第3節 しごと


1


 拓海くんとふたり並んで、テレビを見ていた。ふたりとも夜ご飯を食べ終えて、わたしは笑ってテレビを見ていて、拓海くんは晩酌をしていた、その時。
――プルル、プルル。
「電話?俺かな」
「いや、わたしですね。誰でしょう」
 携帯を取って、画面に表示されていた名前を見た瞬間、息が止まるような心地がした。
「誰?かけてきたの」
 電話をかけてきたのは、
「――母、です」
 家を出てから一ヶ月。最近は全く連絡もよこしてこなかった、母だった。今更か、と思う。
 家出をした当日に大量の電話とメールは来たけれど、それきり諦めたように連絡はなかった。どうせ男といい感じにでもなっているのだろう。
 なのに、どうして今。
「どうする、それ」
「出てみますか?」
 面白いことを思いついた、純粋無垢な子供のような顔で言う。今までなら当たり前のように電話に出なかっただろう。
 でも今なら、拓海くんが隣にいてくれるなら。
 わたしは表示されている受信ボタンを押し、携帯をスピーカーにして机の上に置いた。
「……もしもし、お母さん?」
『あんたどこにいんのよ!!』
 挨拶もなしに怒号が飛んでくる。夜によくもまぁこんな大声で喋れるなぁと思う。相変わらず騒がしい母親だと思い、しかめっ面を浮かべた。
『あんたねぇ、聞いてるの!?今どこにいるかって言ってんのよ!』
「どこにいたっていいでしょ。いつもいなくていいとか言ってたじゃん」
 自分でも驚くほどに冷たい声が出た。気を抜くとひどい言葉をぶつけてしまいそうで、わたしは自分を必死に抑えた。だめだ、わたし。一回落ち着け。誰の前でも感情を見せないことは得意だったじゃないか。
『璃恋、早く帰ってきて。あなたがいないと困るのよ』
 心のどこか、小さい小さい欠片が、揺れた。もしかして、母親はわたしを必要としてくれているのだろうか。もしかしたら、家族で幸せに生きられるのだろうか。
 そんなわけない、きっとまた利用されるだけ――そう思っても、わたしは"当たり前の幸せ"への憧れが抑えきれなかった。
 わたしだって、普通に生きたかった。死にたいなんて思いたくなかった。苦しんで苦しんで、ひとりで泣きながら眠りたくなかった。通帳を眺めてはため息をつくのだって嫌だった。ぜんぶぜんぶ、嫌だった。
 だから、どうか。少しでいいから、当たり前の家族の幸せを、わたしは知りたい。
 そんな淡い願いは、次の一言でかき消された。
『あんたがいないとあたしが生きられないでしょう。洗濯とか料理とか、あたしできないんだから』
――ああ、やっぱりそうか。
 期待したわたしが馬鹿だった。分かっていたのに、目の前にいざ明るい未来が提示されると、掴みたくなってしまう。掴もうとしたところで消えていってしまうと、気づいていたのに。
 母親はわたしのことを子供だと思っていないみたいだ。母親からするとわたしは家政婦やお手伝いさんと同等のものなのだ。
 仕事をしなくなったら捨てる。仕事をしないのであればいらない。もしくは、なんとしてでも仕事をさせる。逆に仕事をしてくれるのであれば生かす。
 それ以外では生かしておく価値はない。考えすぎか、そんな自分がアホらしくなった。
「……お母さんにとってさ」
『なによもう』
 どうして、苛立った口調で返事をするの。電話の相手は自分の娘でしょう。なりふり構わず感情を出していいわけじゃない。迷惑だし、不快だ。
 ならばわたしも、少しばかり感情を出してやろうかという気持ちになった。
「お母さんにとって、わたしって何なの?」
 数秒の沈黙が流れる。なんて返ってくるだろうか。
 期待はしていない。第一声からあんなんだったんだ。独りよがりで、自分のことしか考えてない、最低な人。
『……大事な娘よ』
 中身がなさ過ぎる台詞にびっくりした。同時に、腹の底から笑いがこみ上げてきた。怒りに歪んだ顔でこの馬鹿みたいな台詞を吐いているところを想像したら、なんだか面白くなってきてしまった。
 口だけならどうとでも言える。人間なんて嘘に嘘を重ねて生きている。母親も昔から嘘をつくことが多かった。でも、母親は嘘をつくのが極端に下手だった。
 分かってしまうのだ。なんというか、全体的に薄っぺらくて、感情がこもっていない。先程わたしに向かって吐き出された台詞も、指でひっかいたら破れてしまいそうな程に薄っぺらかった。
「分かった、ありがとう。でもわたしはもう帰らない」
『はぁ!?親の言うことを聞きなさいよ!』
 親、だって。大した子育てもしてないくせに。わたしは大きくため息をつく。その間も母親はがみがみ何か言っていて、何を言おうにも話が通じない。この人とは根本からわかり合えないのだと悟った。
「もうわたしの好きにするから。電話もメールもしてこないで」
『ねぇ、何言ってるのよ。早く帰ってきてよ、お父さんも待ってるんだから、ねぇ、璃恋』
「……璃恋、俺からもなんか話そうか?」
 電話に乗らないよう、小声で拓海くんが話す。また厄介なことになりそうだと思って少し迷ったが、ひとりではないということだけ伝えておいてもいいかもしれない。
「じゃあ、お願いします。なんでも言っちゃってください」
 大きく頷いて、拓海くんが携帯に身を乗り出す。
「すみません、電話替わりました」
『何、男?』
 まだ一言しか言っていないのに、もう早速男か聞いてくる反応速度には呆れる。
「えっと、黒瀬拓海といいます。璃恋さんとお付き合いをしている者です」
『なになに、そういうこと?あんた、彼氏できたならいいなさいよ。黒瀬さん、だったっけ、うちの璃恋がお世話になってます』
 急に母親の声のトーンが変わった。男の前だと話し方も声色も、態度もすべて変わるもんだから嫌でしかない。
『あ、もしかして、今一緒に住んでるってこと?同棲?』
「えっと……まぁ、そういう感じですね。すいません、言うのが遅くなって」
『いいわよいいわよ、お幸せにね』
 それだけ言うと電話がぶつっと切れた。一気に身体から力が抜ける。
「……嵐が過ぎたみたいな感じですね」
「ほんと、疲れたわ。毎日あんなの相手にしてたわけ?」
「そうです、毎日うんざりしっぱなしですよ」
 口ではそう言ったが、それ程うんざりすることはなかった。
 母親は男の家に入り浸り、父親は仕事で海外にいることの方が多い。お互いがお互いに別の好きな人を用意していて、その人と幸せそうにやっている。とはいえまだ縁が切れていないのは、わたしというお荷物のせいなんだろう。
「……そう言えばさっき、付き合ってるって」
「あー、ごめん。咄嗟に嘘ついた。嫌だったろ」
 そう言って拓海くんは立ち上がり、冷蔵庫からビールを出す。ビールを取ってまたわたしの隣に座る。
「……嫌じゃない、って言ったら、どうしますか」
 ビールを開けようとした拓海くんの動きが止まる。面倒臭いことを言っているのは分かっている。今わたしが言おうとしていることは、きっとどちらの得にもならないものだ。最悪の場合、この幸せな日々をぶち壊してしまうかもしれない。
「何、お世辞?笑わせようとしてくれてんの」
「本気ですよ」
 お互い何も言わず、ただ目と目が合う。
「……拓海くん」
――好き、です。
 そう言おうとした言葉は、無機質な機械音によって遮られた。その機械音と、後に流れた音声がお風呂が沸いたことを告げる。