昼休憩で向かった社員食堂で、入口近くのいつもの席に柿崎香苗の姿を見つけた。今日は定食ではなく親子丼を乗せたトレーを手に、睦美は香苗の真ん前の席に座る。一瞬だけ驚いた表情になった香苗だったが、すぐに小さく微笑んで「お疲れ様です」と挨拶してきた。
香苗は今日も手作り弁当を持参していたみたいで、食べ終わった弁当箱に蓋をして巾着袋にしまい込もうとしているところだった。
今朝は納品が多かったせいで、休憩を回すのが遅くなってしまった。おかげで日替わり定食はどちらも売り切れていた。先に休憩から戻ってきた小春から、「今日は麻婆豆腐とチキン南蛮だったわ」という定食情報を得ていて、完全にチキン南蛮の口になっていたから、完売と知って受けたショックは大きい。だからせめて鶏肉繋がりでと親子丼を注文してみたが、まだ少しやるせない気分を引き摺っている。
「いただきます」と手を合わせて丼に箸を伸ばす睦美の前で、香苗は普段と同じようにスマホとイヤフォンを取り出して動画を見始める。いつも休憩時間いっぱいまで真剣な眼差しで観ている動画にはとても興味があった。好きな動画配信のものか、それとも推しのMVか何かかと勝手に思い込んでいた。
「何の動画ですか?」
頬張っていた鶏肉を飲み込んでから、思い切って香苗に向かって聞いてみる。すると、睦美にも見えるようにと香苗がスマホの画面を傾けてきた。イヤフォンが起動しているから音は聞こえないが、動画下のテロップ表示で何が流れているかはすぐに分かった。
見た瞬間、「ああ……」と納得の声が漏れ出る。エプロン姿の女性が、オーバーな振り付けで画面の中で踊っている。ポケットに動物のアップリケが付いたファンシーなピンク色のエプロン。幼稚園や保育園の先生っぽい服装の女性は、大きな口を開けて歌いながらキレキレで両手を動かしてみせていた。手遊び歌のお手本動画だ。
「人によって微妙に動きが違ったりするんで、いろいろ見て回ってるんです。自分の子供の時とは変わってたりすることも多いので」
イヤフォンを片方だけ外して、香苗が説明してくる。言われてみると、睦美が知っている振り付けともちょっと違う気がする。時代差というのもあるし、地域によってもまた違ってくるのかもしれない。
睦美が親子丼を食べ終わって、湯呑に入ったお茶を啜っている間も、香苗は動画を食い入るように観ていた。相変わらず、目の前の柿崎香苗は薄いメイクに地味なハーフアップで、皆と同じ制服を着て、その他大勢のデパートの店員でしかない。
あのツインテ―ルに煌びやかな舞台メイクで、子供達のキラキラした視線を全身に集めていた歌のお姉さんと、この無個性な店員が同一人物だと気付ける人はそれほど多くはないだろう。睦美だって前もって香苗のことに注目してなければ、気付かなかったかもしれない。
なにがどういう経緯でそうなったのか、それは聞きたくなるのも当然だ。空になった湯呑をテーブルの上に置くと、睦美は香苗へと向き直す。
「いつからやってるんですか?」
「ちょうど一年半、くらいですね。一昨年の春から始めたので」
「元々、そういう関係の学校を出てて、とか?」
まず最初に想像したのは、音大出身だったり、ボイストレーニングの学校に通っていたりして、そこ経由からなのかなと。ボランティアから始めたと言っていたから、事務所に入っている訳でもなさそうだし、リンリンお姉さんという存在は謎に満ちている。
「いえ、歌を習ったことは全くなくって……ほんと、私なんかが歌ってていいのかなって思うんですけど」
謙遜というよりは本当に自信がないという風に、香苗が困惑ぎみに笑ってみせる。別に否定するつもりは全くなかったから、睦美は慌てて首を振る。
「休みの日に自宅から近いカラオケボックスで、一人で童謡とかアニソンばかりを好きに歌ってたら、知らないお婆ちゃんから勧誘されたのがキッカケなんです。こないだとは違う地域の民生委員さんだったんですけど、子供達の前で歌って貰えないかって」
「……それもある意味で、スカウト?」
「そんな大層なものではないですけど……最初は他の、絵本の読み聞かせのボランティアさんとかと、同じような扱いだったんです」
イベントなどにお呼びがかかるごとに、子供に受けそうなスタイルを香苗なりに追求していった結果が、リンリンお姉さんなのだと説明してくる。あのキャラは最初からああだった訳ではないらしい。
ぱっと子供達が注目してくれるにはどんな格好をして、どう振る舞えば良いか、その研究から生まれたのが彼女のもう一つの顔だった。
「でも、スピーカーから流れる音では限界があるなと思ってたところに、三好さんの動画を観せていただく機会があって。それまでお話したことも無かったですし、どうお誘いしようかと思ってたから、先にコンサートを観て貰えたのはラッキーでした」
ホクホクとした満足顔をしているから、本当に喜んでくれているのはよく分かった。ただ、睦美はリンリンお姉さんと一緒にステージに立つつもりなんて全くない。もうピアノには関わりたくない、そう伝えようとしかけたけれど、言葉が途中で止まってしまう。昨夜、久しぶりに弾いてみた時、少しは楽しいと思ってしまったから。ピアノが嫌いだと言い切ることができなかった。
「――次のコンサート、観に行ってもいいですか?」
沙耶も連れて行ってあげたら、きっと喜ぶはずだ。そう、姪の為にもう一度だけ。
香苗は今日も手作り弁当を持参していたみたいで、食べ終わった弁当箱に蓋をして巾着袋にしまい込もうとしているところだった。
今朝は納品が多かったせいで、休憩を回すのが遅くなってしまった。おかげで日替わり定食はどちらも売り切れていた。先に休憩から戻ってきた小春から、「今日は麻婆豆腐とチキン南蛮だったわ」という定食情報を得ていて、完全にチキン南蛮の口になっていたから、完売と知って受けたショックは大きい。だからせめて鶏肉繋がりでと親子丼を注文してみたが、まだ少しやるせない気分を引き摺っている。
「いただきます」と手を合わせて丼に箸を伸ばす睦美の前で、香苗は普段と同じようにスマホとイヤフォンを取り出して動画を見始める。いつも休憩時間いっぱいまで真剣な眼差しで観ている動画にはとても興味があった。好きな動画配信のものか、それとも推しのMVか何かかと勝手に思い込んでいた。
「何の動画ですか?」
頬張っていた鶏肉を飲み込んでから、思い切って香苗に向かって聞いてみる。すると、睦美にも見えるようにと香苗がスマホの画面を傾けてきた。イヤフォンが起動しているから音は聞こえないが、動画下のテロップ表示で何が流れているかはすぐに分かった。
見た瞬間、「ああ……」と納得の声が漏れ出る。エプロン姿の女性が、オーバーな振り付けで画面の中で踊っている。ポケットに動物のアップリケが付いたファンシーなピンク色のエプロン。幼稚園や保育園の先生っぽい服装の女性は、大きな口を開けて歌いながらキレキレで両手を動かしてみせていた。手遊び歌のお手本動画だ。
「人によって微妙に動きが違ったりするんで、いろいろ見て回ってるんです。自分の子供の時とは変わってたりすることも多いので」
イヤフォンを片方だけ外して、香苗が説明してくる。言われてみると、睦美が知っている振り付けともちょっと違う気がする。時代差というのもあるし、地域によってもまた違ってくるのかもしれない。
睦美が親子丼を食べ終わって、湯呑に入ったお茶を啜っている間も、香苗は動画を食い入るように観ていた。相変わらず、目の前の柿崎香苗は薄いメイクに地味なハーフアップで、皆と同じ制服を着て、その他大勢のデパートの店員でしかない。
あのツインテ―ルに煌びやかな舞台メイクで、子供達のキラキラした視線を全身に集めていた歌のお姉さんと、この無個性な店員が同一人物だと気付ける人はそれほど多くはないだろう。睦美だって前もって香苗のことに注目してなければ、気付かなかったかもしれない。
なにがどういう経緯でそうなったのか、それは聞きたくなるのも当然だ。空になった湯呑をテーブルの上に置くと、睦美は香苗へと向き直す。
「いつからやってるんですか?」
「ちょうど一年半、くらいですね。一昨年の春から始めたので」
「元々、そういう関係の学校を出てて、とか?」
まず最初に想像したのは、音大出身だったり、ボイストレーニングの学校に通っていたりして、そこ経由からなのかなと。ボランティアから始めたと言っていたから、事務所に入っている訳でもなさそうだし、リンリンお姉さんという存在は謎に満ちている。
「いえ、歌を習ったことは全くなくって……ほんと、私なんかが歌ってていいのかなって思うんですけど」
謙遜というよりは本当に自信がないという風に、香苗が困惑ぎみに笑ってみせる。別に否定するつもりは全くなかったから、睦美は慌てて首を振る。
「休みの日に自宅から近いカラオケボックスで、一人で童謡とかアニソンばかりを好きに歌ってたら、知らないお婆ちゃんから勧誘されたのがキッカケなんです。こないだとは違う地域の民生委員さんだったんですけど、子供達の前で歌って貰えないかって」
「……それもある意味で、スカウト?」
「そんな大層なものではないですけど……最初は他の、絵本の読み聞かせのボランティアさんとかと、同じような扱いだったんです」
イベントなどにお呼びがかかるごとに、子供に受けそうなスタイルを香苗なりに追求していった結果が、リンリンお姉さんなのだと説明してくる。あのキャラは最初からああだった訳ではないらしい。
ぱっと子供達が注目してくれるにはどんな格好をして、どう振る舞えば良いか、その研究から生まれたのが彼女のもう一つの顔だった。
「でも、スピーカーから流れる音では限界があるなと思ってたところに、三好さんの動画を観せていただく機会があって。それまでお話したことも無かったですし、どうお誘いしようかと思ってたから、先にコンサートを観て貰えたのはラッキーでした」
ホクホクとした満足顔をしているから、本当に喜んでくれているのはよく分かった。ただ、睦美はリンリンお姉さんと一緒にステージに立つつもりなんて全くない。もうピアノには関わりたくない、そう伝えようとしかけたけれど、言葉が途中で止まってしまう。昨夜、久しぶりに弾いてみた時、少しは楽しいと思ってしまったから。ピアノが嫌いだと言い切ることができなかった。
「――次のコンサート、観に行ってもいいですか?」
沙耶も連れて行ってあげたら、きっと喜ぶはずだ。そう、姪の為にもう一度だけ。