人は簡単に壊れてしまう。壊してしまう。
 視力が回復したのに、大切なものが見えなくなってしまった時代。
私は、あと何年で何日で見えなくなってしまうのかな。あとどれくらい、心に蓋をすればあの子に許してもらえるかな。
 高校に入学して、新しい環境での生活がスタートした。あれからお母さんはよく泣くようになった。
私は、泣き方を忘れてしまったというのに。
正直、高校での生活は不安で胸がいっぱいだった。なるべく目立たないように誰も傷つけないように、私は黒いコンタクトをして白くなり始めた左目を前髪で隠して、そうやって毎日を生きてきた。
「いやー、この前リョウがさぁ」
「え、桜。またリョウ君の話してるよ」
「うわ、リョウの呪いだわ」
「桜はほんとにリョウ君のこと好きだね」
「違うって、ただの腐れ縁ですぅ」
 桜はそう言って頬を膨らませる。私は、自分のお弁当をつつきながら桜の幼馴染の話を聞いていた。
「桜、あんまりリョウ君のこといじめちゃダメだよ」
「えー、考えとくわ」
 緑茶のパックを片手に、桜はお弁当の卵焼きを食べた。桜のスマホには手作りの小さなサクラのキーホルダーが揺れている。
外はもう、すっかり春で遅咲きのサクラが思い出したかのように花びらを広げていた。
「よう、ここにいると思った」
「うげ、噂をすればリョウじゃん」
 声がした方を振り向くと桜の幼馴染がいた。肩からハンドタオルを下げていて、いかにも運動できますといった見た目のリョウ君。
やっぱり私は、桜とお似合いだと思うんだけどなぁ。でも、こんなこと言ったらまた桜が拗ねちゃうから言わないでおこう。
「こんにちは。リョウ君」
「おう、誰かと違って莉桜ちゃんはほんと、落ち着いてるよな」
「リョウ、あんた後で覚えておきなさいよ」
 リョウ君は桜に首根っこをつかまれて、ばたばたしている。私たちがいつもお昼を食べているこの教室のことを知っているのは、リョウ君だけ。今だって、二人して口喧嘩をしながら私にどっちが正しいか、なんて聞いてくる。
でも、本気で喧嘩しているのは見たことがなし、変な噂も聞かない。二人とも本当に優しい。それが、見ていて周りにも伝わってくるくらいに。
二人のお互いに信じ切っているからこその表情を見ながら、この笑顔は絶対に忘れない、と心で誓った。
「あ、そうだ」
 桜が急に何かを思い出したように顔を上げた。
「今年の夏祭り、三人でまわらない?」
「・・・は?」
「だから、一緒にサマーフェスティバルを楽しもうじゃないかって」
「いや、だから、は?」
 リョウ君は、何言ってんのこいつという顔で桜を見ている。
夏祭りか、小学生以来友達と行ってないな。行きたい。かき氷とか、射的とか、色々なものを見ておきたい。
でも、もしかしたら誰かとぶつかった拍子にコンタクトを落としてしまうかもしれない。このコンタクト外れやすいからなぁ。実際この前だって、どっかで落としちゃって他の子に見られているのに。この二人には、ばれたくないしな。
「ね? 行こうよ。夏祭り!」
 桜がきらきらした目で私を見ている。偽りのない綺麗な瞳で。リョウ君は、どうするのかなと見てみると、少し渋い顔をしていた。
「夏祭りか・・・」
「なに? 予定あった?」
「いや、ちょっとその日は自宅警備員という大切な仕事が・・・」
「お前、ふざけんなよ」
 私が止めようとするより早く、桜はリョウ君の首を絞めていた。
「ねぇ、莉桜。行こうよ。お願い」
 たぶんお祭りに行けるのもあとちょっと。病気がひどくなったら、人の多いお祭りには行けなくなる。行きたい。たくさんのものを見たい。でも一番見たいのは、この二人の笑っている顔だったりする。
「莉桜、頼む! 一生のお願い!」
「・・・桜、ここで一生のお願い使っちゃったらもったいないよ」
 大丈夫。絶対にドジはしない。
だから、神様。少しだけ私にも、笑う時間をください。
「私、行く。リョウ君も行くでしょ?」
 首を完全に固められて動けないリョウ君に同意を求める。私は、最後まで桜の笑顔を見ていたい。だから、
「ね?」
 桜の不服そうな顔を見てリョウ君は、窓の外を見た。
「まぁ、莉桜ちゃんが言うなら仕方ないか」
「・・・やっぱり、莉桜と二人で行く」
「え、なんだよ。なに怒ってんの」
 リョウ君。ほんとに君は大事なところで鈍感なんだから。桜は緑茶の紙パックをリョウ君に投げてどこかに行ってしまった。
「は? なにあいつ」
「リョウ君」
「ん?」
「早く行ってあげて」
「なんでよ」
「いいから。三人で夏祭り行くんでしょ?」
 リョウ君は、んー、と言うと桜の後を追いかけていった。
教室のカレンダーを見る。入学式、遠足、クラスマッチ、そして体育祭。色ペンでいっぱいに書き込まれたカラフルな紙。
 今はまだ、四月下旬。段々、暖かくなって一年生の子たちが高校の雰囲気に慣れてくる季節。新しい紺色の綺麗なブレザーに黒く光るローファー。白く光を反射させながら、サクラの花びらが降ってくる。目を閉じれば、そんな色鮮やかな光景が瞼に浮かぶ。
「・・・あと少しだけ」

「佐藤莉桜、九十六点」
中学生の時、泣きたくても泣けず、友達もいなかった私は一人で絵を描くことに没頭していた。教室の隅で静かに絵を描いている間は、無心になれた。あんなに苦しい思いは二度としたくない。もう、誰も傷つけたくない。ただその一心でなるべく目立たないようにしていた。
授業も休み時間も行事も何一つ楽しくなかった。学校はなるべく目立たないようにしていても集団行動を強要される。教師にあてられて、黒板の字が見えなくて、答えられずに周りに笑われて。
でも、勉強は得意だったから点数は取れる。
「佐藤、お前はほんとに優秀だな。お前ら、もっと佐藤を見習えよ」
 そう言って、教師は笑う。みんなも笑う。
「せんせー、無理だって」
〈いつも授業の時、わざと間違えてんじゃないの〉
「だって、難しんだもん」
〈そうやって、いい点とって私達、見下してんでしょ〉
 笑い声って怖い。どんなに顔は笑っていても、言葉が笑顔に混じって流れてくる。だから、学校は嫌いだった。でも、見えなくなる前にいろいろなものを見ておきたいと、私は学校に行くことをやめなかった。
「なぁ、何してんの」
 放課後。ふと声をかけられた。私はいつものように絵を描いていた。
紙に鮮やかな水彩絵の具で風景とか動物とか、自分の心に残すように色をのせていた。
「うぉ、すげぇ」
 その男子は、笑いながらそう言った。でも、その笑顔は私が知っているものとは違っていた。学ランを着崩して補助バックをを背負うようにしている彼は、明らかに俗にいうヒエラルキー上部の人間だ。
「めっちゃ、上手いじゃん。コンクールとか出さないの」
「・・・出したことない」
 すると、男子は心底驚いたようで身を乗り出してきた。私なんかが男子と話していて大丈夫かな。女子たちに目をつけられないよね。
「なんでだよ。もったいないって!」
「え?」
「今度、一緒に美術の竹内のとこに持って行こうぜ」
 その男子はそう言って私の描いた絵をきらきらした目でみつめていた。私を普通のクラスメイトとしてみてくれている。
変な男子だと思った。私なんかに話しかけて、あとでほかのクラスの子にいじめられないだろうか。
「なぁ、このイヌの絵もらっていいか」
一人で不安になる私をよそに、男子は黙々とスケッチブックのページをめくる。その表情があまりにも嬉しそうで、輝いていて、まるで新しいゲームをもらった小学生みたいで。
「ふっ」
「なんで、笑うんだよ」
「だって、どうして急に、先生に持って行こうってなるの?」
 男子はきょとんとした顔で私を見ている。
教室には、私達二人だけ。聞こえるのは野球部の掛け声とサッカー部のホイッスル。放課後の教室にクーラーが効いているはずもなく、相変わらず外は暑いし、ただ過ごすだけの何でもない一日の数分間。
最後に笑ったのはいつだっただろうか、こうしてしっかりと誰かと話すなんていつぶりだろうか。
男子は、ツボに入ってしまっている私を見ながら笑った。
「やっぱり、笑ってたほうが可愛いじゃん」
 これが私の初恋だったのかもしれない。
 それから放課後には一緒にたわいもない会話をするような仲になっていた。男の子はバドミントン部の部員であの日も忘れ物を取りに来たらしい。休み時間に聞こえてきた会話によるとハルトという名前だった。ハルトはしきりに美術部へ入部することを勧めてきたけど、私はできるだけ目立ちたくなかったし、賞がほしかったのではなく、ただ好きな色に触れていたかったから絵を描いていたため、結局入部はしなかった。
 ハルトはいつもクラスの中心にいて、授業中や休み時間には話すタイミングはほとんどなかった。だから、部活動がない放課後に二人でたわいのない話をすることが私にとって大きな変化であったことは間違いない。
「ハルトさ、最近、佐藤と仲いいよな」
 教室で掃除をしているときにハルトと仲の良い男の子がそんなことを言った。教室では先生の趣味らしい題名もわからないようなクラシックが放送で流されている。
「えー、マジで」
「なになに?」
 今まで話に夢中だった女子たちが一斉に話にのってきた。私は黙って水道を掃除する。拒絶されるのが怖くて、ハルトの顔を見ることができなかった。
「んー、そうだけど」
 ハルトは黙々とモップをかけていて教室での声が行ったり来たりしているのがわかる。えー、と周囲の注目が集まる。どうしよう、私のせいでハルト君が。
「別に誰と仲良くしたっていいじゃんか」
 思わず教室の方を振り返ると、ハルトと目が合った。クラスメイトがひゅーとハルトをからかっているのが見えた。佐藤さん、いい子だもんねー、真面目だしねー、なんて対して中身のない言葉が聞こえてくる。私が話なんかしたから、ハルト君に迷惑をかけてしまった。なるべく目を合わせないようにしながら教室の雑巾を取りに行く。
「なぁ、佐藤。俺にも絵くれよ」
「え」
 絵って、ハルト君話したのかな。別に隠しているわけではないし、話さないでほしいと言っていたわけでもない。でも、なんだろう。なんだか。
「佐藤さん?」
 ハルト君の優しい声がする。誰も気にしていないような私にもかけてくれた男の子にしては少し高い声。絵を通して私がここにいてもいいのだと、私のことを認めてくれたような気がしていた。
気が付くとみんなのからかう声を振り払うようにして走っていた。逃げる場所も特にないのに私は何をしているのだろう。無機質なスピーカーを通してクラシックが次の曲へと切り替わる。その一瞬の無音がざわざわとした掃除の時間において酷く目立った。枯れきった瞳から流れるものは何もなく、汗だけが頬をつたっていく。
無意識に強く瞼を閉じたことでコンタクトが外れてしまった。左目の視界がぼやけていて、揺れる前髪によって暗がりの中に光を感じられる。それをぼんやりときれいだなんて、私はどこかおかしいのかもしれない。
その次の日から、私は放課後に教室に残ることはなくなった。廊下や教室でハルトと何度かすれ違ったし、声をかけようとしてくれていた。でも、あの子みたいにまたハルトが巻き込まれたらと思うと一緒にはいられなかった。そのまま時間は過ぎていき、視力低下とともにあれ以来話すこともなく卒業してしまった。