先に昼休憩に出ていた橋口小春が透明ビニール製の休憩バッグを手に戻ってくると、千佳は慌てたように売り場から離れていった。
 主婦パートの小春は千佳が勤務していた頃からの古参で、この2階フロアの中では婦人靴売り場のチーフに次いで勤務歴が長い。千佳は彼女に何か弱みを握られているのか、小春が売り場にいる時は露骨に避けているようだった。

「あら、またあの人来てたの?」

 逃げるように去っていった千佳の後ろ姿に、小春が呆れ笑いを浮かべている。38歳で中学生の子供がいる小春も元々はこのデパートの正社員だったが、産休育休後に時短勤務に切り替えたという大ベテラン。彼女には千佳のマウントは一切効果がない。

「雨だから4階のプレイルームで子供を遊ばせるって言ってましたよ。――じゃあ、私も休憩いただきますね」
「はい、いってらっしゃい。今日の定食はトンカツと八宝菜だったわ」
「えー、迷いますね」

 壁面の鏡張りの収納扉を開いて、一番下の段から私物を入れた休憩バッグを取り出す。本来はカタログや伝票の控えなどのファイルを保管する為のスペースなのだが、一段目だけはスタッフの荷物置き場になっている。

 休憩中と書いた赤色のバッジを名札に取り付け、ビニールバッグを手にすれば、これから一時間だけ、束の間の自由時間。スタッフオンリーのプレートを潜り抜けてバックヤードに入ると、ふぅっと肩の力が抜けていく。朝から口角を上げっぱなしだった口元の筋肉が緩む。

 今日のような客数が少ない日には早めに休憩を回し始める売り場が多いから、13時半にもなると社員食堂も落ち着きを取り戻している。本日の定食をお知らせするホワイトボードも、トンカツ定食には『残り僅か』という注意書きが付いていた。

 トレイを持って総菜の中から出し巻き卵を選び、味噌汁とご飯を受け取る。そして、メインには迷った挙句に八宝菜の方へ手を伸ばす。最近ちょっと野菜不足気味な気がしたから。
 社員証を呈示して会計を済ませると、睦美は入口から遠い奥のテーブルに空席を見つけて座った。

 ブラインドが閉められたままの窓を背にした席は、食堂内全体が見渡せる。この時間帯は入って来る人よりも、休憩を終えて出ていく人の方が多い。徐々に利用者が減っていく様子を何となく眺めながら、白米の上に八宝菜を乗っけて口の中へ放り込んでいく。

 出し巻き卵をお箸で切って食べつつ、睦美は食堂の入口近くの席に見知った顔を見つけた。セミロングの髪を耳を出したハーフアップにして、持参したお弁当をテーブルの上に広げている。弁当の蓋の横に置かれているペットボトルはいつも同じメーカーの緑茶。一つ上の階で勤務する契約社員、柿崎香苗だ。

 睦美がこの店に配属される少し前に中途採用されたという香苗は、パート社員の平均年齢が異様に高いフォーマル売り場が担当だ。おばちゃんというよりお婆ちゃんに近いパートさんが多く、商品も黒々した物が大半な売り場は3階のレディースフロアの一番奥まったところで異彩を放つ。

 冠婚葬祭の葬の印象が強いフォーマル売り場だけれど、ブライダルシーズンにはパーティードレス、お受験シーズン前には濃紺のスーツなど、一年を通して何かしらフェアを開催していて、しかもそれぞれの客単価がやたらと高い。バッグやコサージュなどとのセット買いが当たり前だから、それらに関して必要とされる知識も多い。

 睦美も過去に一度だけ、以前の店でフォーマル売り場へヘルプに入ったことがあった。ただ普通に服を売るだけで良いと侮っていたら、「やっぱりウールと比べるとレーヨンのスーツは見劣りするかしら? でも、説明会の時期を考えるとウールは暑そうだし……」と、濃紺のスーツを見ていた客から質問された。お受験の面接で他の保護者と並んだ際、安っぽく見えないかという問いかけに睦美は即答できなかった。睦美にはハンガーに掛けられた濃い紺色のスーツはどれも同じようにしか見えない。さすがにポリエステル100%の特価スーツくらいなら見分けがつくが……。

 ――そもそも、説明会とか面接とかって、いつあんの?!

 客がそのスーツをどの季節に着ることを想定しているのかすら理解できず、曖昧に微笑み返して誤魔化すのが精一杯だった。幸い、その時はすぐに担当者が休憩から戻って来てくれたから何とかなり、後で近隣の幼小の見学会や説明会、受験時期についてのリストを見せてもらったが、国立と私立とでは全く違い、私立でも学校によってスーツや持ち物に傾向があると聞いて頭が混乱しそうになった。

 お受験スーツでこれなのだから、喪服になるともっといろんな知識が必要になってくるはずだ。例えば宗教上のマナーなど、付け焼刃な知識では十分な接客はまず無理だ。海外の映画などで見かけるベール付のトーク帽。あれは手袋もセットで着用しなきゃいけないとか、もうそんな細かいことまでは知らねーよって感じだ。

 そのヘルプに入って以降、普段は閑散としているのにやたら広く取られたフォーマル売り場のことを、睦美は一目置いている。物静かで上品なパートさん達の知識量は計り知れないのだ。

 そのフォーマル売り場で契約社員ながらもチーフを勤めている香苗は、黙々と食べていた弁当の蓋を閉じた後、ビニールバッグからスマホとイヤフォンを取り出していた。画面を横に傾けて何かの動画を見始めながら、弁当箱を赤いチェック柄の巾着袋に入れてからバッグにしまい込む。