市民センターの大会議室に置かれたピアノは、何十年も前に市民から寄贈されたものらしい。ステージ袖に畳んで置かれているカバーも手作りのパッチワークで、制作者名が書かれたインクは薄くなっていて判読不可能。
椅子に座って高さを調節し、少し緊張気味に鍵盤蓋を持ち上げる。試しに右手の親指でドの音を鳴らせば、一瞬だけ部屋の中がしんと静まり返った。周りを見回してみると、この場にいる全ての人が睦美のことを注視していた。不審がる視線の多い中、睦美はふぅっと大きく息を吐き出す。まるで、「さあ、練習の成果を見せなさい」と母親からせっつかれて発表会へ無理に連れ出された時の気分だ。
両手を鍵盤の上に置き、慎重にメロディーを叩き出す。昨日、香苗から送って貰った楽譜を頭の中に思い浮かべながら、彼女が今日歌う予定のアニソンを奏でてみる。睦美が紡ぐ音が大会議室中に反響する。
しばらく黙って見ていた香苗も、マイクを手に取ってステージの上に立ち、睦美の弾くピアノに合わせて歌い始める。ピアノのすぐ真横に設置されたスピーカーから聞こえてくる、癖のない歌声。小さな子供でも聞き取りやすい透き通った声は、ピアノの音色と相まって、さらに透明感を増しているようだった。
2曲目の童謡は前奏に少しアレンジを加えてみたが、香苗はそれもしっかりと歌い上げ、部屋の隅で静かに座っていたはずの沙耶まで、気がつけばステージ前に来て一緒にツインテ―ルを跳ねさせていた。
曲調の異なる2曲を弾き終えた後、睦美はステージ中央の香苗の方へ視線を向ける。大きなミスはしなかったが、完全に楽譜通りに演奏できたわけじゃなかった。練習不足でお世辞にも上手かったとは言えない。何より、香苗にとって歌いにくかったのなら問題外。出しゃばってごめんなさいと素直に謝るつもりでいた。素人のピアノが、プロの演奏するカラオケの音源に勝てる訳がない。
「うん、これでいきましょう!」
ステージから香苗が笑顔で大きく頷き返してくる。「本当に?!」と睦美が聞き返す前に、香苗はステージ脇に置いていた楽譜を持ち出して、細かい段取りを説明し始める。
「曲順はこの順番で、私は1曲目の前奏に合わせて出てくるつもりなんですが、子供達の様子を見て多少アレンジしていただいて構いません。その辺りは三好さんにお任せします」
「あの、さっきみたいに少し強めに弾かない方がいいですか? 子供向けに聞かせるなら、メロディーが分かり易い方がいいかなって思ったんですが……歌い辛くなかったですか?」
「いえ、いい感じでしたよ」
睦美はホッと表情を緩める。沙耶の相手をする時、少しオーバー気味に反応すると喜ぶから、小さな子には耳に聞き取りやすい方がいいんじゃないかと思ったのだ。音楽性とか、そういう観点から見れば問題外だとは思うけれど。
「あとはそうですね……三好さんの衣装とメイクは、どうしましょう? 控室に予備はあるので――サイズは、きっと大丈夫そうですね」
顎に指を当てて、香苗が睦美の服装を流し見している。今日は子連れのお出掛けだからと、カジュアルな格好をしてきてしまったから、ステージ衣装とは程遠い。というか、ただの伴奏に衣装も何も……と思っていたら、背後から「せーのっ」という掛け声がして振り向けば、ステージの上にピアノが移動させられているところだった。
――え、ええっ?!
「あ、あのっ、私は裏方的な役割なんじゃ……?!」
「何をおっしゃってるんですか、三好さんはピアノのお姉さんですよ。とりあえず、今日のところは私の衣装の使い回しになりますが――」
かなり強引に腕を引っ張られ、隣にある控室へと連れて行かれる。そこで否応なしに舞台メイクを施され、リンリンお姉さんとお揃いのツインテ―ルに赤とピンクのリボン。カジュアルな服装が一転、ふんわりシルエットのロングスカートに首元にはスカーフを結んで咲かせたパステルカラーの花。さすがフォーマル担当なだけあり、スカーフの扱いに慣れている。
あっという間に仕立て上げられた即席のピアノのお姉さんの姿を、控室に置いてあった鏡で確認すると、睦美は「うわっ」と短い悲鳴を上げる。
来年には三十の大台に突入するというのに、何だこの格好はという驚きと恥ずかしさが一気に襲ってきた。完全なコスプレだ。この格好で人前に出るなんて、やっぱり無理ですと断るつもりで香苗の方を振り向いてみるが、瞬時に次の言葉を飲み込んだ。
今日歌う歌詞の確認をしているらしく、楽譜を見ながらブツブツと呟いている瞳があまりにも真剣で。いくらボランティアに近いと言っても、香苗はこの歌のお姉さんという副業を遊び半分でやっている訳でないのがヒシヒシと伝わってくる。
年齢云々について言うなら、睦美よりも二つ年上な香苗はどうなるんだ。
――今日は機材の調子が悪いんだから、仕方ない。さーちゃんもあんなに楽しみにしてるんだから。
鏡に映った睦美は諦め笑いを浮かべている。ここまで来たらもう逃げられない。まるで発表会のステージ脇で、「さあ、いってらっしゃい」と強く背を押された時の気分だ。
椅子に座って高さを調節し、少し緊張気味に鍵盤蓋を持ち上げる。試しに右手の親指でドの音を鳴らせば、一瞬だけ部屋の中がしんと静まり返った。周りを見回してみると、この場にいる全ての人が睦美のことを注視していた。不審がる視線の多い中、睦美はふぅっと大きく息を吐き出す。まるで、「さあ、練習の成果を見せなさい」と母親からせっつかれて発表会へ無理に連れ出された時の気分だ。
両手を鍵盤の上に置き、慎重にメロディーを叩き出す。昨日、香苗から送って貰った楽譜を頭の中に思い浮かべながら、彼女が今日歌う予定のアニソンを奏でてみる。睦美が紡ぐ音が大会議室中に反響する。
しばらく黙って見ていた香苗も、マイクを手に取ってステージの上に立ち、睦美の弾くピアノに合わせて歌い始める。ピアノのすぐ真横に設置されたスピーカーから聞こえてくる、癖のない歌声。小さな子供でも聞き取りやすい透き通った声は、ピアノの音色と相まって、さらに透明感を増しているようだった。
2曲目の童謡は前奏に少しアレンジを加えてみたが、香苗はそれもしっかりと歌い上げ、部屋の隅で静かに座っていたはずの沙耶まで、気がつけばステージ前に来て一緒にツインテ―ルを跳ねさせていた。
曲調の異なる2曲を弾き終えた後、睦美はステージ中央の香苗の方へ視線を向ける。大きなミスはしなかったが、完全に楽譜通りに演奏できたわけじゃなかった。練習不足でお世辞にも上手かったとは言えない。何より、香苗にとって歌いにくかったのなら問題外。出しゃばってごめんなさいと素直に謝るつもりでいた。素人のピアノが、プロの演奏するカラオケの音源に勝てる訳がない。
「うん、これでいきましょう!」
ステージから香苗が笑顔で大きく頷き返してくる。「本当に?!」と睦美が聞き返す前に、香苗はステージ脇に置いていた楽譜を持ち出して、細かい段取りを説明し始める。
「曲順はこの順番で、私は1曲目の前奏に合わせて出てくるつもりなんですが、子供達の様子を見て多少アレンジしていただいて構いません。その辺りは三好さんにお任せします」
「あの、さっきみたいに少し強めに弾かない方がいいですか? 子供向けに聞かせるなら、メロディーが分かり易い方がいいかなって思ったんですが……歌い辛くなかったですか?」
「いえ、いい感じでしたよ」
睦美はホッと表情を緩める。沙耶の相手をする時、少しオーバー気味に反応すると喜ぶから、小さな子には耳に聞き取りやすい方がいいんじゃないかと思ったのだ。音楽性とか、そういう観点から見れば問題外だとは思うけれど。
「あとはそうですね……三好さんの衣装とメイクは、どうしましょう? 控室に予備はあるので――サイズは、きっと大丈夫そうですね」
顎に指を当てて、香苗が睦美の服装を流し見している。今日は子連れのお出掛けだからと、カジュアルな格好をしてきてしまったから、ステージ衣装とは程遠い。というか、ただの伴奏に衣装も何も……と思っていたら、背後から「せーのっ」という掛け声がして振り向けば、ステージの上にピアノが移動させられているところだった。
――え、ええっ?!
「あ、あのっ、私は裏方的な役割なんじゃ……?!」
「何をおっしゃってるんですか、三好さんはピアノのお姉さんですよ。とりあえず、今日のところは私の衣装の使い回しになりますが――」
かなり強引に腕を引っ張られ、隣にある控室へと連れて行かれる。そこで否応なしに舞台メイクを施され、リンリンお姉さんとお揃いのツインテ―ルに赤とピンクのリボン。カジュアルな服装が一転、ふんわりシルエットのロングスカートに首元にはスカーフを結んで咲かせたパステルカラーの花。さすがフォーマル担当なだけあり、スカーフの扱いに慣れている。
あっという間に仕立て上げられた即席のピアノのお姉さんの姿を、控室に置いてあった鏡で確認すると、睦美は「うわっ」と短い悲鳴を上げる。
来年には三十の大台に突入するというのに、何だこの格好はという驚きと恥ずかしさが一気に襲ってきた。完全なコスプレだ。この格好で人前に出るなんて、やっぱり無理ですと断るつもりで香苗の方を振り向いてみるが、瞬時に次の言葉を飲み込んだ。
今日歌う歌詞の確認をしているらしく、楽譜を見ながらブツブツと呟いている瞳があまりにも真剣で。いくらボランティアに近いと言っても、香苗はこの歌のお姉さんという副業を遊び半分でやっている訳でないのがヒシヒシと伝わってくる。
年齢云々について言うなら、睦美よりも二つ年上な香苗はどうなるんだ。
――今日は機材の調子が悪いんだから、仕方ない。さーちゃんもあんなに楽しみにしてるんだから。
鏡に映った睦美は諦め笑いを浮かべている。ここまで来たらもう逃げられない。まるで発表会のステージ脇で、「さあ、いってらっしゃい」と強く背を押された時の気分だ。