仕事を終え、一人暮らしの自宅マンションへ戻ると、睦美は冷蔵庫の中から昨晩の残り総菜が入った小鉢を取り出す。気合いを入れて作ったポテサラは薄切りのキュウリと人参、ハムをたっぷり入れたせいで一日では食べ切れない量になってしまった。それを6枚切りの食パンの上に乗せ、とろけるチーズをトッピングしてトースターへとぶち込む。

 晩御飯にしては雑だなとは思うが、今日はこれでいい。必要な栄養は社食の定食で補っているつもりだから平気だ。とは言っても、どこかで駄目だと思っているからだろう、冷蔵庫には常に野菜ジュースが入っている。グラスへ赤ともオレンジともつかない色のジュースを注ぎ入れ、溶けて垂れ落ちそうなチーズに注意しながらポテサラトーストにかぶりついた。

 住んで2年になるワンルームは男っ気どころか、女っ気もない。転勤を機にここへ引っ越して来てから恋人はおろか男友達すら出来たことがない。可愛い小物の一つもなく、色気からは程遠いシンプルとしか言えないインテリア。クローゼットの中を見ずに、この部屋の住人の性別を言い当てられる人はどのくらいいるのだろう。
 テレビ台の上に並べた、沙耶から貰った折り紙の花。その鮮やかな色だけが部屋の中で浮いて見える。

 トーストを完食すると、睦美はクローゼットを開き、専用ケースに入ったままの電子ピアノを引っ張り出した。持ち運べる卓上タイプで、社内旅行で演奏したのもこれだ。ケースから出してローテーブルの上に置き、コンセントを入れて電源をオンにするとランプが点灯する。たまに夜中にテレビを観る時くらいしか使っていなかったヘッドフォンを差し込んで、恐る恐る鍵盤の上に指を乗せた。

 頭の中に楽譜を思い描きながら、ゆっくりと指で鍵盤をなぞっていく。あまりにも久しぶり過ぎて、まともに動かないんじゃないかと思っていたけれど、それらしいメロディーがヘッドフォンから聞こえてくる。
 リンリンお姉さんがステージの上で元気に歌っていた、子供向けの行進曲。耳コピはあまり得意じゃなかったけど、記憶を頼りに指を動かす。途中までしか覚えていなかったから、サビの部分だけをしつこく何度も弾き続けた。

 最初は不自然だった指の動きが滑らかになってきた後、無意識に弾き始めたのは小学生の時に、隣で母親に渋い顔をされながら教え込まれた曲。もう何て曲名だったかも思い出せないのに、なぜか指の動きははっきりと覚えているのが不思議だ。

 自宅でピアノ教室を開いていた母は、娘二人が一向に上達しないことを悲観していた。姉の里依紗はかなり早い段階で「ピアノは嫌い」と言い切っていたから、端から期待していなかったみたいだが、何も言わなかった睦美の方は鍛えれば何とかなるかもと考えていたみたいだった。だから、姉が外で走り回って遊んでいても、睦美には下校後には毎日きっかり一時間の練習を強要してきた。そんな逆贔屓みたいなことをされていたから、ピアノのことは嫌いになる一方だった。

 中学に上がって部活中心になってくると何も言ってこなくなったが、その頃にはピアノも母も完全に苦手な存在になっていた。
 最初の引っ越し荷物の中に、この電子ピアノが紛れ込んでいるのを見つけた時、最初は叩き壊してやろうかと思った。聞かなくても分かる、母の仕業だ。どうせ、「時間がある時はしっかり練習しなさい」とでも言いたいのだろう。これまで耳にタコができそうな程聞かされ続けていたのだから。

 ――でも、まあ、宴会芸で使えたからいいか……。

 久しぶりに触った鍵盤は、前ほど嫌な存在でも無くなっている気がした。指に任せて好き勝手に弾いているのが、誰かから強制された曲じゃないからか。
 と、フローリングの上に放置していたスマホがメッセージの受信を知らせて震えた。

「あ、柿崎さんからだ」

 昼休憩で連絡先を教え合ったばかりだったが、早速何か送ってくれたようだ。受信ボックスを開くと、『次のイベントで歌う曲です』と曲名リストと、それぞれの楽譜が添付されてきていた。童謡だけでなく、次は子供向けアニメの主題歌も1曲歌う予定らしい。

 それらの楽譜をプリントアウトした後、睦美は電子ピアノの鍵盤の上でその音を再現していく。最初は出来るだけ楽譜に沿って。でも、次からは少しアレンジを加え、子供達が聞き取りやすく、そしてリンリンお姉さんが歌いやすいようにと。