『りお、ちゃん?』
 それは突然だった。
私は慣れない高校生活に馴染めず、一人教室で本を読んでいた。家に帰ってもすることもない。部活にも入れない。そんな私にとって、夕方の誰もいない教室は、あまり本の字が見えていなくても時間をかけてゆっくりと読むことができる大切な場所となっていた。
『これ、莉桜〈りお〉って読むの?』
『え・・・うん』
 そう言われたとき心の奥で何かが響いた。
なるべく目立たないように、いつも静かに過ごしていた。
昔みたいに、ドジは絶対に踏まないように。誰も苦しまないように。
なのに、それなのに、彼女は
『私、桜。莉桜ちゃんと私、お揃いのサクラだね』
彼女は私にそう笑った。

「あー、お腹すいた」
「さっき食べたばっかじゃん」
「だって、スイーツは別腹っていうでしょ? 莉桜、コンビニ行こ」
「え、マジで」
 薄暗くなった喫茶店の帰り道。桜がこちらを見て微笑む。こんな友達、私にはもったいないくらいだと思う。これからの人生で出会える確率なんてこれっぽっちしかないのだろうから、目の前の親友の笑顔を目に焼き付けておこう。
 私は、桜が好き。大好き。
だから、絶対に知られたくない。
嫌われたくない。

「だって、莉桜ちゃんとわたしは親友でしょ?」
 私が小学生の頃。桜みたいにいつも優しくしてくれる子がいた。
私は、ドッヂボールが好きで結構上手かったからクラスの男子とも仲が良かったし、みんなの前に立ってリーダーシップをとるのが好きな子供だった。だから、おのずと自分の周りにはいつも友達がいてそれが当たり前だった。
 ある日、確か小学四年生の夏だったと思う。
世の中では地球温暖化の深刻化が進み、気温が年々上昇していた。そんな暑い夏休み。私は、みんながやりたがっていたクラスで飼っているハムスターのお世話係りになった。
週に三回、学校に来て餌をやる。カゴを洗って、寂しくないように少しだけ話しかけて帰る。
 それが私の仕事。その時に一緒に係りになった子がいた。その子はいつも笑っていて優しくて、室内ではなく外でいつも走り回っている私はクラスの女子は嫌がられていたけれど、男子と仲が良かった私にも仲良くしてくれた。
「ねぇ、なんで私と一緒にいてくれるの?」
「だって莉桜ちゃんとわたしは親友でしょ?」
 嬉しかった。私は、その子とこれからもずっと一緒にいるんだとそう思い込んでいた。そんなある日、私はいつも通り朝早く学校に来てハムスターのお世話にとりかかった。
「おはよう、はむちゃん。今日もね、外、すっごい暑いんだよ」
夏休みはクーラーをつけられないから窓を全開にする。電気代節約といっても、はむちゃんもいるのだから冷房をつけられないか先生に相談してみようと考えながら額の汗をぬぐった。
カゴが置いてある棚の上には、誰かが生けたのであろう紫色の綺麗なルリタマアザミが飾ってあった。私がカゴを開けると、いつもなら顔を出すはむちゃんが出てこない。餌が全然減っていなかった。
「はむちゃん?」
 カゴの中をのぞいてみると隅っこに、はむちゃんがいた。
「もう、びっくりしたじゃん」
 そう言ってはむちゃんに手を伸ばした。
「え」
 はむちゃんは、動かなかった。
いつも毛がふわふわで手に乗せるとふにゃってなるのに、今は硬くなっていた。それはあまりにも突然であっけなくて、私はそっとはむちゃんを抱きしめて泣いていた。
 なんで、どうして。ちゃんとお世話したのにカゴも洗って餌も水もちゃんとあげて、寂しくないようにたくさんお話して、なんで、なんで、なんで。
 苦しかった。涙が止まらなかった。
 クラスの子の顔が浮かぶ。
『莉桜ちゃんなら、はむちゃんのこと任せられるしね』
『うん。だって、莉桜ちゃん、優しいし』
 みんな、ごめんなさい。私のせいだ。私がお世話係りに手を挙げたから、あの時、もし私じゃなくて他の子だったら違ったかも知れない。
みんな、ごめんなさい。はむちゃん、ごめんなさい。
「え・・・莉桜、ちゃん?」
 私が顔を上げると一緒に係りになっているあの子が立っていた。私は、涙でぐちゃぐちゃになった顔でその子を見る。
 蝉がうるさかった。
両手にそっと抱えたはむちゃんを胸に私は泣いていた。
「はむちゃ、んが、はむちゃんが、動かなくなっ」
「気持ち悪い」
「・・・え」
 訳が分からなかった。いつも優しくて、笑っていてそんなあの子が真っ青な顔でそう言った。
「なに・・・言ってるの?」
 信じられなかった。みんなで一生懸命名前を考えて、大切に育ててきたのに死んじゃったら、気持ち悪い? 
「そんなの。そんなのひどいよ!」
 私は、はむちゃんを抱きしめながら、その子をにらみつけた。
「今まで、一緒にお世話してきたのに、死んじゃったら、気持ち悪い、なんて」
 嗚咽で上手くしゃべれない。それでも、その子のことが許せなかった。
「ねぇ、聞いてる?」
 私は、その子に迫った。すると、その子は後ずさり口元を抑えながら言った。
「はむちゃんの、ことじゃない」
 さっき開けた窓から暑い風と一緒に蝉の声が吹き込んできた。
その子は、私の親友は、私を指差しながら言った。
「莉桜、ちゃんが、気持ち悪い」
「え・・・」
「・・・化け物。莉桜ちゃん、気持ち悪い」
 親友はそう言い捨てて、走っていった。気持ち悪い? 私が? 意味が分からなかった。
 そして、ふと自分の手で硬くなっているはむちゃんを見た。そこには、なぜか赤くべっとりとした小さな塊があった。
「うぇ。なん、で」
 私の真っ白な体育服はいつの間にか赤黒く汚れていて、腕や手は赤いものがカピカピに乾いていた。私、ケガした? でも、ここに来るまで一度も転んでないし、ケガをするはずない。訳も分からず、私はその場に座り込んでずっと泣いていた。

 夏休みが終わって、学校が始まった。
あの日から、あの子には会っていない。夏休みの間に病院に行って、改めてお母さんに病気のことを聞いた。お母さんは、泣きながら黙っていたことを謝った。特にどこか痛いわけでもないし、入院しないといけないわけでもないらしい。何ら変わらない毎日を過ごしていた私は「あの日」で変わってしまったものの重大さに少しも気づいていなかった。
「おはよう」
 教室でいつもみたいに挨拶をすると、クラスの子は私を見てひそひそと話を始めた。
「どうかしたの?」
 あの子に聞いてみた。ランドセルを置いて、あの子のそばに行く。
「来ないで!」
 教室に涙交じりの声が響いた。
「どうして?」
「私、あの後ママに聞いたの。そしたら、それは病気だから近づいたらダメだって。一緒にいたら移るって」
 怯えた目でそう言った。クラスの子も私を見る目が前とは違う気がした。その日を境に私の当たり前は、当たり前じゃなくなった。
私とドッヂボールをしていた男子も、いつもそばで遊んでいた女子たちも、私のことを嫌っていた子達も誰も私を見なくなった。
 それどころか私ではなく、あの子へのいじめが始まった。
『なぁ、お前。あいつとずっと一緒にいたもんな。病気、もう移ってんじゃないの』
『そうだよ。あいつが泣いてた時、一緒にいたんだろ』
 病気。病気。みんながそう、あの子をいじめた。
私は、何も言えずにただあの子が小さくなっていくのを遠くで見ることしかできなかった。
 みんな、なんで私をいじめないの? あの子は関係ないじゃん。優しかった友達も、一緒に給食を食べていた友達も誰も私を見てくれない。
クラスでお楽しみ会をした時も一緒にグループ活動をする時も、そこにいるのにそばにいるのに誰も私の方を見ない。
まるで私のことだけを忘れてしまったように。
もしかしたら、私は最初からこの場所にはいなかったのかもしれないと、そう本気で思った。
 でも、それでも私は悲しい顔も苦しい顔も一切せずに、みんなに笑顔で接していた。私が頑張れば、私が我慢すれば、そうしたらいつか、あの子も前みたいに遊んだりおしゃべりしたりできるようになる。私がいなかったことになれば、忘れられてしまえば、あの日のこともなかったことに。そんなことを小学生の私は考えていた。
だから、みんなは私のことを忘れて。
あの子の優しい笑顔をもう一度見るために。
 この病気は、人には移らないし私はまだ症状が軽いって聞いていた。なのに、みんな私じゃなくてあの子をいじめていたのは、今考えてみれば私と関われば病気が移ると、危ないからそばに行くなと、そう親から言われていたからかもしれない。
 そんな日々が続いていたある日。
 あの子が死んだ。事故だった。
 自転車で走っていた時に、タイヤが滑って川に落ちたという。そのまま、あの子は死んでしまった。周りの子は、私の呪いだなんだと噂していた。周りの子も大人も、私を見て小声で何かを話す。
そこで私は、あぁ、私は忘れられていたんじゃないんだなと少しだけ心の中で安心してしまった。
親友にもう二度と会えないというのに。
でも、時間が経つにつれてもしかしたら自分の頑張りが足りなかったのではないか、もっと私が我慢していたら、本当に私の存在が忘れられていたら誰も傷つかなかったのではないか。
私は、その空気に耐え切れず私はその学校を転校した。
 あれが本当に事故だったのか、それとも違ったのかは知りたくない。
あれ以来、私は一度も泣けなくなった。