目の前で黙々とお弁当を食べている同僚をチラ見しながら、睦美は豆腐とワカメのお味噌汁をずずっと啜った。何か話しがあるから、こうやって向かい合ってご飯を食べているはずが、香苗の方から喋ってくる気配はない。姿勢よく椅子に座り、静かに箸を動かし続けている。

 休憩時間にはいつも一人でいる彼女が、わざわざ睦美の席まで来たのだから、何か言ってくるつもりなのは明らか。なのにいつまで経っても何も言い出してこないから、睦美はずっと落ち着かないでいた。

 ――やっぱ、何か話題を振った方がいいのかな……? でも、柿崎さんとは今まで挨拶くらいしかしたことないし……。

 柔らかく絶妙な焼き加減の生姜焼きも、今日は全く味がしない。機械的に箸を動かして口の中へ運び入れ、黙々と咀嚼する。
 向かいの席の香苗は、普段通りのナチュラルメイクだったが、この至近距離だと地まつ毛がとても長いことがよく分かった。マスカラだけでも十分につけま並みのボリュームが出せそうだ。

 ――えー、こういう時って何の話をするのが正解……? 最近、売上はどうですかとか? 否でも、フォーマルの人に売上の話ってどうなのよ、喪服がめっちゃ売れてますとか言われても、反応に困るんだけど……。

 売上の話は何となくタブーな気がして、じゃあ、最近の流行りを聞くのはどうよと思ったが、フォーマルの売れ筋を聞いたところで活用できる機会がない。
 なら、歳も近いことだし仕事以外のことでと思ってみたが、香苗との共通点がほとんど見当たらない。2年も同じ店で働いているのに、柿崎香苗という人のことは何も知らないのだ。唯一、昨日知ったばかりなのは、彼女が休みの日に歌のお姉さんをしているということだけだ。

 ――そういえば、なんでリンリンって名前にしたんだろ? いや、この話題を私の方から振るのはマズイ。

 食堂の利用者が、食べ始めた時の半分近くまで減り、同じテーブルに居たテナントショップの店員達がいなくなると、周りが随分と静かになった。結局、互いに向き合って座りながら一言も口を開かないまま、香苗はお弁当の中身を全て食べ終え、「ごちそうさまでした」と両手を合わせて小さな声で呟いた。そして、ペットボトル入りの緑茶で口を潤してから、睦美の方に顔を向けてくる。

「あの……昨日のことなんですが」
「あ、はい」

 予想通り、昨日の市民センターで会った件で話があるらしい。オズオズと遠慮がちに話し掛けてくる香苗。睦美は急いで残りの味噌汁を飲み干すと、香苗がしていたように両手を合わせて「ごちそうさまでした」と呟いた後、気持ちばかり姿勢を正して真正面を向き直す。

「三好さんって、お子さんいらっしゃったんですか?」
「はい?!」
「いえ、私、他の売り場の方のことはあまりよく知らなくて……三好さんがご結婚されてるとか、そういうの全くで……」
「あ、いえ、昨日一緒にいたのは、姉の子です。姪です」

 違う違うと、右手と首をブンブンと横に振って否定すると、香苗が「あれ、そうなんですか?」と少しホッとしたような表情になった。

「昨日は甥が熱出してて、でも沙耶が、姪がどうしても観に行きたいってグズったらしくて、朝一で姉から頼まれて連れてっただけです」
「ああ、なるほど」

 食堂の入口の方から賑やかな声が聞こえてきて、ふとそちらへ視線を移す。黒色のスーツを制服のように着た集団はインポートブランドのスタッフだろうか。

「だから、あの、昨日みたいなイベントは初めてで。その……ちょっと、ビックリしました」

 間違いなく会話の流れが昨日のことになったから、これは触れない訳にはいかない。休憩時間はすでに半分が過ぎてしまっているし、きっと香苗もずばっと本題に入りたいと思っているはずだ。

「あれって、会社には?」
「副業許可はちゃんといただいてます。でも、あまり公にはしたくなくて……」
「大丈夫です! 私、誰にも言うつもりはありません」

 やっぱり本題は口止めだったかと思いつつ、睦美は力強く頷いて見せる。許可を取得済みなら何の問題もない。ただ香苗自身が他の人達に歌のお姉さんであることを知られたくないだけなのだ。職場とのギャップもあるし、その気持ちも理解はできる。
 香苗は安堵した表情で、「ありがとうございます」とお礼を言ってきた。そして、今度はさらに言いにくそうに、睦美に向かって確認してくる。

「あの、噂で聞いたんですが、三好さんって社員旅行でピアノで弾き語りをされたとか……?」
「へ? 違います、違います。うちのCMソングを好き勝手にアレンジしたものを弾いただけで、歌ってはないです」

 入社当時に配属されていた店では、冬商戦後にある社員旅行で新入社員が一発芸を披露しなくちゃいけないという悪しき恒例があった。同期の子達が手品を披露したり、踊ったりした中、睦美は電子ピアノを持ち込んだ。当時放映されていた自社CMを競合するデパートのCMソングと掛け合わせて面白おかしく演奏してみたのだが、反応は最悪だった。

「売上低迷期だったので、めちゃくちゃ怒られました。完全な黒歴史です」

 わざとおどけるよう言ってみたが、香苗は笑いもせず小難しい顔をしていた。そういう悪ノリは好きじゃないですとか言って批難されてしまうんだろうか。睦美は無意識に身構えてしまう。子供の頃のピアノの練習中、楽譜通りに弾きなさいと眉間に皺を寄せて注意してきた母親の厳しい顔を思い出した。