

 そう言って、家の中なのに何故か大きめのランチバッグを見せてきた。

 三階の部屋にはロフトスペースがある。納戸代わりに使わないものやシーズンものを仕舞っているけれど、整理整頓のおかげでスッキリ片づいている。
 屋根裏部屋っぽくて、小さい頃、よく秘密基地を作った。
 天窓から柔らかな月明かりが差し込む。
 今夜は満月だったのだ。全然気づかなかった。

「羽鶴、こっちこっち」

 お父さんが手招きする。毛布とクッションを置いた上に座り、ブランケットを巻いて天窓を見上げる。
 お母さんが持ってきたポットには、熱々の焙じ茶。紙コップに淹れてお父さんとお母さんに渡すと、「ありがとう」とお礼を言われる。少しくすぐったい響き。
 白い湯気を立てる焙じ茶を飲んだ途端、ぐぅ、とおなかが鳴った。

「そんなこともあろーかと!」

 お母さんがランチバッグからお弁当箱を取り出した。中身はおにぎりと玉子焼きとゆでブロッコリーだ。

「でも、太っちゃう……」

 遠慮しようとしたけど、またおなかが鳴った。
 お父さんとお母さんが笑った。あまりにも正直な腹の虫に、今日だけ、と自分と約束した。
 おにぎりの中身は明太子チーズと梅おかか。玉子焼きはハム入り。わたしの好きなものばかりだ。
 食べながら、わたしは両親に訊いた

「もしかして、心配かけちゃった……?」
「ほんの少しだけね」

 その返事に、また自分が情けなくなる。

「最初からトバしすぎるのはよくないぞー」

 お父さんが玉子焼きを摘まんだ。お母さんがお父さんのおなかのお肉をつまんで、「それ以上太ってどうするのよ」と咎めた。

「焦っちゃダメよ。いま自分がいる位置を確かめるためにも、たまにはのんびり月でも眺めなさい」

 お母さんたちの言いたいことは分かる。
 けど、わたしの実力が無いのは変えようも無い事実だから。

「養成所に通ってもうすぐ一年なのに、わたしまだまだだもん。せっかくお父さんとお母さんに高いお金を出してもらったのに……」

 こんなこと言うつもりじゃなかった。けど、申し訳なさで胸がいっぱいになって、つい溢れてしまった。
 きっと両親は「そんなこと気にしないで」と慰めてくる……と思ったのに、

「そのことなんだけどね。お母さん、羽鶴に言ってなかったことがあって」
「へっ?」

 思いがけない返事に、おにぎりを口に入れた状態で止まる。

「実はね。お母さんも、若い頃声優を夢見てたのよ」
「え!?」
「実はお父さんもだ」
「えぇ!? ゲホッ!」

 驚きすぎておにぎりが喉に詰まった。慌ててお茶を飲む。そんなの初耳だ。
 お母さんは天窓を仰いで、懐かしそうに目を細めた。

「好きだったのよ……アニメが。特にセーラームーンがクラスで大流行してね。友達とのごっこ遊びで、お母さん、作中のイケメンキャラの声真似が誰よりうまかったのよ」
「イケメンキャラ……? タキシード仮面さんだっけ?」
「ううん。セーラーウラヌス」
「そっち!?」

 お母さんはしばらく、女性声優さんの少年声についてアツく語った。出てくる名前がレジェンド級の大御所声優さんばかりで、そしてわたしも好きな人だらけで、声の好みって親子で似るんだなぁと感心した。

「お父さんはラジオドラマ派だ。羽鶴も知ってのとおり、お父さんは七人兄弟の末っ子で、テレビのチャンネル争いではいつも負けた。好きな番組が見れない寂しさをラジオドラマに癒やしてもらってたんだよ」

 追憶するように、お父さんは視線をさまよわせた。
 きょうだいゲンカをして悔しくて眠れない日も、ラジオで声優さんが演じる物語を聴くと、笑ったり感動したりして、いつの間にか寝落ちしたのだそうだ。

「お気に入りの番組は録音して、何度も聴いたっけね……それで自分も声優さんになりたいなって思った」
「でも、すぐに諦めたわよね」

 お母さんの言葉に、お父さんが同意する。

「なんで、諦めたの?」

 わたしの問いに、お母さんたちは笑って答えた。

「――自分には無理だな、って思ったのよ」

 少しの悲しみも、悔しさもない、そんな言い方だ。

「お父さんも早々に諦めたよ。『風邪とかも引けないんだろうな~じゃあ無理だな~俺にはできないな~』って」
「まあ元々本気じゃなかったというか、それこそセーラームーンになりたいって気持ちと同種だったのよね。いい意味で身の程を知ったのよ」
「身の程……」
「適正とでも言うのかしら。話が難しくなるから、また今度話そっか。――つまりね、羽鶴が『声優になりたい』って言った時、なんだか懐かしかったのよ。声優さんになりたいなんて夢……夢とすら言えない夢ね」
「とっくに忘れていたのに、思い出したんだよ。昔々の、なーんにも分かってない子どもだった自分をさ」

 だから、応援しようと思った。
 そうお父さんとお母さんは続けた。

「もし羽鶴が夢を叶えたらって考えるだけで、心躍ったわ。だからね、羽鶴。お金のこととか申し訳なく思う必要ないのよ」
「親が子の手助けをするのは当然っていうのもあるけどな、お父さんたちもほんの少しだけ夢見てたんだ」

 うまく……飲み込めない。
 だけどそれは、わたしがまだ十六歳だからかもしれない。
 わたしもいつか大人になって親になったら、気持ちが分かるのだろうか。
 返事できないでいると、ふいにお父さんとお母さんが表情を引き締めた。

「でもね。お母さんたちも、いつまでも支援できない。それは羽鶴も分かってるでしょう?」

 突然『現実』を突きつけられて、ドキリとした。
 そうだ。お母さんの言うとおりだ。

「昨日の面接、受かるといいな」

 お父さんが眼鏡越しに微笑する。その瞳には、『応援』の色があった。

「……うん!」

 わたしは腹の底から声を出して、返事をした。
 お父さんとお母さんと話せて、よかった。
 満月の夜が明けて、土曜日。今日は午前中だけ授業がある。
 わたしは早起きしたけど、ウォーキングは休んだ。その代わり、三〇分アニメを一本じっくり観た。
 久々に普通にアニメを楽しんだ気がする。演技ノートに『やっぱりアニメって面白い』なんて他愛の無いことを記す。これじゃ日記帳だ。でも、まあいっか。
 いつもより通学路に学生が多くて騒がしかった。どうやら今日は、自宅学習期間中の三年生の登校日らしい。

(ってことは……)

 雛田先輩がいることを期待して、わたしは教室より先に図書室に向かった。
 すっかり馴染みになった図書室の扉に手をかけた時だった。

「あっ」

 当の雛田先輩と、わたしの声が重なった。
 先輩はスマホの画面を手で押さえ、通話ができる場所に向かうところだった。
 本来なら昇降口まで行くべきだけど、みんな図書室の裏にある茂みで話してる。
 電話が終わるまで待っていようと、適当な本を物色して時間を潰していた、ら。

(先輩……?)

 窓から電話をしている雛田先輩が見える。けど、様子がおかしい。
 明らかに色を失い、足元も忙しない。
 反射的に外に出ようとしたわたしの腕を、誰かがつかんだ。

「はづるん、大変!」

 織屋先輩だった。司書の先生に鋭く注意されても、先輩は落ち着かなかった。

「帝都チカヤが逮捕されたって!」

 馴染みのない名前に面食らった。すると織屋先輩はスマホ画面にSNSのネットニュースを表示させて、

「ほらぁ、あの人気アイドルの!」

 途端に周囲が騒がしくなり、図書室の利用者が一様に自分のスマホを取り出した。司書の先生も同じく。
 ニュースのライブ配信動画が表示された。甘いマスクのイケメンの写真が映る。
 顔は知っている。毎年公開される国民的探偵アニメの映画のゲスト声優をした人だ。画面が切り替わり、上着を被された男の人が警察官に挟まれてパトカーに乗せられるところが映った。
 周りから「マジかよ」「ショックー……」という嘆きが起こる。そこで気づいた。

(この人、雛田先輩が賞を獲ったシナリオの――主演を務める人だ!)

 遅ればせながら気づいた瞬間、血の気がさっと引いた。
 ニュースのコメンテーターが口を開く。

『えー、今入った情報によりますと、帝都さんが出演していたドラマ、CMなどの打ち切りが決定したそうです。また、先月発表されたテレビ夕陽のシナリオ新人賞、あちらも企画ごと白紙になるそうです』

 それって……

「つまり……パイセンの受賞も何もかも、取り消しになるってこと?」

 織屋先輩の声が震える。わたしは思考が追いつかなかった。

(先輩!)

 雛田先輩がいるであろう裏庭を振り返った。

 その瞬間、自分の目を疑った。

 先輩が、常緑樹の木々の中で佇んでいる。
 いつも凜と背筋を伸ばしていた先輩なのに今は項垂れ、落としきった肩に――あの黒く、まるく、輪郭が曖昧な小さな影が集まっていた。

 それらは結びつき、大きな影になって、ほんの一瞬、先輩を包み込んだ……そんな気がした。