次の日の水曜日は、学校を休んだ。

「麦、ごみ、むぎ、ごみ、三むぎごみ」

 けれど、つい習慣で『外郎売』の練習をしてしまう。
 何をしているんだろ、わたしは……。

「今日くらい自主練習休めばいいのに……羽鶴、すごく顔色悪いわよ。それに何にも食べてないし」

 お母さんは、一日中わたしの心配をした。
 在宅パートをしているお母さんは家事や仕事をひとつ片づけるたびにわたしの様子を部屋まで見に来る。

「大丈夫……」
 喉がカラカラになったので水分補給だけすると、布団に戻った。
「今週末は顔合わせなんだから、大事をとらないと」
 お母さんは言葉を重ねる。

(ごめんなさい。仮病なんか使って)

 心の中で何度も謝る。
 だけど今日は、どうしても学校に行けなかった……。

 玄関のドアが開く音がした。お父さんが帰ってきたのだ。
 コートも脱がずに、お父さんはわたしにパステルピンクのリボンを結んだケーキショップの箱を渡した。

「羽鶴が具合悪くて何も食べないって聞いたから、買ってきたぞ。ゼリーとかプリンならいけるか?」
「あら。両方買ってきたの?」
「どっちがいいか分からなくてなぁ……」

 お父さんが薄めの頭を掻いて苦笑いをする。わたしを見る眼鏡越しの目が優しい。呆れたように咎めるお母さんの声も優しい。
 涙が浮かぶのを堪えて、わたしは布団から出た。

「食べる。心配かけてごめんね!」

 わたしが『元気そうに聞こえる声』を出すと、両親は笑った。

「よーし、食べながら久々にジブリの映画でも観ようか!」

 安心してくれたようで、ホッとした。

 階段を下りていると、わたしはお母さんの背中につい尋ねた。

「お母さん、……うちってお金持ちなの?」

 その問いにお母さんは面食らって、笑った。

「そんなわけないじゃない。普通よ普通」

 ……普通、か。
 お父さんが買ってきてくれたゼリーとプリンは、わたしのお気に入りのお店のものだ。
 ここのケーキの値段はいくらだっけ。気にしたことない。
 養成所の入所金は十万円だった。それは、わたしがずっとお年玉を貯金してきた分から出した。
 けど、月謝は?
 わたしの毎月のお小遣いは?
 そもそも貯金ができるのは、両親がわたしに余計なお金を使わせないでいたおかげで……

「……」

 成実の叫びが耳から離れない。
 その日の夜もなかなか寝つけなかった。

 翌日はちゃんと登校した。
 正直に言うと休みたい。
 けれど両親に心配は絶対にかけたくない。だからわたしは『わたし』を演じた。学校が少しめんどくさくて、うだうだ言いながら登校する『羽鶴』を。

 成実とも誰とも挨拶しないで済むように、始業時間ギリギリで教室に入ったけど、成実は休みだった。

「昨日は二人して休むとか、ほんと羽鶴たち仲良いよねー」

 何も知らない友達がからかってくる。調子を合わせて笑う以外、何もできなかった。
 ただ席について教科書を開くだけの授業が終わると、就也がわたしの席まで来た。

「ごまかしても仕方ないから単刀直入に言うけど」

 就也は前置きして、言った。

「成実が、部活やめるって」

 驚けなかった。なんとなく予感はしていた。けれど、

「養成所も……分からないって」
「えっ……」

 思わず就也の顔を見上げる。就也は困ったように笑った。

「羽鶴のことだけが原因じゃないよ。経済的な理由とか、色々重なったんだろう」

 慰めてくれる就也に、今まで気にもしなかったことを訊いてみた。

「就也は、親に出してもらってる? ……その、養成所とか部活にかかるお金とか」
「……。うん。でも、正確には『借りてる』かな。将来絶対に返すって条件で工面してもらった」

 言葉に詰まった。
 わたし、そんなの考えたことない。だって毎月、お母さんが「月謝、振り込んでおいたよ」って言ってくれるから。

(……うわぁあああ……)

 就也の前から、ううん、この世界から消えてしまいたい。
 机の下で、スカート越しに太ももに爪を立てる。
 わたしは自分が恥ずかしい。恥ずかしい、恥ずかしい――

「大丈夫か?」

 こくりと頷く。真っ赤になった顔は隠したまま。

「な、羽鶴。火曜日に成実が逃げた後、『オーディションに受からなきゃよかった』って言ってたけど……」
「あ、うん……ごめん、本当にごめん……」
「いや謝らなくていいんだけど。まさか雛田先輩が言ったみたいに辞退する、とか……」
「……分かんない」

 頭を振ったら、涙がひとつぶスカートに落ちた。

 分からない。
 どうすればいいのか分からない。
 誰か教えてほしい。

 昼休みになったけど食欲がわかなかった。今日はお母さんがおばあちゃんの家に行くからお弁当はお休みで、購買で何か買うよう言われたけど……

「羽鶴、飲み物だけでも飲んどけよ」

 就也にそう言われて、わたしは購買に向かった。
 大にぎわいのパンやおにぎり売り場に近づく気にはなれず、自販機の前に行くと、先客が振り向いた。

「お。はづるんじゃん。お疲れー」

 織屋先輩だった。
 部活以外で会うのは初めてだ。

「こんにちは……」
「元気ないね。ハラヘリが過ぎてる? って、私が買うの邪魔してるのか」

 織屋先輩が横によけてくれた。会釈して、いつものホットミルクティーを買おうとする。
 けれど、百円玉を投入口に入れる寸前で手が止まった。

「……!!」

 なんだろう。
 たった一枚の硬貨が、ひどく重く感じる。
 こんなことは初めてだ。

 織屋先輩が「どした? 買わないの?」と首を傾げた。
 適当に言い訳して消えようとしたけど、

「ほい。はづるんが好きなのコレでしょ?」

 先輩が流れるような動きでコーンポタージュを買って差し出してきた。

「違いますけど……」
「マジで? まあ小っちゃいことは気にするな! 同じ液体だし」
「ありがとうございます……? あ、いや、お金払います!」
「いいっていいって。私のお金じゃないし。それよりさ、ちょっとうちの部室に付き合ってくれない? 文芸部の方の」
「え、でも」
「あ、成実ちゃん待たせてる?」

 勝手に肩がビクッと跳ねる。
 「いいえ……」
 と蚊の鳴くような声しか出なかった。
 でも織屋先輩はよりいっそう明るく笑って、わたしの手を引っ張った。