なのに、わたしには肩の力を抜ける場所が無かった。
家では度々男に振られたと泣きわめく母親の機嫌を取るのに必死だったし、学校では誰かに嫌われないよう立ち回るのに必死だった。
そうやって生きていたら、いつしか自分がなんなのか分からなくなった。
ただ誰かのために生きる。そんな自分が虚しくて、悲しくて。でも、そうすることでしか生きられないような――
――拓海くん。
呟いた言葉は、届くかどうかも分からないほどに小さい声だった。
「……どうした?」
届いた。届いていた。拓海くんは、わたしの小さい小さい声を、ちゃんと拾ってくれた。
繋いだ手に力がこもる。
離れないで。ずっとそばにいて。
そうやって約束した者の関係はいつか崩れゆくことを、わたしは知っている。
だから、そばにいてとは言わない。一緒にいるよ、なんて言って貰えなくていい。約束はいらない。
――ただ、この手を離さないで。
拓海くんだって、きっと同じ気持ちでしょう?一緒にいて、離れないで、ずっとそばにいてって。だからあの日、「一緒にいて欲しい」なんて、言ったんでしょう?
そばにいたいと思ってくれている間は、一緒にいて欲しい。きっと、同じ思い。
「……なんでもないです。早く帰りましょ」
拓海くんは一瞬だけ困惑したような表情を見せた。それもすぐに笑顔に切り替わる。
苦しげな表情をしていたわたしに気を遣ってのことだろう。
「……そうだ、ちょっと遊んでいく?」
「遊ぶ?」
拓海くんはわたしの手を引いて走って行く。どこに向かっているか分からない。
不思議と不安ではなかった。拓海くんとならどこに行ったっていい。手を繋いで向かった先が、たとえ地獄だったとしても。
「よし、着いた」
拓海くんに引っ張られながら向かった先は、アパートの近くの公園だった。その公園には小さい高台のような場所があって、足元には数センチの雪が積もっている。
「こんなとこあったんですね、知らなかった」
「俺も最近知った。意外といい眺めじゃない?」
そうは言われたものの、周りは暗すぎて景色どころではない。
ただぽつぽつとライトだったり家の明かりだったり、暖かい光が灯っている。何が見えるんだろう。そう思って身を乗り出す。
あ、あそこにわたし達が住むアパートがある。アパートを照らすライトの光はちかちかと点滅している。そんなものまでオンボロなのか。
視力が悪いから遠くの物がよく見えない。目を細めて見ようとするけれど、それでも何がどこにあるかわからない。
あれいつも行ってるスーパーかな。あんな駐車場広かったっけ。いつも歩いて行っているから分からないのか。
そうして遠くを眺めていたら、右側から雪玉が飛んできた。
視線を右にずらす。にやにやと笑う拓海くんが視界に入る。
「痛いじゃないですか、仕返しします」
「俺だってやってやるよ」
その場にしゃがみ、足元の雪をかき集めて丸くする。雪合戦なんていつぶりだろう。幼稚園とか小学校とか、小さいときの記憶しかない。何なら、ちゃんとやったことはないかもしれない。
それなりの大きさの雪玉を作り終えて立ち上がる。拓海くんに向かって投げようとした瞬間、ぼろぼろと崩れてしまった。
「うわ、崩れてる」
「笑い事じゃないんですけど!」
拓海くんに笑われて、むきになって言い返す。もう一回雪玉を作ろうとしゃがめば、拓海くんが雪玉を投げてきた。
「お、当たった」
「そりゃ当たりますよ、わたししゃがんでるんですから。てか拓海くんが投げてくるの痛いんですよ、やめてくれません?」
「それは無理」
口を動かしつつ手も動かして雪玉を作っていたら、あっという間に手の中に白い球体ができた。形が少し歪になってしまったけれど、まぁいいだろう。立ち上がり、同じようにしゃがんでせっせと雪玉を作っている拓海くんに向かって投げる。
「いった……やったな」
雪玉を作っては投げて、雪玉を作っては投げてを繰り返す。笑い声を上げながら走り回る。足に蹴られた雪が舞う。雪玉が身体にぶつかり、じんわりと熱を奪う。
やっていることは馬鹿みたいなことで、子供がやるようなことで、今までのわたしなら絶対にやらなかったはずなのに、拓海くんとなら嫌だと思わないのはなぜだろう。
やがてふたりとも力尽きて、わたしはふかふかの雪にばたんと倒れ込んだ。隣に拓海くんも寝転ぶ。
「雪って思ったより固いんだな、寝心地悪い」
「ここで寝る気ですか?」
「俺はいいけど」
「わたしは絶対に嫌です」
雪に散々触れた手が冷たい。手袋とかマフラーをしてくればよかったと今更後悔をした。第一遊ぶなんて思ってもいなかったから仕方ないか。
天に向かって伸びた木が空を覆っていて、木と木の狭間からしか夜空が見えない。それでも所々に見える星はまばゆい輝きを放っていた。
「綺麗ですね、星」
「そう?俺の方からだと全く見えない」
んしょ、と拓海くんがわたしの方に身体を寄せてくる。ぴったりと肌が密着し、体温が伝わる。
「どうするんですか、誰かに見られたら。変な人だと思われますよ」
「大丈夫だよ、時間が時間だし」
そう言われればそうだけど、やっぱり不安は拭えない。というか今何時なんだろう。家を出るときにちらっと見た時計は夜の十一時過ぎを指していた。
「ほんとだ、綺麗な星。特にあれが綺麗じゃない?」
「あれってどれですか?あの大きいやつ?」
一段と目を引く、大きな星が空に浮いていた。それを指差す。
「俺が言ってるのは違うやつ。ほら、これ」
拓海くんがわたしの手を取って動かす。指の先には、真っ黒な空にぽつりと浮かぶ星があった。
「ほんとだ。綺麗ですね」
「でしょ」
空を眺める拓海くんの横顔を見つめながら、ふと思った。あの星は、拓海くんみたいだと。
決して変な意味で言っているわけではない。周りの深い空を押しやって、美しく輝いていること。たったひとりで空に浮かんで、堂々と胸を張って生きていること。その美しさと、勇敢さ。拓海くんは、そのふたつを溢れるほど持ち合わせている。
「あの星、拓海くんみたいです」
わたしがそう言うと、拓海くんは笑いながら起き上がった。それにつられてわたしも起き上がる。
「俺みたいってどういうこと」
「悪い意味じゃないですよ?」
「分かるけどさ」
近くの遊具に手を置いて、力を入れて立ち上がる。
「綺麗ってことですよ、あの星みたいに」
言った刹那、恥ずかしさがこみ上げてくる。こういう台詞はどうも性に合わない。言われるのも慣れていないし、言うのなんてもっと慣れていない。
「……なんかそういうの、言われると恥ずかしいな」
それは拓海くんも同じなようで、照れたように顔を隠して笑っていた。
「早く帰りましょ、わたし寒くなってきました」
照れを隠すように早口で言った。寒いと言ったけれど、このふわふわとした空気が漂う場から抜け出すための口実でしかない。
「寒い?ごめん、早く帰ればよかったね」
そう言いながらふたりで歩き出す。階段を降り、公園を出て、いつもの路地裏に入る。
この薄汚くて迷路みたいな路地裏にも、もう慣れた。たまに迷いそうになるけれど、もう大体の道は覚えた。鼻を刺す悪臭にも、慣れた。
あ、と拓海くんが声を出す。何だろうと思っていると、着ていたコートのポケットから何かを取り出した。
家では度々男に振られたと泣きわめく母親の機嫌を取るのに必死だったし、学校では誰かに嫌われないよう立ち回るのに必死だった。
そうやって生きていたら、いつしか自分がなんなのか分からなくなった。
ただ誰かのために生きる。そんな自分が虚しくて、悲しくて。でも、そうすることでしか生きられないような――
――拓海くん。
呟いた言葉は、届くかどうかも分からないほどに小さい声だった。
「……どうした?」
届いた。届いていた。拓海くんは、わたしの小さい小さい声を、ちゃんと拾ってくれた。
繋いだ手に力がこもる。
離れないで。ずっとそばにいて。
そうやって約束した者の関係はいつか崩れゆくことを、わたしは知っている。
だから、そばにいてとは言わない。一緒にいるよ、なんて言って貰えなくていい。約束はいらない。
――ただ、この手を離さないで。
拓海くんだって、きっと同じ気持ちでしょう?一緒にいて、離れないで、ずっとそばにいてって。だからあの日、「一緒にいて欲しい」なんて、言ったんでしょう?
そばにいたいと思ってくれている間は、一緒にいて欲しい。きっと、同じ思い。
「……なんでもないです。早く帰りましょ」
拓海くんは一瞬だけ困惑したような表情を見せた。それもすぐに笑顔に切り替わる。
苦しげな表情をしていたわたしに気を遣ってのことだろう。
「……そうだ、ちょっと遊んでいく?」
「遊ぶ?」
拓海くんはわたしの手を引いて走って行く。どこに向かっているか分からない。
不思議と不安ではなかった。拓海くんとならどこに行ったっていい。手を繋いで向かった先が、たとえ地獄だったとしても。
「よし、着いた」
拓海くんに引っ張られながら向かった先は、アパートの近くの公園だった。その公園には小さい高台のような場所があって、足元には数センチの雪が積もっている。
「こんなとこあったんですね、知らなかった」
「俺も最近知った。意外といい眺めじゃない?」
そうは言われたものの、周りは暗すぎて景色どころではない。
ただぽつぽつとライトだったり家の明かりだったり、暖かい光が灯っている。何が見えるんだろう。そう思って身を乗り出す。
あ、あそこにわたし達が住むアパートがある。アパートを照らすライトの光はちかちかと点滅している。そんなものまでオンボロなのか。
視力が悪いから遠くの物がよく見えない。目を細めて見ようとするけれど、それでも何がどこにあるかわからない。
あれいつも行ってるスーパーかな。あんな駐車場広かったっけ。いつも歩いて行っているから分からないのか。
そうして遠くを眺めていたら、右側から雪玉が飛んできた。
視線を右にずらす。にやにやと笑う拓海くんが視界に入る。
「痛いじゃないですか、仕返しします」
「俺だってやってやるよ」
その場にしゃがみ、足元の雪をかき集めて丸くする。雪合戦なんていつぶりだろう。幼稚園とか小学校とか、小さいときの記憶しかない。何なら、ちゃんとやったことはないかもしれない。
それなりの大きさの雪玉を作り終えて立ち上がる。拓海くんに向かって投げようとした瞬間、ぼろぼろと崩れてしまった。
「うわ、崩れてる」
「笑い事じゃないんですけど!」
拓海くんに笑われて、むきになって言い返す。もう一回雪玉を作ろうとしゃがめば、拓海くんが雪玉を投げてきた。
「お、当たった」
「そりゃ当たりますよ、わたししゃがんでるんですから。てか拓海くんが投げてくるの痛いんですよ、やめてくれません?」
「それは無理」
口を動かしつつ手も動かして雪玉を作っていたら、あっという間に手の中に白い球体ができた。形が少し歪になってしまったけれど、まぁいいだろう。立ち上がり、同じようにしゃがんでせっせと雪玉を作っている拓海くんに向かって投げる。
「いった……やったな」
雪玉を作っては投げて、雪玉を作っては投げてを繰り返す。笑い声を上げながら走り回る。足に蹴られた雪が舞う。雪玉が身体にぶつかり、じんわりと熱を奪う。
やっていることは馬鹿みたいなことで、子供がやるようなことで、今までのわたしなら絶対にやらなかったはずなのに、拓海くんとなら嫌だと思わないのはなぜだろう。
やがてふたりとも力尽きて、わたしはふかふかの雪にばたんと倒れ込んだ。隣に拓海くんも寝転ぶ。
「雪って思ったより固いんだな、寝心地悪い」
「ここで寝る気ですか?」
「俺はいいけど」
「わたしは絶対に嫌です」
雪に散々触れた手が冷たい。手袋とかマフラーをしてくればよかったと今更後悔をした。第一遊ぶなんて思ってもいなかったから仕方ないか。
天に向かって伸びた木が空を覆っていて、木と木の狭間からしか夜空が見えない。それでも所々に見える星はまばゆい輝きを放っていた。
「綺麗ですね、星」
「そう?俺の方からだと全く見えない」
んしょ、と拓海くんがわたしの方に身体を寄せてくる。ぴったりと肌が密着し、体温が伝わる。
「どうするんですか、誰かに見られたら。変な人だと思われますよ」
「大丈夫だよ、時間が時間だし」
そう言われればそうだけど、やっぱり不安は拭えない。というか今何時なんだろう。家を出るときにちらっと見た時計は夜の十一時過ぎを指していた。
「ほんとだ、綺麗な星。特にあれが綺麗じゃない?」
「あれってどれですか?あの大きいやつ?」
一段と目を引く、大きな星が空に浮いていた。それを指差す。
「俺が言ってるのは違うやつ。ほら、これ」
拓海くんがわたしの手を取って動かす。指の先には、真っ黒な空にぽつりと浮かぶ星があった。
「ほんとだ。綺麗ですね」
「でしょ」
空を眺める拓海くんの横顔を見つめながら、ふと思った。あの星は、拓海くんみたいだと。
決して変な意味で言っているわけではない。周りの深い空を押しやって、美しく輝いていること。たったひとりで空に浮かんで、堂々と胸を張って生きていること。その美しさと、勇敢さ。拓海くんは、そのふたつを溢れるほど持ち合わせている。
「あの星、拓海くんみたいです」
わたしがそう言うと、拓海くんは笑いながら起き上がった。それにつられてわたしも起き上がる。
「俺みたいってどういうこと」
「悪い意味じゃないですよ?」
「分かるけどさ」
近くの遊具に手を置いて、力を入れて立ち上がる。
「綺麗ってことですよ、あの星みたいに」
言った刹那、恥ずかしさがこみ上げてくる。こういう台詞はどうも性に合わない。言われるのも慣れていないし、言うのなんてもっと慣れていない。
「……なんかそういうの、言われると恥ずかしいな」
それは拓海くんも同じなようで、照れたように顔を隠して笑っていた。
「早く帰りましょ、わたし寒くなってきました」
照れを隠すように早口で言った。寒いと言ったけれど、このふわふわとした空気が漂う場から抜け出すための口実でしかない。
「寒い?ごめん、早く帰ればよかったね」
そう言いながらふたりで歩き出す。階段を降り、公園を出て、いつもの路地裏に入る。
この薄汚くて迷路みたいな路地裏にも、もう慣れた。たまに迷いそうになるけれど、もう大体の道は覚えた。鼻を刺す悪臭にも、慣れた。
あ、と拓海くんが声を出す。何だろうと思っていると、着ていたコートのポケットから何かを取り出した。