市民センターというものは市内に一か所しかないものだと思い込んでいた。独身の一人暮らしだから、地域行事に参加する機会もなかったし、何をする為の施設なのかすら知らなかった。
調べてみると、この市内には学区ごとに市民センターがあって、シルバーや幼児向けのイベントを頻繁に開催しているみたいだった。
髪形をまたツインテ―ルにしてもらった沙耶を連れて訪れた東学区市民センターは、数年前に建て替えられたばかりの新しい施設だった。親子イベントが行われる大会議室はつるんとしたビニール張りの床で、子供達が遊べるようにと部屋の半面にマットが敷かれていた。室内のスピーカーからは、今日歌う予定だと言っていたアニソンのカラオケがエンドレスで流れている。
ここでもステージ横にはピアノがあったが、こちらはグランドピアノではなくアップライトピアノだった。実家にあったのと同じメーカーで、形もかなり近くて反射的に身構えてしまう。このピアノを見た瞬間、やっぱり自分には無理だという思いが湧き上がる。
指示された時間はまだ客を入れる前だったらしく、すでにリンリンお姉さんの格好をした香苗は運営スタッフとスピーカーの位置などの最終チェック中だった。キーンというハウリングの音が室内に響いていたから、なんだか調整に手間取っているように見えた。
「あ、リンリンお姉さんだっ!」
姿を見つけて嬉しそうに声を上げたものの、沙耶は恥ずかしがって睦美の足にしがみ付いている。他の子供達がいる時は平気で駆け寄って握手したり頭を撫でて貰っていたけれど、開演前の少し緊迫した雰囲気の中では怖気づいてしまったのだろうか。3歳児でもそれなりに空気は読めるらしい。
「あ、三好さん、来てくれたんですね」
沙耶の声に振り向いた香苗が、遠慮がちに室内を覗き込んでいた同僚を見つけて中へと手招きする。運営側から別のマイクを手渡された香苗が、それの電源を入れると再びハウリングが室内に響き、慌てたスタッフの手で流れ続けていた曲が停止される。
「マイクだけなら平気みたいですし、音楽とは別のスピーカーで流していただければ――」
テストを兼ねているのか、マイクを通して話す香苗の声が部屋中に反響する。
建物は新しくなったけれど、中の設備は古いままだからと、運営スタッフのお爺ちゃんが呆れ笑いを浮かべている。
「すみませんねぇ、どうもプレイヤーとマイクを同時に繋げると駄目みたいで……別のスピーカーを繋ぎ直すしかないみたいですねぇ」
「予備のスピーカーはあるんでしょうか?」
「ああ、今、小会議室の物を取りに行ってます」
センターの管理者らしき人まで様子を見に来て、なんだか慌ただしい雰囲気が漂い始めていた。音響以外の準備は終わっているらしく、他のスタッフもただ見守ることしかできない。
「大丈夫よ。お歌の時間までには直してもらえるから、楽しみにしててね」
大人達の様子に不安気な表情を浮かべ始めた沙耶に、しゃがみ込んで目線を合わせたリンリンお姉さんが声を掛ける。「うん!」と大きく頷き返した沙耶は、すぐ笑顔へと戻った。
邪魔にならないよう、睦美は姪を部屋の隅っこに連れて行き、そこから会場の様子を眺めていた。用意してもらったマイクを順に試していく香苗のことを、黙って心配することしかできない。
台車に乗せられ運ばれて来た予備のスピーカーは、元からここにあった物と同じくらい年季の入った古い型の物。それにプレイヤーを繋ぎ、再生ボタンを押す前に香苗が大きく深呼吸するのが目に入った。あんなに堂々と子供達の前で歌を披露していたリンリンお姉さんも、設備の不具合ではどうしようもない。睦美も心の中で機材が上手く動くよう祈った。
ほどなくして古いスピーカーを通してアニソンが流れ始める。先ほどとは違い、ハウリングは起こしてはいない。けれど――。
「音割れ、しちゃいますね……」
耳障りな酷い音に、会議室内にいる皆が耳を押さえた。沙耶も驚いた目で睦美のことを見上げている。沙耶よりももっと小さな子なら怖がって泣いてしまうかもしれない。
「曲は元のスピーカーで流して、マイクは無しでいくしかないですね。――声量にはあまり自信がありませんけど……」
冷静に言っているけれど、香苗の声から不安が隠しきれていない。これまでだってきっと多少なりともトラブルに遭遇したことはあったかもしれない。同じようにマイク無しで歌う羽目になったことだって……。
大丈夫なんだろうと他人事のように考えながらも、睦美は「どうしよう……」と心を揺るがせていた。視界に入る真っ黒の大きな楽器が、自分のことを呼んでいるような気がした。
「あのっ」
思わず、声を張り上げる。会議室にいる人達の驚いた目が、一斉に睦美へと集中してきた。
「そのピアノ、弾いても構いませんか? 柿崎さんにはマイク使ってもらって、私がピアノで伴奏すればCDを流さずに済むと思うんですけど……」
最後の方は自信なさげに声が小さくなった。何を言い出すんだとばかりにお爺ちゃんが、露骨に「ハァ?!」という表情をしている。リンリンお姉さんのステージスタイルとはかけ離れてくるから、イメージできないのかもしれない。
「今日の曲は一応弾けるとは思うので……」
「三好さん、一度合わせてみましょう!」
表情の明るくなった香苗が、睦美のところへ駆け寄ってきて、ピアノの元へと腕を掴んで引っ張っていく。近くにいた民生委員のお婆ちゃん達が、「お姉ちゃんはこっちで待ってようね」と沙耶のことを引き受けてくれた。
調べてみると、この市内には学区ごとに市民センターがあって、シルバーや幼児向けのイベントを頻繁に開催しているみたいだった。
髪形をまたツインテ―ルにしてもらった沙耶を連れて訪れた東学区市民センターは、数年前に建て替えられたばかりの新しい施設だった。親子イベントが行われる大会議室はつるんとしたビニール張りの床で、子供達が遊べるようにと部屋の半面にマットが敷かれていた。室内のスピーカーからは、今日歌う予定だと言っていたアニソンのカラオケがエンドレスで流れている。
ここでもステージ横にはピアノがあったが、こちらはグランドピアノではなくアップライトピアノだった。実家にあったのと同じメーカーで、形もかなり近くて反射的に身構えてしまう。このピアノを見た瞬間、やっぱり自分には無理だという思いが湧き上がる。
指示された時間はまだ客を入れる前だったらしく、すでにリンリンお姉さんの格好をした香苗は運営スタッフとスピーカーの位置などの最終チェック中だった。キーンというハウリングの音が室内に響いていたから、なんだか調整に手間取っているように見えた。
「あ、リンリンお姉さんだっ!」
姿を見つけて嬉しそうに声を上げたものの、沙耶は恥ずかしがって睦美の足にしがみ付いている。他の子供達がいる時は平気で駆け寄って握手したり頭を撫でて貰っていたけれど、開演前の少し緊迫した雰囲気の中では怖気づいてしまったのだろうか。3歳児でもそれなりに空気は読めるらしい。
「あ、三好さん、来てくれたんですね」
沙耶の声に振り向いた香苗が、遠慮がちに室内を覗き込んでいた同僚を見つけて中へと手招きする。運営側から別のマイクを手渡された香苗が、それの電源を入れると再びハウリングが室内に響き、慌てたスタッフの手で流れ続けていた曲が停止される。
「マイクだけなら平気みたいですし、音楽とは別のスピーカーで流していただければ――」
テストを兼ねているのか、マイクを通して話す香苗の声が部屋中に反響する。
建物は新しくなったけれど、中の設備は古いままだからと、運営スタッフのお爺ちゃんが呆れ笑いを浮かべている。
「すみませんねぇ、どうもプレイヤーとマイクを同時に繋げると駄目みたいで……別のスピーカーを繋ぎ直すしかないみたいですねぇ」
「予備のスピーカーはあるんでしょうか?」
「ああ、今、小会議室の物を取りに行ってます」
センターの管理者らしき人まで様子を見に来て、なんだか慌ただしい雰囲気が漂い始めていた。音響以外の準備は終わっているらしく、他のスタッフもただ見守ることしかできない。
「大丈夫よ。お歌の時間までには直してもらえるから、楽しみにしててね」
大人達の様子に不安気な表情を浮かべ始めた沙耶に、しゃがみ込んで目線を合わせたリンリンお姉さんが声を掛ける。「うん!」と大きく頷き返した沙耶は、すぐ笑顔へと戻った。
邪魔にならないよう、睦美は姪を部屋の隅っこに連れて行き、そこから会場の様子を眺めていた。用意してもらったマイクを順に試していく香苗のことを、黙って心配することしかできない。
台車に乗せられ運ばれて来た予備のスピーカーは、元からここにあった物と同じくらい年季の入った古い型の物。それにプレイヤーを繋ぎ、再生ボタンを押す前に香苗が大きく深呼吸するのが目に入った。あんなに堂々と子供達の前で歌を披露していたリンリンお姉さんも、設備の不具合ではどうしようもない。睦美も心の中で機材が上手く動くよう祈った。
ほどなくして古いスピーカーを通してアニソンが流れ始める。先ほどとは違い、ハウリングは起こしてはいない。けれど――。
「音割れ、しちゃいますね……」
耳障りな酷い音に、会議室内にいる皆が耳を押さえた。沙耶も驚いた目で睦美のことを見上げている。沙耶よりももっと小さな子なら怖がって泣いてしまうかもしれない。
「曲は元のスピーカーで流して、マイクは無しでいくしかないですね。――声量にはあまり自信がありませんけど……」
冷静に言っているけれど、香苗の声から不安が隠しきれていない。これまでだってきっと多少なりともトラブルに遭遇したことはあったかもしれない。同じようにマイク無しで歌う羽目になったことだって……。
大丈夫なんだろうと他人事のように考えながらも、睦美は「どうしよう……」と心を揺るがせていた。視界に入る真っ黒の大きな楽器が、自分のことを呼んでいるような気がした。
「あのっ」
思わず、声を張り上げる。会議室にいる人達の驚いた目が、一斉に睦美へと集中してきた。
「そのピアノ、弾いても構いませんか? 柿崎さんにはマイク使ってもらって、私がピアノで伴奏すればCDを流さずに済むと思うんですけど……」
最後の方は自信なさげに声が小さくなった。何を言い出すんだとばかりにお爺ちゃんが、露骨に「ハァ?!」という表情をしている。リンリンお姉さんのステージスタイルとはかけ離れてくるから、イメージできないのかもしれない。
「今日の曲は一応弾けるとは思うので……」
「三好さん、一度合わせてみましょう!」
表情の明るくなった香苗が、睦美のところへ駆け寄ってきて、ピアノの元へと腕を掴んで引っ張っていく。近くにいた民生委員のお婆ちゃん達が、「お姉ちゃんはこっちで待ってようね」と沙耶のことを引き受けてくれた。