私の余命が判明した日から早くも五日が経った。
あの日から絃月は姿を現さない。
最後の診察で何も異常が無いとされ退院することができた。
右手で松葉杖を持って体を支える。なかなか慣れず新鮮な空気を上手く吸えない。いい迷惑だ。
隣に並んで歩いていたはずの母はとても遠いところまで進んでいた。健全な足だったら一瞬で追いつくことが可能なのに。
私が事故に遭っていなかったら。きっと今も閉じ籠ったままだっただろう。――絃月に出会えていなかっただろう。
ならばこれぐらいの代償は受けてもいいか。事故に巻き込んでしまった人には申し訳ないが。
そうだ。事故に巻き込んでしまった人々はどうなっているのだろう。
私を轢いてしまった自動車の運転手さん。今どこにいるんだろう。ニュースなど見ないからこの事故がどう捉えられているかも知らない。
警察が顔を出してくる様子はないからこのまま私は生きていいのだろう。
――不自然な状況に違和感を抱いた。
「おはよ」
突然どこからかやってきた絃月。
彼の背中より奥に母の背中が映るが、きっと私がいなくても歩き続けるだろう。気にせず、絃葉の隣に立った。
「どうしたの?」
「会えなかったから寂しくしてるかなーって思って。本当は仕事しに来ただけ、だけど」
強調された言葉に恐ろしさが混じっていた。
私にとっての絃月と絃月にとっての私は違うのかな。
「絃月」
「何?」
「早く死にたいって言ったら殺してくれる?」
ブレーキが利かぬまま飛び出していった言葉。
「殺すなんて物騒なこと言わないでよ」
「絃葉は知っているでしょ。私に弟がいたこと」
「知ってるよ。――もうこの世にいないことも」
子供好きな母と父の間にできた私。その後も二人は子作りを続けていたようだが、命が宿ることはなかった。
七年前、母のお腹にようやく命が宿った。私が十歳だった頃のことだった。
家族三人、喜んで、喜んだ。本当に嬉しい出来事だった。私はお姉ちゃんになるんだと楽しみだったし、ほんの少し不安が織り交じっていた。弟が生まれてくることをみんなで待った。
母が妊娠した数か月後のことだっただろう。父が亡くなった。過労死だった。
父は、サラリーマンでいつも忙しそうだった。いつも電話で誰かに謝っていた。頭を下げ続けていた。げっそりとした顔を見るのが苦しかった。
母と私の二人きりとなった部屋。空白が大きくて苦しかった。
その矢先、母のお腹の赤ちゃんが亡くなった。原因不明の流産だった。
大切な人を一度に亡くした私たち、特にお母さんは病んでしまった。
母は、琴の先生をやっていた。和服姿がとても綺麗であった。でも、お父さんと弟を亡くしてからすぐは外に出ることが出来なくなって働くことをしていなかった。最近、スーパーマーケットでパートとして働き始めた。でも、音を奏でることはなかった。私も、音楽から離れていた。
お父さんと弟を亡くしてから私の性格は激変した。自覚はしていた。友達をいじめたり、人のものを盗んだり、万引きしたりと最低な人間と化した。
小学生の間は問題児として見られていた。実際、問題児と思われていた原因の行動のすべては私の意思からのものではなかった、そう信じたい。
中学生になると、悪いことをし続けた。非行に走り続けた。注意されても聞く耳を持たないで流していた。
勉学に手を付けなかった。成績なんてなかったようなものだった。そのせいで進学できる高校は少なかった。自業自得だが。
入学した全日制の高校。一年間は行く気があった。下の下の成績のまま月日が経っていった。
高校二年生。いきなり行く気をなくした。理由はない。ただ怠い。
きっとついに心が壊れたのだ。大切な人を失った記憶が思い起こされちゃったんだ。ふとそう思った。
父にはなぜか強く会いたいと思えない。幼い時に失ったが、今でも生きているかのような感覚が残っている。私の部屋に二人で撮った一枚の写真が飾られているからだろう。
そのせいかまだ見たことのない、存在しない弟は求めるようになった。私の一人だけの弟。彼に会ってみたいのだ。
――死ねばいい。そうしたら二人に会える。
直前までは思っていなかった考えが浮かび上がってしまった。
「姉ねが死んだって二人には会えないんだからね」
「何で?」
「それは……」
苦しそうな表情を浮かべる絃月を見ているのが苦しくなり、前言撤回しようとした。
「冗談だよ。困らせてごめん。もう、答えなくていいから」
噓つきだ。冗談ではないから。死ねばいいという考えが浮かんだのは事実だ。
「僕さ、姉ねを幸せにするとか言いながら顔出してなかったから、負の感情が生まれちゃった?」
人間ではないが、幼い子の見た目をした彼にこんな顔をさせるのは悪者のようだ。心が申し訳なさで一杯になった。
「そういうわけじゃないから」
「ごめんね」
「謝らなくていいよ」
音が止まったような二人の間。ひと時の沈黙は苦痛だった。
「ねぇ、幸せって何? 心という心を持っていない僕にとっては永遠に解けない問題なの」
私に聞く質問ではないだろう。かれこれ人生のほとんどを無感情で過ごしてきたから。
「知らない。考えたこともない」
「姉ねにとって、楽しいことって何? それを知ることが出来たら、未来に繋がっていくの」
よくわからなくなってきた。絃月が何を求めているのか。
「よし、姉ね。一緒に遊びに行かない?」
突然、顔を上げて誘ってきた。絃葉の情緒はどこまでも不安定だ。
「別に、いいけど」
「じゃあ、行こう!」
絃月の声はとても踊っていた。楽しそうだ。純粋な心を持っている絃月に憧れを抱いた。
「姉ね! 明日の正午、おうちまで迎えに行くね! 待っててね!!」
見えなくなるまで手を振り続けてくれた。私は小さく「またね」と告げた。
あの日から絃月は姿を現さない。
最後の診察で何も異常が無いとされ退院することができた。
右手で松葉杖を持って体を支える。なかなか慣れず新鮮な空気を上手く吸えない。いい迷惑だ。
隣に並んで歩いていたはずの母はとても遠いところまで進んでいた。健全な足だったら一瞬で追いつくことが可能なのに。
私が事故に遭っていなかったら。きっと今も閉じ籠ったままだっただろう。――絃月に出会えていなかっただろう。
ならばこれぐらいの代償は受けてもいいか。事故に巻き込んでしまった人には申し訳ないが。
そうだ。事故に巻き込んでしまった人々はどうなっているのだろう。
私を轢いてしまった自動車の運転手さん。今どこにいるんだろう。ニュースなど見ないからこの事故がどう捉えられているかも知らない。
警察が顔を出してくる様子はないからこのまま私は生きていいのだろう。
――不自然な状況に違和感を抱いた。
「おはよ」
突然どこからかやってきた絃月。
彼の背中より奥に母の背中が映るが、きっと私がいなくても歩き続けるだろう。気にせず、絃葉の隣に立った。
「どうしたの?」
「会えなかったから寂しくしてるかなーって思って。本当は仕事しに来ただけ、だけど」
強調された言葉に恐ろしさが混じっていた。
私にとっての絃月と絃月にとっての私は違うのかな。
「絃月」
「何?」
「早く死にたいって言ったら殺してくれる?」
ブレーキが利かぬまま飛び出していった言葉。
「殺すなんて物騒なこと言わないでよ」
「絃葉は知っているでしょ。私に弟がいたこと」
「知ってるよ。――もうこの世にいないことも」
子供好きな母と父の間にできた私。その後も二人は子作りを続けていたようだが、命が宿ることはなかった。
七年前、母のお腹にようやく命が宿った。私が十歳だった頃のことだった。
家族三人、喜んで、喜んだ。本当に嬉しい出来事だった。私はお姉ちゃんになるんだと楽しみだったし、ほんの少し不安が織り交じっていた。弟が生まれてくることをみんなで待った。
母が妊娠した数か月後のことだっただろう。父が亡くなった。過労死だった。
父は、サラリーマンでいつも忙しそうだった。いつも電話で誰かに謝っていた。頭を下げ続けていた。げっそりとした顔を見るのが苦しかった。
母と私の二人きりとなった部屋。空白が大きくて苦しかった。
その矢先、母のお腹の赤ちゃんが亡くなった。原因不明の流産だった。
大切な人を一度に亡くした私たち、特にお母さんは病んでしまった。
母は、琴の先生をやっていた。和服姿がとても綺麗であった。でも、お父さんと弟を亡くしてからすぐは外に出ることが出来なくなって働くことをしていなかった。最近、スーパーマーケットでパートとして働き始めた。でも、音を奏でることはなかった。私も、音楽から離れていた。
お父さんと弟を亡くしてから私の性格は激変した。自覚はしていた。友達をいじめたり、人のものを盗んだり、万引きしたりと最低な人間と化した。
小学生の間は問題児として見られていた。実際、問題児と思われていた原因の行動のすべては私の意思からのものではなかった、そう信じたい。
中学生になると、悪いことをし続けた。非行に走り続けた。注意されても聞く耳を持たないで流していた。
勉学に手を付けなかった。成績なんてなかったようなものだった。そのせいで進学できる高校は少なかった。自業自得だが。
入学した全日制の高校。一年間は行く気があった。下の下の成績のまま月日が経っていった。
高校二年生。いきなり行く気をなくした。理由はない。ただ怠い。
きっとついに心が壊れたのだ。大切な人を失った記憶が思い起こされちゃったんだ。ふとそう思った。
父にはなぜか強く会いたいと思えない。幼い時に失ったが、今でも生きているかのような感覚が残っている。私の部屋に二人で撮った一枚の写真が飾られているからだろう。
そのせいかまだ見たことのない、存在しない弟は求めるようになった。私の一人だけの弟。彼に会ってみたいのだ。
――死ねばいい。そうしたら二人に会える。
直前までは思っていなかった考えが浮かび上がってしまった。
「姉ねが死んだって二人には会えないんだからね」
「何で?」
「それは……」
苦しそうな表情を浮かべる絃月を見ているのが苦しくなり、前言撤回しようとした。
「冗談だよ。困らせてごめん。もう、答えなくていいから」
噓つきだ。冗談ではないから。死ねばいいという考えが浮かんだのは事実だ。
「僕さ、姉ねを幸せにするとか言いながら顔出してなかったから、負の感情が生まれちゃった?」
人間ではないが、幼い子の見た目をした彼にこんな顔をさせるのは悪者のようだ。心が申し訳なさで一杯になった。
「そういうわけじゃないから」
「ごめんね」
「謝らなくていいよ」
音が止まったような二人の間。ひと時の沈黙は苦痛だった。
「ねぇ、幸せって何? 心という心を持っていない僕にとっては永遠に解けない問題なの」
私に聞く質問ではないだろう。かれこれ人生のほとんどを無感情で過ごしてきたから。
「知らない。考えたこともない」
「姉ねにとって、楽しいことって何? それを知ることが出来たら、未来に繋がっていくの」
よくわからなくなってきた。絃月が何を求めているのか。
「よし、姉ね。一緒に遊びに行かない?」
突然、顔を上げて誘ってきた。絃葉の情緒はどこまでも不安定だ。
「別に、いいけど」
「じゃあ、行こう!」
絃月の声はとても踊っていた。楽しそうだ。純粋な心を持っている絃月に憧れを抱いた。
「姉ね! 明日の正午、おうちまで迎えに行くね! 待っててね!!」
見えなくなるまで手を振り続けてくれた。私は小さく「またね」と告げた。



