こんなマンガみたいな光景、初めて見た。
 なんていったって、下駄箱がラッピングされたチョコで溢れかえっているのだ。
 もちろん俺の下駄箱ではなく、その隣である。上履きは邪魔だったのだろう、下駄箱の一番上にちょこんと置かれていた。
「……なぁ。毎年思うけど、これ、イジメじゃね?」
 当の本人である御子柴が辟易した顔で言う。
 俺はというと、怒りとか嫉妬とかそういった負の感情は微塵も芽生えなかった。まるでパズルのように器用に詰め込まれたチョコの群れを見て、思わず一歩後じさる。
 なんというか怨念めいたものがすごい。バレンタインのチョコだろうとなんだろうと、人間、多すぎる物を見ると一旦ドン引きしてしまうことを知った。
 隣で見てるだけの俺でさえこうなのだ。当人となればその恐怖はいかほどか。さしもの御子柴も大きな溜息をついている。
 その動きに当てられてか、危ない均衡を保っていたチョコの一つがことんと床に落ちた。
「おー、おー、おー、やってんなぁ、今年も」
 やけにオラついた声が聞こえてきたかと思うと、高牧が自分の上履きを取り出しているところだった。その中は空っぽ。まぁ、俺も同じだけど。
「それが下々の者には手が出ない、チョコレイトという菓子ですか。さすがお貴族様は口にするものが違いますなぁ」
 絡み方が普段の三倍ウザいし、世界観が若干おかしい。御子柴は堰を切ったように次々と落ちてくるチョコを拾い集めながら、うんざりと高牧に言い返した。
「コンビニ行ってこいよ。二十円で売ってんぞ」
「俺が欲しいのはそんなどこででも買えるやつじゃねーんだよ、女子のかほりとか恋心とかあれやこれやが詰まったチョコなのッ!」
 高牧は上履きに足を突っ込むと、俺の首に腕を回した。怒りがこもっていて力が強く、思わずぐえっと呻く。
「ちょ、苦し……」
「分かる、分かるぜ、その苦しい気持ち。行こうぜ、水無瀬。こんな奴は捨て置いて、いざゆかん、我らの輝かしい未来へ!」
「お前はどこ行くつもりなんだよっ」
「急くな、まだ機会はある。教室のロッカーとか、机の引き出しとか、声かけられたりとか。そう、お家に帰って寝るまでがバレンタインです!」
「いいから離せ!」
 為す術なくずるずると引きずられていく。俺は息苦しさに目を眇めながら、離れていく御子柴を見やった。
 御子柴はさっきにも増して苦虫を噛みつぶしたような顔をこちらに向けていたが、やがて諦めたようにチョコを鞄に詰め込み始めた。



 俺は自席に着いて、半ば呆れたように嘆息した。
 目の前の席には——机の上や中、果ては椅子の上にまで、大小形も色も様々な箱が山となって積まれている。
 誰も彼もがどこか浮き足だっている中、チョコの山が今にも崩れそうなこと以外、俺の心を掻き乱すものはなかった。今日一日、こんなフィクションみたいな光景をずっと見続けなければならないのだろうかと思うと、自然と冷静にもなろうというものだ。
 俺と高牧が教室に着いてから数十分経っても、御子柴は一向にやってこなかった。昇降口から二階へ続く階段の短い間、手渡しを狙う女子に捕まっているのかもしれない。
 早く来いよ、と思う。だって教室の廊下にも十人は下らないファン達が待ち構えているのだから。
「嘘みたいだろ。これ、現実なんだぜ……」
 やたらニヒルな口調で高牧が呟く。
 俺は席を立ち上がり、乱雑に置かれたチョコの山を整えてやった。勝手に触るのもどうかと思ったが、ぐらぐらしている天辺の箱を見るとこっちまで不安定になる。
「……この中で、何人ぐらい本気なんだろうな」
 ふと呟いた言葉を、高牧の耳に拾われた。
「さぁ。アイドル扱いとか記念受験とかも多いんじゃねー? どっちにしろ御子柴にはすみやかに禿げて欲しい」
「不用意なこと言うなよ。多分、お前が先にやられるぞ」
 言うが早いか、廊下にさざめくような声が上がった。下駄箱に入っていた倍の量のチョコを抱えた御子柴が、入り待ちの女子達に囲まれているところだった。
 あのチョコの数だけバックがついているのだ。御子柴に牙を剥いたところで敵うはずがない。高牧は明後日の方を向いて、話題の矛先を変えた。
「今年の一番は誰かねえ。我らが御子柴か、三組の溝久保か、五組の長谷あたりも結構いいセン行くと思うぜ。水無瀬、なんか賭ける?」
 虚しくないのか、お前は……。そう返そうとしたが、高牧の笑顔があまりにも寂しそうなので、俺は言葉を呑み込んだ。


 ホームルームが終わるなり、御子柴はこちらに振り向き、俺の机の上に頬杖をついた。いつも涼しい顔をしているこいつにしては珍しく、眉間に皺が寄っている。
「さすがに疲れたか?」
「ちょっとな」
 ちょっとで済むところがすごい。あれだけの人数の女子に囲まれたら、俺なんかトラウマになるかもしれない。
 とはいえ、バレンタイン攻勢は一段落していた。
 まぁ、すぐに再燃するのは、目に……見えてるが……
「な、何?」
 俺は戸惑って目を瞬かせた。御子柴がさっきから無言で、俺をじっと見つめているのだ。
 当然、俺はうろうろと視線を彷徨わせる。廊下側の窓から漏れる光が、黒目がちの瞳を彩り、まるで夜空を覗き込んでいるかのようだ。何かを見通すような、訴えるような真っ直ぐな目。その中に閉じ込められた自分の虚像を見つけ、さらに落ち着かなくなる。
 すると御子柴が小声で囁いた。
「三秒でいいから、目合わせて」
 な……なななな? 尚も上目遣いをやめない御子柴に、俺は押し負けて言われた通りにしてみる。一、二、——いや、無理!
 ぎゅっと目を瞑って顔を逸らすと、御子柴は一拍遅れて深い溜息をついた。そして力のこもっていた眉間を緩めるようにほぐし始める。
「お前は……本当に、すぐそうやって」
「だって人とそんなに目合わせることなんてないだろ。一体、何なんだよ」
「いや、もしかしてどっかに——」
 と、そこへ俺たちの間に人影が落ちた。
「おはよ、御子柴くん。たくさんもらってるだろうけど、どうぞ」
 さらりと、にこやかに。御子柴に小さな箱を差し出したのは、クラスメートの天野游那だった。
 艶やかな黒髪ロングが流れるように揺れる。
 チョコも他の子の派手なラッピングとは違って、クリーム色の包装紙に包まれた簡素なものだった。
 高牧曰く、天野さんは御子柴のことが——好きらしい。さりげない仕草の中にも一匙の緊張が感じ取れるような気がして、俺はなんとなく目を伏せた。
 少し休んでいつもの余裕が出てきたのだろう。御子柴もまた爽やかな笑顔で天野さんのチョコを受け取った。
「ありがと。天野のチョコ、甘過ぎなくていいんだよな」
「え? ほ、ほんと? 嬉しいな……」
 どうやら手作りのようだ。前髪を梳いたりして照れ隠しする天野さんは、とてもいじらしい。
 美男美女が繰り広げる甘酸っぱい光景が、ちくりと胸の隅を刺す。精一杯気配を消していると、天野さんは不意に俺の方を振り向いた。
「はい、水無瀬くんにも」
「え?」
 渡されたのは御子柴と同じものだった。台詞からして完全無欠なる義理チョコだけど、まさかおこぼれに預かれるとは思わず、俺は目を丸くする。
「いいの?」
「もちろん。私、お菓子作るの好きで、いつもクラス全員にあげてるんだ。水無瀬くんとクラス一緒になるの初めてだから、お口に合えばいいんだけど……」
 ふんわりとした眉がちょっと下がって、大きな瞳が心配そうに俺を見ている。どくどくと心臓の音がうるさい。俺は天野さんを直視できず、しどろもどろになる。
「多分、大丈夫。いや、絶対。俺、妹のチョコも笑って食べれるし」
「あはは、笑って食べれるってどんなチョコなの?」
「まだ十歳だからさ……。その、昨日も台所が大変で」
「へえ、小学生? そんなに歳離れてるんだ、可愛いね〜」
 天野さんはその後も俺と、二、三言交わすと、じゃあね、と手を振って友達の輪に戻っていった。ああ、悪いことをしたかもしれない、天野さんは御子柴と話したかっただろうに。
 手の中の箱に視線を落とす。眩しすぎる光を浴びて目が潰れそうな、そんな錯覚に陥る。
 途端、ぎゅむっとつま先を踏まれた。それほど痛くはなかったものの、驚いて向かいを見ると、御子柴がにこにこと俺を眺めていた。
「なんだよ」
「いやぁ、ちょっと釘を差しとこうかと」
 ……あ、なんか勘違いしてるな、こいつ。
 俺の呆れかえった表情をさらりと躱し、御子柴はおもむろにスマホをいじりはじめた。こっちの気も知らないでいい気なものだと口を尖らせていると、鞄の中からメッセージの受信を報せるバイブレーションが聞こえて来た。
『それ以上デレデレしたら浮気と見なす』
 思わず顔を上げて、御子柴を睨む。一時間目の始業のチャイムが鳴り響いた。御子柴は俺の頭をぽんと軽く叩いてから、前に向き直った。