「鈴、何してんの」
 上を見上げると、恭介兄さんがいた。
「・・・お絵描き。ねぇさんにあげるの」
 そうかぁ、と恭介兄さんは私の頭を撫でた。私はねぇさんと私、恭介兄さんを描いた画用紙を握りしめ、笑いもせずに恭介兄さんを見ていた。
 私には六歳上の姉がいた。恭介兄さんは、七歳上の近所のお兄ちゃんで私達姉妹はよく可愛がってもらっていた。
「何ぶすっとしてるんだよ。ほら」
 恭介兄さんは私の頬を指でぐいっと押す。
「鈴。笑ってごらん」
 昔の私は、お世辞にも愛想の良い子とは言えず、いつもねぇさんの後ろに隠れて頷くだけの人見知りの激しい子供で、そんな子供が友達の輪の中に入っていけるはずがない。
だからか、遊んでいても何かを買ってもらっても一切笑うことのできない、そんな子供だった。無理矢理に頬をあげられながら、いいもん、ねぇさんみたいに可愛くないもんとそっぽを向くと、恭介兄さんは子供たちの集まっている方を眺めた。
公園に連れてきてもらっても、同い年くらいの子達の輪には入らず、端の方に咲いていた白や黄色のスイカズラを突っつく。
「鈴、遊ばないのか」
「・・・うん」
 だが、ただ一つの例外としてねぇさんと恭介兄さんの前ではまるで花が咲いたように明るく笑うことができた。
「ほんとか? じゃあ兄ちゃんが遊んでくる」
「あ、恭介ずるいですよ。鈴、ねぇさんと恭介だけで行っちゃいますよ」
 協調性が乏しく、友達の少なかった小さい頃はよく恭介兄さんやねぇさんに友達の輪へと入れてもらっていた。二人がこちらをちらちら見ながら向こうへ行ってしまう。
「・・・きょ、恭介兄さん。ねぇさん。待って」
 そうやって恭介兄さん達の上手い口車に乗せられてやっと友達と遊んでいた。まぁ、今考えると私よりも恭介兄さんの方が楽しんでいた気がするけれど、そうやって毎日順風満帆な日々を送っていたと思う。
「・・・ねぇさん、ここ教えて」
「ん? どこですか?」
 私が小学生になる頃には恭介兄さんがねぇさんの部屋に来て勉強会をするようになった。そこに私はいつも宿題を持って行って三人で勉強をする。
「香菜ぁ、俺もここ分かんなーい」
「恭介は自分でやって下さい」
「えー」
 なぁ、ねぇさんが冷たいー、と文句を言いながら私を膝の上にのせてくれた。
「私は、恭介のねぇさんではありません」
 ねぇさんはそう言いながらも少し楽しそうに見えた。三人分の麦茶が汗をかいてコースターの色が濃くなっていた。小さい机に並んで宿題をしていると、まるで自分も少し大人になったような気がしておねぇさん気分でシャーペンなんか握ってみる。
「げっ、今時の小学生って英語とかすんの。マジで? ジェネレーションギャップだわぁ」
 私がマジで、と言葉を反芻すると、ちょっと、変な言葉を教えないで下さいってねぇさんが恭介兄さんの頭を軽く叩いた。私はねぇさんが好き。恭介兄さんが好き。ずっと三人仲良し。そう小さい頃は思っていた。
 でも、時間は止められなくって私達はあっという間に成長していった。
私が十四歳でねぇさんが成人を迎える少し前、私は恭介兄さんに恋心を抱いていた。初めは、ねぇさんや両親に感じるような気持ちだと思っていたが近頃ではそれが恋なのだと知ってしまった。
「恭介兄さん。鈴、恭介兄さんに言いたいことがあるんだけど」
「おう、どうした?」
 昔は思いっきり撫でてくれていた大きな手のぬくもりや飛びついていた高い身長とか、それら全てが大好きだった。小さい頃に私が恭介兄さんに大好き、と頬にキスをすると恭介兄さんは私の頬を手で挟んで笑った。
『じゃあ、俺がおっさんになっても好きって言えるか』
 子供の時は、自分の心に素直になれたのに。言葉にするのってこんなにも難しかったっけ? ずっと私だけ片思い。
でも、私は絶対に伝えるんだ。
「あのね、鈴」
「恭介、少し手伝ってくれませんか?」
 私が顔を上げると同時に、ねぇさんが隣の部屋から顔を出す。手にはいっぱいの本が積んであった。
「あ? うん、分かった」
 またあとでな、そう言って恭介兄さんは私から離れていく。
「ちょっと、そこの荷物を取って下さい」
「これ? うわ、こんなんいらねぇだろ」
「うるさいですよ」
 隣の部屋から聞こえてくるねぇさんと恭介兄さんの声。二人の会話はとても楽しそうで気付いた時には私の入れる隙間なんてとっくに埋まっていた。成人を機にねぇさんは、一人暮らしを始める。その荷物をまとめる手伝いを恭介兄さんに頼んだのだが、恭介兄さんは社会人の先輩として断るわけがないとかなんとか言って手伝ってくれていた。
「・・・ねぇさんのバカ」
 聞こえる聞き慣れた二つの声。あんなにも心地よかった優しいねぇさんの声ですら、今は聞きたくなかった。その数ヶ月後、恭介兄さんとねぇさんが家にやってきた。どこかに遊びに行くのかと話に聞き耳を立てていると、今まで聞いたこともないような恭介兄さんの緊張している声が聞こえてきた。
私は、なんだかいたたまれなくなって自分の部屋へと逃げ込んだ。そんなはずない。だって、私達は三人で仲良しだもの。そう心の中で何度も念じながら毛布にくるまっていると、誰かがドアをノックするのが聞こえた。
「鈴? 居るか」
 恭介兄さん? 私は、いっそう深く毛布を頭からかぶって、いるよ、と叫ぶ。
「・・・じゃあ、入るぞ」
 いつもならノックなんてしないで、ずかずか入ってくるくせに何なの。
「なに?」
 自分が思っていたよりも投げやりの口調で言葉が出てくる。最近、こんな言い方しかできない自分が嫌になってくる。
「大事な話があるんだけど」
 私が背を向けたまま、うん、と言うとちゃんと座って聞いて下さいとねぇさんの声も聞こえた。
なんで、ねぇさんもいるの。そう思いながらも渋々正座をして二人に向き合う。しばらくちゃんと会っていなかったからか、二人ともずっと大人に見えた。
「それで、話のことなんだけど」
 恭介兄さんが私をまっすぐに見て言葉を発する。なぜかは自分でもよく分からないけどすごく知りたくない。
「鈴」
 恭介兄さんの表情を見てねぇさんを見る。二人からは温かい、それでいてしっかりとした決意が伝わってきた。
私、何も言えてない。
ねぇさんと恭介兄さんは、いつも私の前を走っていてどんなにがむしゃらに走っても届かない。本当は私も隣で同じ景色を見て走っていきたいのに、二人の横に並ぶことはできない。嫌だ。聞きたくない、知りたくない。
そう心が叫んでいる。
「俺、こいつと結婚するから」
 ねぇさんは少し頬を赤らめて頷いた。なにそれ、私聞いてない。すっかり置いて行かれてしまった。いつの間にか、二人は大人になっていた。私の知らない二人がそこにはいた。
「そうなんだ」
 聞こえる言葉は案外さっぱりしていて、自分の声ではないみたいだった。
「鈴、ねぇさん。・・・幸せになってもいい?」
「何言ってるの、当たり前じゃん」
 そう言って全力で頬の筋肉に力をこめる。
でも、思ってしまったんだ。
ねぇさんだけずるいと、ねぇさんばっかりだと。
そんな私の考えに罰が当たったのか、それとも神様が罰を当てるのを私じゃなくねぇさんと間違えたのか。
 その一年後、ねぇさんは小さな箱に入って帰ってきた。

 ねぇさんのお葬式は身内だけで静かにおこなった。
涙で目をいっぱいにしてなくお母さんに、そんなお母さんの肩を抱くお父さん。目一杯の笑顔で笑うねぇさんの写真を大事に抱える恭介兄さん。
まるで何かの動画でも見ているようだった。
「鈴」
 お葬式が終わった後恭介兄さんに声をかけられた。「なに?」と振り向くと恭介兄さんの目は少し周りが赤くなっていた。
「お前は香菜の分も生きてくれよ」
ねぇさんに似た笑顔でそう私に笑いかける。こんなのおかしい。私はこんなことを望んだんじゃない。私はただちょっと、ほんの少しだけねぇさんが羨ましかっただけなのに。せめて二人の後ろじゃなくて横に並んで歩きたかっただけなのに。
 ねぇさんは頭が良くて、よく通訳の仕事に就きたいと言っていた。恭介兄さんはそんなねぇさんを応援していた。だから、新婚旅行はねぇさんの好きなフランスに行っていた。なんでそんなに通訳の仕事をしたいのか私が聞くと、ねぇさんはきまって
『だって、ステキじゃない? 人と人の架け橋になれるのですよ。私達人は同じ生き物であるのに何かしらの違いを見つけ比べたがります。でも、人は違うところなんてほとんどないんです。見た目なんてただの個性です。その中で唯一のコミュニケーションの手段である言葉を繋ぐことができれば、この世界で怖いものなんて一つもないと思いませんか?』
 ねぇさんはいつも輝いた目でそう語っていた。言葉を大切にしていたからか、とても丁寧な言葉を使って笑顔が似合うねぇさん。
『ですから、鈴。引っ込み思案なあなたはもっとお友達とお話をしなければいけませんよ』
 ねぇさん。私、どうしたらいい? 分からないよ、言葉を繋ぐことができたら怖いものなんて一つもないんでしょ? 私、あの時なんて言っていたらよかった? もし、あの時違う言葉をかけていた何か変わった?
 もう何もかもなかったことにして最初からやり直したかった。
新婚旅行に行ったフランスでねぇさんはたくさんの言葉を人々を景色を見てそんな幸せの中、その地でテロに遭い死んでしまった。人って簡単に死ぬんだなって、意味もなく思った。
それから数日、家では暗い毎日が通り過ぎていった。みんなが悲しみに暮れている中、恭介兄さんだけはなぜか一瞬たりとも涙を見せなかった。