今日も来てないのか。
莉桜は、突然早退したあの日から学校に来なくなった。今日は六月十七日。もう、三週間くらい莉桜に会っていない。そういえば、あんなにも仲良くしていたのに私は莉桜のことあまり知らない。住所だって知らないし、最近はラインも電話も出てくれない。
「どうしちゃったの、莉桜」
 先生に聞いてみたら毎日、欠席の連絡は来るらしい。私は、先生に頼み込んで莉桜の住所を教えてもらった。
『本当はだめなんだぞ。生徒個人の住所を教えるのは、だが、まぁ、本田ならあいつを頼めるかもな。いいか、お前を信用して教えたんだ。そのことをしっかり頭に入れて、行って来い。佐藤を頼むぞ』

「先生。なんであんなに念を押したんだろ。そんなに言わなくても、私が莉桜の住所を悪用とかするはずないのに」
 莉桜の家は学校から少し離れた町にあるらしかった。電車に揺られながらその町の風景を眺めてなんだか見覚えがある気がした。なんで、こんなに離れている場所なのにうちの高校にしたんだろう? 少し不思議に思いながらも窓の外をぼーっと眺めていると、隣に座っていた買い物帰りのような女性二人組の話声が聞こえてきた。
「ねぇ、あそこの、向かい側に座っている男の人いるじゃない?」
 向かいの席? 気になってさりげなく視線だけを動かしてみる。そこにはジーンズにパーカーを着た大学生くらいの男性が座っていた。
フードをかぶっていてあまり表情は見えない。
「・・・そうなのよ。それでさっき、ちらって見た時にね」
 特に変なところもないのにどうしたのだろう。男性は手元に小説を開いていた。女性二人組は声を抑えながらも楽しそうに話を進める。
「片方の目の色が白かったのよ」
「え、そうなの? あれかしら、あの『うさぎ』っていうやつじゃない」
 
 『うさぎ』それは私も何度か耳にしたことがあった。
小学校、中学校と総合などの授業で『差別問題』の例としてよく使われていた。今になっては、あまり差別的な事は聞かないが私が小学校高学年くらいまでは結構ニュースでも問題になっていた。
飲食店でうさぎと呼ばれる人が食事に来ているとお酒で酔った一人に飲料水を頭からかけられた事件やデパートでバイトをしていた人が子供に風船を渡そうとするとその子の母親に差別的な言葉を浴びせられたなど、突然現れた『うさぎ』という存在にまだ世間が追い付けていなかった。
私自身、存在自体は知ってはいたが実際に見たことはなかった。
「なんか、噂で聞いたことがあるけど『うさぎ』って移るんでしょう?」
「そうなの? いやねぇ、今時目が見えないなんて。安心して買い物にも行けないわよ」
「そうよねぇ。いい気はしないわよね」
 女性二人組は声を潜めているつもりのようだが、声が次第に大きくなっていることには気づいていないようだった。
「ねぇ、ちょっと私怖いから隣の車両に行かない?」
「そうね。行きましょう」
 そう言って、女性二人組は席を立った。
気持ちも分からなくはないけど、あまりにも酷過ぎやしないだろうか。あの男性がうさぎだって言うことが本当かもわからないのに。女性二人組の背中を少しにらみつけ男性の方を振り返ってみると、動じた風もなくさっきと同じところで本を読んでいた。
しばらく電車に揺られた後、私は住宅街へと向かった。電車に乗っている間、あの男性が小説をめくっているのを私は一度も見なかった。

なんかこの町、少し寂しい感じがするなぁ。
そこは、住宅街とは思えないほど静かな場所だった。
「なんだか、ここだけ別の空間みたい」
 道なりに沿って進んでいくと濃い茶色の家が見えてきた。
ここが恐らく先生の言っていた莉桜の家だ。大丈夫だよね。私、いつも通りにできるよね。インターホンを軽く押す。
よく聞く音と一緒にはーい、といった明るい声が聞こえた。莉桜のお母さんかな。莉桜の声にそっくりでどこか安心すると同時になぜか、心の隅のほうが少しだけ痛かった。
「はい」
「あの、莉桜さんと同じ高校で仲良くさせていただいている桜です。莉桜さんは、いらっしゃいますか?」
「莉桜のお友達?」
 重そうなドアを開いたのは、莉桜にそっくりな、まぁ、厳密には莉桜がそっくりなんだけど、とても綺麗な女性だった。
「はい! 本田桜といいます」
「あら、桜さん? とても可愛らしい名前ね。私、莉桜の母です。せっかくだから、あがっていって」
 莉桜のお母さんはそう言うと、私を家に入れてくれた。家の中はとても質素で家具もシンプルなデザインが多かった。
ケーキ、出すからちょっと待っていね、彼女はそう言うと嬉しそうにどこか行ってしまった。
「あ、あの。おかまいなく」
私は、邪魔にならなそうな場所に座ってあたりを見渡す。家具こそシンプルだが、黄色や白などの色は見当たらない。色ははっきりとした見やすい色が多いが、上手くそろえてあるため派手には見えない。
だが一つだけ、小さな黄色い花がテーブルに飾ってあった。
「・・・カタバミ?」
「ごめんなさいね。こんなものしかないけど」
 彼女はそう言って、紅茶とチョコケーキをテーブルに置く。
そのしぐさの全てがとても丁寧で、優しさが溢れていた。彼女は、ゆっくりと自分の紅茶を飲むと私を見た。
「あの、一つ聞いていいかしら」
「は、はい」
 こんなに綺麗な人に改めて言われると少し身構えてしまう。何か、変な事でもしただろうか、気に障ることでもあっただろうか。不安で頭がいっぱいになりかけていると、彼女はニコッと効果音でもついていそうな笑顔を向けた。
「あの子は、莉桜はちゃんとお友達がいる?」
 拍子抜けしてしまった。確かに、初めの頃は話しかけづらい雰囲気はあったが、今ではクラスの子達とも普通に会話をしているはずだ。
「はい、クラスの子とも普通にしゃべっていると思いますよ」
「そうなのね」
 彼女はなぜか心底安心しきったような表情を浮かべると、莉桜の部屋は二階よ、と教えてくれた。
「ありがとうございます。わざわざ、お茶まで用意していただいて」
「いいのよ」
 二階か、三週間って結構長い間会ってなかったな。
私は、そっとその場を立った。
「桜さん」
「はい」
 彼女は、しっかりと私の目を見ながら言う。
「莉桜のお友達でいてあげて下さいね。お願いします」
「は、はい。もちろんです」
 なんでそんなことを言うのだろう。私は言われた通りに二階へと歩みを進めた。一段ずつ、階段を上るたび莉桜への距離が近くなる。
どうしてかな、いつも普通に会っていたのになんだか緊張する。
 なんて言おう。久しぶり。さびしかったよ。大丈夫? 何かあったの。学校に来ないから心配していたんだよ。
言葉が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そうこう考えているうちに、莉桜の部屋の前に着いた。聞きたいことなら山ほどあったのに、扉にノックをすることをためらっている自分がいる。
よし、本田桜! ここでためらっても何も解決しない。夏祭り、莉桜も一緒に行くんでしょ。今諦めたらもう、莉桜は戻ってこないかもしれない。なんだか、そんな気がしてならない。だから、
「・・・莉桜。私だけど」
 自分から聞こえた音はずっと小さなものだった。
返事はない。
「久しぶりだね」
 私、莉桜がいなかった三週間、とても寂しかった。莉桜は? 先の見えないドアに向かって話しかける。
「ねぇ、どうしちゃったの。何も言わないで急に来なくなるんだもん。すごく、心配してたんだよ」
 扉の向こうに莉桜がいるはずなんだ。なんで来られなくなったのか、莉桜ならちゃんと理由があるはず。私はもう、絶対に後悔はしたくない。
「・・・莉桜」
 私は、扉に背を預けて座る。風通しの良い廊下は、夏に近づいてきている今の時期には心地よかった。
「私ね、莉桜に言ってないことがあるの」
 それは、誰にも言えない私の秘密。
「私、昔ね。小さな団地に住んでたんだ」

「ママ! パパ、今日は帰ってくるよね」
「うん。帰ってくるよ。だって、可愛い桜の四歳のお誕生日だもの」
「やったぁ!」
「じゃあ、パパが帰って来る前にブーケンビリアにお水あげてきて」
「分かった! 赤いお花にお水!」
 私は、パパ、ママ、桜の三人家族だった。
ママは専業主婦でパパは医療研究というところで仕事をしていた。パパは、仕事の都合上なかなか私が起きている時間に帰ってくることはなかった。それでも、毎年誕生日には一緒にいてくれた。
まるで絵に描いたような家族だった。
「ただいま」
「あ、パパだ!」
 私は、パパに飛びついた。その大きな背中に背負われるのが私は大好きだった。ママもパパが大好きで、毎日お弁当を作ってあげていた。私も何か手伝いたくて、朝早く頑張って起きてお手伝いをしたりママが大好きなお花に水をやったりもした。
「あなた、おかりなさい」
「あぁ、ただいま」
 そんなある時、お隣に同い歳の男の子がいる家族が引っ越してきた。最初はちょっと恥ずかしかったけど、近所に歳の近い子供がいなかったからかすぐに仲良くなった。
「なぁ、桜」
「なに? 早くして、クリボーが来るから」
「おう」
「あ、あー、リョウが話しかけるから」
「いや、お前が下手なんだよ」
 うるさいなぁ、リョウのくせにぃ。私達はもう少しで小学一年生。
そのお祝いに、二人で仲良く使うことを条件にゲーム機を買ってもらったばかりだった。私は赤が良かったのにじゃんけんで負けてリョウが薄いピンクを選んだ。ピンクにするなら、赤でもいいじゃん! と文句を言うとリョウはこれがいいのだと聞かなかった。
「桜ちゃん、リョウ。おにぎり出来たからゲームやめて、手を洗っといで」
「はーい」
 私とリョウは家族ぐるみでよく遊ぶようになっていた。お互いに一人っ子だったこともあり、誰かと一緒に遊ぶというのはとても新鮮で楽しかった。何気ない日常。幸せな時間。ずっと、そんな日々が続くものだと当たり前のように感じていた。
でも、人生において絶対なんてない。あり得ない。
『えー、次のニュースは・・・今、速報が入りました。えー、某所にある医療研究所の研究施設が何らかの原因で大爆発を起こした模様です。えー、繰り返します』
 当たり前。そんなの、いつ終わるかわかんない。
「おばちゃん。桜、コンブがいい」
「ねぇ、桜ちゃん。この医療研究所って桜ちゃんのパパのお仕事の場所じゃない?」
 手に収まりきらないくらいに握られたおにぎりを手に振り向くと、テレビには激しく燃え上がり建物の形も分からなくなった研究所が映っていた。消防士が懸命にホースで水をかけている。近くで逃げ惑う人達。カメラワークが激しく切り替わる。すると、お弁当箱を持っている人影が映った。泣き崩れながらお弁当を抱きしめ、炎の中に向かって何かを叫んでいる。その人影は、いやぁと泣き崩れる母の姿だった。

 それからは、あっという間だった。事故が起こってからしばらくすると、なんだか偉そうなスーツを着た人達がたくさん家に来た。そこでママは何かを言われ、また泣いていた。あまりママの泣く姿を見たことがなかったから、私はどうすることもできない。
「ママ?」
 ママは、ずっと家で泣いていた。いつもはすぐにたたむ洗濯物も、きれいに並べてあるお皿もあの日からすべて止まっていた。毎朝のお弁当も、私のお手伝いもいらなくなった。
ママは、床に座り込んで泣き続ける。
「ママ」
 いつも優しいママ。
料理が上手で、パパが大好きなママ。
「ママ」
 お腹すいたな。ママの甘い卵焼きが食べたい。
私の中のママは、いつも優しくて笑っていて。
「ママ」
 大丈夫かな。
このまま、ずっと泣いていたらママの体中のお水がなくなっちゃったりしないかな。ママがカラカラになっちゃうのいやだな。
「パパ、明日は帰ってくる?」
 何度呼びかけても振り向いてくれなかったママが私を見た。
やったぁ。ママ、明日は、
「うるさい!」
「ママ?」
 ぱんっ、と大きな音がした。
私は気がつくと尻餅をついていて左の頬がじんじんした。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい! あんたは、黙っていて!」
「ごめん、なさい」
 私は、逃げるようにして自分の部屋に戻った。ママの顔が浮かぶ。見たことがない、私の知らないママだった。でも、大丈夫。だって、明日は私の誕生日だから、ママも笑って頭を撫でてくれる。
きっと、明日にはパパも帰ってきてママも美味しいケーキを焼いてくれる。だって、さくらの誕生日だもん。大丈夫。大丈夫。
ママが無くさないようにと、サクラのワッペンを縫い付けてくれた手さげのカバンをしっかりと握りしめ、ベッドの隅に小さくなって寝た。
「パパ、早く帰ってきて」

「・・・ら」
 はぁ、お腹すいたな。お菓子全部食べちゃったしなぁ。
「・・・くら」
 お買い物、ママとしか行ったことないから一人は怖いしなぁ。お小遣いでどれくらい買えるかな。
「桜!」
「・・・パパ?」
「ちげぇよ。おれ」
 よく見るとリョウが目の前にいた。手に何かたくさんの紙を握っている。
「リョウか。なに? その紙」
「いや、これは」
 私は、そっと一枚を抜き取った。あ、見るな。リョウが止めるよりも先に、紙に書かれている言葉が目に飛び込んでくる。
《出ていけ。お前の旦那がいた研究所のせいだ》
「なに、これ」
《住所はとっくに特定済みなんだよ。いつも見てるからな》
《逃げるなよ。犯罪者の家族。うちの息子を返せ》
《旦那の代わりに責任とれよ》
 何枚も、何枚も。難しい漢字はあまり読めなかったけど、そこには脅迫まがいの言葉がいくつもいくつも書かれていた。なによ、これ。私、知らない。こんなの知らない!
「リョウ」
 涙が止まらなかった。
どうしちゃったのかな、なんでかな。ママの涙が移っちゃったのかな。リョウは、何も言わずにただ私の横に座ってくれていた。涙が止まるまで、ずっと、ずっと。

「じゃあ、桜。ママ、ちょっと出かけてくるね」
 それは、突然だった。泣いてばかりだったママは、いつの間にか泣かなくなって一人でスマホに没頭するようになった。
『あなた、どこに行っていたの? 寂しかったじゃない』
 パパが帰ってきたのかと、慌ててママを見るとスマホに向かって愛おしそうに話しかけていた。
「マ・・・」
 私は、思わず口から出てしまいそうになった言葉を飲み込む。ママって言ったらいけないんだった。それは、ママとした新しい約束だった。守らなかったら、ほっぺを叩かれちゃう。そんなママが突然どこかへ行った。
スマホだけを大事そうに握って。
「マ・・・、お出かけするの?」
「うん。ママ、ちょっと、パパに会いに行かないといけないの」
「私も行く」
「あんたは、待ってなさい」
「さくらも」
「いいから!」
 ママは、振り向きもせずに玄関を出る。私も玄関を飛び出し、ママ、と何度も呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。叩かれることなんてすっかり忘れて、ただ必死に呼ぶ。
でも、ママが一瞬でも振り返ってくれることはなかった。

 その日ママは、帰ってこなかった。パパも帰ってこなかった。もう、どれくらいたっただろう。窓の外が何回明るくなったり、暗くなったりしたか分からなくなった頃。お腹が空いて、することもなくて、玄関で二人が帰ってくるのをずっと待っていた。
そっと、でもしっかりとカバンを抱きしめる。このサクラのワッペンのカバンだけが私とママを繋ぐものだった。眠かった。お腹が空いていたのもどっかいっちゃった。
「桜?」
 目の前が明るくなった。朝が来たのかな?
「母ちゃん! ・・・くらが」
 リョウ?
「・・・らちゃん! しっかりしなさい」
 おばさん? なぜか色々な事が頭の中を通り過ぎていく。
リョウが引っ越して来た時のこと、ゲームで勝負した時のこと、おにぎりにいたずらしてわさびをリョウに食べさせた時のこと、パパとママ、私とリョウのおばさん達と花火したりバーベキューをしたりしたこと。
「・・・ョウ、お父さん呼んできて」
「分かった」
 あの時はみんな笑っていた。
私も、リョウも、パパも。ママだって、笑っていた。
あれ? 私、何してたんだっけ。
でも、もういいや。疲れちゃった。
「桜ちゃん!」
あの時は、楽しかったなぁ。
 気がつくと、リョウの家にいた。おばさんに美味しいおにぎりを作ってもらった。久しぶりにお腹がいっぱいになった気がした。
その日は、リョウの家に泊まった。次の日も、その次の日もリョウの家に泊まった。楽しかった。リョウとゲームして、ちょっとケンカして。でも、すぐに仲直りして。すごく、楽しかった。
でも、心のどこかで焦っていた。
「桜ちゃん、どこに行くの?」
「お家、帰らなきゃ」
「桜ちゃん、もう少しだけおばさん家にいない?」
 私は、カバンをしっかりと抱きしめる。離さないようにこのカバンだけは、絶対に無くさないように。
「帰る。だって、パパが、ママが帰ってくるかもしれないもん」
「桜ちゃん、ママたちはまだ帰ってこないから。だから、もう少しだけ、ここにいよう?」
「嫌だ。桜、お家に帰るんだ!」
 おばさんは、私を見て何かを決めたかのように言う。肩に置かれた手が少しだけ力強かった。
「桜ちゃん。ちょっとおいで、おばさんね。桜ちゃんに言わないといけないことがあるの」
 それからのおばさんの言葉は、私の頭の中に染みついて二度と忘れられない。それは、パパはあの事故で死んじゃったこと。ママは、心が病気になってパパの後を追いかけていっちゃったこと。
おばさんは、とても優しかった。苦しい時、泣きたい時は泣いていいのよって言ってくれた。でも、枯れちゃったのかな。どんなに悲しくても、胸のところが空っぽみたいに涙は出てこなかった。
そのあと、私は父方のおばあちゃんのところに引き取られた。リョウの家から出るときも、なぜか涙はあふれてこなかった。リョウは涙目で、おばさんの後ろに隠れていたけど、いつでも会えるんだからって笑い飛ばしてやった。
独り暮らしのおばあちゃんは、すごく優しい人でいつも黒あめをくれた。おばあちゃんの卵焼きには塩昆布が入っていて、ママのとは違って甘くないのにとってもおいしかった。そんな生活が二年。私はいつの間にか、小学三年生になっていた。あれから、リョウと話すのは学校だけになっていた。
「桜ちゃん。ばあちゃんねぇ、ちょっと病院に行かないといけないから、いい子でお留守番してくれるかい?」
「うん」
「じゃあ、帰りにケーキでも買ってこようかね」
「ありがとう。おばあちゃん」
 おばあちゃんは、肺が悪くて町の病院まで通院していた。病院に行くのはいつものことで、あまり深くも考えていなかった。
いつもより、寒い日だった。
雪でも降ってこないかな、そうしたら小さな雪だるまを作って冷蔵庫に入れておこう。おばあちゃんならきっと私を褒めて、喜んでくれる。
空はどんよりと曇っていて、しばらくすると本当に雪が降ってきた。神様が私の心の声を聴いていたんだ、そう思うと急にうれしくなって小さな雪だるまを二つ作った。
おばあちゃんに持ちやすいようにとキーホルダーみたいにリメイクしてもらったママのサクラのワッペンを握りしめながらその雪だるまをずっと眺めていた。
でもその日の夕方、私の小さな楽しみは一つの電話でかき消されてしまった。
「はい。本田です」
 電話の相手はおばあちゃんの担当医である先生だった。先生は、お孫さんかな? と聞くと、ゆっくりと話し始めた。
おばあちゃんは、階段を踏み外していた。
即死だったと先生は言った。
まただ、胸の奥が苦しい。胸が焼けるように熱くて、叫び出したいのに、声も涙も出てくれなかった。あまりお腹は空いていなかったけど、おばあちゃんはどんなに嫌なことがあってもお腹いっぱいになれたら、それだけで幸せなことなんだよって言っていた。
確か、昨日の残りが冷蔵庫に、私はとぼとぼと台所に向かう。
冷蔵庫の方を見るとドアが開けっ放しになっていて、さっき入れたばかりの雪だるまがビシャビシャに溶けていた。
 次の日の朝、いつかに見たことがあるようなスーツを着た女の人が来ておばあちゃんのものを返してくれた。女の人は小さなカバンを渡しながら、潰れて砂がついたショートケーキが一緒に落ちていたことを教えてくれた。
「・・・おばあちゃん」
 苦しい。痛い。嫌だ。おばあちゃん。おばあちゃんも私を置いていっちゃうの。嫌だよ。嫌。
もう、誰も、
『おいていかないで』
 私は、おばあちゃんのものを届けてくれた人について行った。
忘れよう。
全部忘れて何もかもなかったことにして、そうしたらこんなに苦しくてどうしようもないこの状況も、気持ちもかき消せる。あの楽しかった日々も、おばあちゃんの黒あめもパパの大きな背中もママの優しい笑顔も全部。

「学校は、行かなくていいんですか」
「えぇ、今日は特別」
 その人との会話はそれだけだった。何も聞かないでいてくれているのか、こんな小さい子供の面倒はしたくなかったのか。車で移動しているときも、歩いているときもそれ以上の会話はなかった。私は、親戚の家をたらいまわしにされ、最終的によく知らない夫婦に引き取られた。