季節商品の入れ替えに加えて冬商戦の準備と、最近はとにかく自分のことで精一杯だった。頭の片隅には香苗の体調を気遣う気持ちがあったが、何か行動に移せたかというとそうじゃない。
「まだ喉に違和感があるから、暇さえあれば不味い喉飴を舐めてる……」
風邪は治りかけているのに、商品説明で一日中酷使し続けているから喉の調子がまだ良くないらしい。香苗から届くメッセージは泣き顔のアイコン付きだった。「そっか、お大事にね」と送り返した後、睦美は次のイベントで演奏する楽譜をパラパラと捲る。秋にちなんだ童謡ばかり5曲。穏やかな楽曲ほど喉への負担が大きいし、不安がないと言えば嘘になる。
前日に電話打ち合わせした時の香苗の声が普段通りで、睦美は心底ホッとした。睦美のピアノはカラオケの音源での代用はできるけど、香苗の歌に代わりはないのだから。
現地集合で先に会場に着き、控室でメイク道具を広げていると、香苗が道具一式が入ったスーツケースを引いて部屋に入ってくる。マスクはしているが、顔色は問題なさそうだ。
「おはよー、もう平気なの?」
「うん、何とか……」
マスクを外し、スッピンに近い香苗も、睦美の横に座ってメイク道具を取り出す。
「今日は近くの幼稚園の子達も招待してるらしいよ。結構、大規模なんだね」
「うん、ここはいつもそう。お散歩がてら、みんなで歩いてきてくれるの」
「へー」
「いつもより大きい子達だから、反応はちょっと違うかもね。……んんっ」
香苗の言葉を聞いて、来る時に前を通った園の子達だろうかと、カラフルな園舎を思い浮かべる。と同時に、話してた後に「んんっ」と小さく喉を唸らせた香苗の顔を訝し気に覗き見る。
「やっぱ、まだ調子悪いんじゃない?」
本調子でないのは明らかで、そんな状態で普段通りに歌えるんだろうか?
結い上げたツインテ―ルにリボンを結んでいる香苗は、口では「大丈夫」を繰り返していたが、会話する声もどこか掠れ気味だ。
「でも、歌わないと……大丈夫、ギリギリまで喉飴を舐めてれば……」
香苗の言葉に、睦美はハァと大きく呆れた溜め息を吐き出した。香苗は何を聞いてもすぐに大丈夫と言ってしまうところがある。それは彼女の責任感の強さの表れなんだろうけれど……。
「とりあえず、一回合わせてみよ! 場合によっては、いろいろ考えなきゃいけないし」
「いや、でも……」
無理して歌う以外にはないとでも言いたげに、香苗が顔をしかめる。リンリンお姉さんに代役がいないのは、一人でやってきた時から身に染みて分かっている。かと言って、楽しみにしてくれている子供達を裏切ることもできない。
「いいからっ! 先に会場に行ってるよ」
衣装に着替え終えた睦美は、一足先に控室を出た。あまり良くない状況に、不安で手が震え始めるのをぐっと握り締めて抑えつける。
――ど、どうしよう……。
おそらくあの調子だと、途中で声が出ずに歌い切れなくなるはずだ。睦美にできることを必死で考える。
ステージ上に置かれたピアノを前に椅子の高さを調整していると、香苗が運営スタッフと挨拶を交わしながら会場入りしてきた。ステージ脇で渡されたマイクを手に、少し不安な表情になったのを睦美は見逃さなかった。
「とりあえず、一曲目からね」
香苗がこくんと頷き返したのを確認して、睦美は鍵盤に両手を添える。他のイベントでも何度か弾いた童謡だから、香苗も歌い慣れているはずだ。
「……――……」
掠れてあまり伸びない歌声に、その場にいた誰もが驚いて振り返る。睦美も曲の半分で手を止めて、ステージ中央で茫然と立ち尽くしている香苗に視線を送る。今、誰よりもショックを受けているのは、きっと香苗自身だ。
「むっちゃん、ごめん。どうしよう……」
無理矢理に咳き込んで、声を絞り出そうとしてみるが、そんなことで改善するわけもない。会場中がざわつき始める。歌のお姉さんが歌えないなんて、洒落にもならない。「ステージは中止?」という声がどこからか聞こえてくる。
焦りから顔色の変わっていく香苗に向かって、睦美は意を決して言い放った。きっと、これしかない。香苗はアラサーになって初めて出来た、大切な友達だ。彼女を守る為ならば、何だってできる。
「……分かった。私もピアノを弾きながら、一緒に歌うよ」
「え?」
「ソロは無理だけど、リンリンの声が出てないのを誤魔化すくらいはできるよ、多分」
最後の多分に自信なさが漏れ出ていたが、それ以外の方法が思いつかない。
「あと、曲も変更した方がいいよね」
「そ、そうだね……ごめんね」
「いいから、謝んないで。――やっぱ、行進曲が中心になるかな。勢いで何とかなりそうだし」
これまで演奏したことのある中から、ノリの良いものを選曲していく。急に仕切り始めた睦美のことを、香苗はきょとんと驚いた表情で見ていたが、しばらくして「ふふふ」と小さな声で笑い始める。
「笑うとこじゃないのに、ごめん。でも、一人じゃなくて二人で良かったなって、今しみじみ思っちゃって」
「そうだよ、二人でやってるんだから、頼るとこはちゃんと頼って」
「ありがとう」と嬉しそうに笑うと、香苗は睦美が新たに選んで並べた楽譜を覗き込む。お揃いのツインテ―ルがゆらゆらと揺れていた。
楽譜の横にマイクスタンドを置いて、香苗と一緒に歌い始めると、観覧スペースの子供達がわっと興奮し始めた。ピアノの伴奏だけなのに、二人の声が重なったことで、歌で表現する世界がぐんと大きく広がったようだった。透明感のある香苗の声と、少しキーの高い睦美の声。個性がぶつかって新しい音が生まれたような、そんな感覚。
音符を目で追いながら、ちらりとステージ中央に視線を向けると、同じタイミングで香苗もこちらを向いた。互いに目配せし、互いの声を補い合う。そして、二人の歌声を紡ぎ出す。
気付けば子供達の何人かも一緒に歌い始めていた。声が声を呼び、この場でしか聴くことのできない歌声へと変わる。
あんなに嫌いだったピアノ弾いていて、こんなに楽しいと思ったことは無い。
彼女と出会わなければ、ずっと嫌いなままだったピアノ。睦美にとって唯一無二の友は、ステージ中央でツインテ―ルを大きく揺らしながら微笑んでいた。
―完―
「まだ喉に違和感があるから、暇さえあれば不味い喉飴を舐めてる……」
風邪は治りかけているのに、商品説明で一日中酷使し続けているから喉の調子がまだ良くないらしい。香苗から届くメッセージは泣き顔のアイコン付きだった。「そっか、お大事にね」と送り返した後、睦美は次のイベントで演奏する楽譜をパラパラと捲る。秋にちなんだ童謡ばかり5曲。穏やかな楽曲ほど喉への負担が大きいし、不安がないと言えば嘘になる。
前日に電話打ち合わせした時の香苗の声が普段通りで、睦美は心底ホッとした。睦美のピアノはカラオケの音源での代用はできるけど、香苗の歌に代わりはないのだから。
現地集合で先に会場に着き、控室でメイク道具を広げていると、香苗が道具一式が入ったスーツケースを引いて部屋に入ってくる。マスクはしているが、顔色は問題なさそうだ。
「おはよー、もう平気なの?」
「うん、何とか……」
マスクを外し、スッピンに近い香苗も、睦美の横に座ってメイク道具を取り出す。
「今日は近くの幼稚園の子達も招待してるらしいよ。結構、大規模なんだね」
「うん、ここはいつもそう。お散歩がてら、みんなで歩いてきてくれるの」
「へー」
「いつもより大きい子達だから、反応はちょっと違うかもね。……んんっ」
香苗の言葉を聞いて、来る時に前を通った園の子達だろうかと、カラフルな園舎を思い浮かべる。と同時に、話してた後に「んんっ」と小さく喉を唸らせた香苗の顔を訝し気に覗き見る。
「やっぱ、まだ調子悪いんじゃない?」
本調子でないのは明らかで、そんな状態で普段通りに歌えるんだろうか?
結い上げたツインテ―ルにリボンを結んでいる香苗は、口では「大丈夫」を繰り返していたが、会話する声もどこか掠れ気味だ。
「でも、歌わないと……大丈夫、ギリギリまで喉飴を舐めてれば……」
香苗の言葉に、睦美はハァと大きく呆れた溜め息を吐き出した。香苗は何を聞いてもすぐに大丈夫と言ってしまうところがある。それは彼女の責任感の強さの表れなんだろうけれど……。
「とりあえず、一回合わせてみよ! 場合によっては、いろいろ考えなきゃいけないし」
「いや、でも……」
無理して歌う以外にはないとでも言いたげに、香苗が顔をしかめる。リンリンお姉さんに代役がいないのは、一人でやってきた時から身に染みて分かっている。かと言って、楽しみにしてくれている子供達を裏切ることもできない。
「いいからっ! 先に会場に行ってるよ」
衣装に着替え終えた睦美は、一足先に控室を出た。あまり良くない状況に、不安で手が震え始めるのをぐっと握り締めて抑えつける。
――ど、どうしよう……。
おそらくあの調子だと、途中で声が出ずに歌い切れなくなるはずだ。睦美にできることを必死で考える。
ステージ上に置かれたピアノを前に椅子の高さを調整していると、香苗が運営スタッフと挨拶を交わしながら会場入りしてきた。ステージ脇で渡されたマイクを手に、少し不安な表情になったのを睦美は見逃さなかった。
「とりあえず、一曲目からね」
香苗がこくんと頷き返したのを確認して、睦美は鍵盤に両手を添える。他のイベントでも何度か弾いた童謡だから、香苗も歌い慣れているはずだ。
「……――……」
掠れてあまり伸びない歌声に、その場にいた誰もが驚いて振り返る。睦美も曲の半分で手を止めて、ステージ中央で茫然と立ち尽くしている香苗に視線を送る。今、誰よりもショックを受けているのは、きっと香苗自身だ。
「むっちゃん、ごめん。どうしよう……」
無理矢理に咳き込んで、声を絞り出そうとしてみるが、そんなことで改善するわけもない。会場中がざわつき始める。歌のお姉さんが歌えないなんて、洒落にもならない。「ステージは中止?」という声がどこからか聞こえてくる。
焦りから顔色の変わっていく香苗に向かって、睦美は意を決して言い放った。きっと、これしかない。香苗はアラサーになって初めて出来た、大切な友達だ。彼女を守る為ならば、何だってできる。
「……分かった。私もピアノを弾きながら、一緒に歌うよ」
「え?」
「ソロは無理だけど、リンリンの声が出てないのを誤魔化すくらいはできるよ、多分」
最後の多分に自信なさが漏れ出ていたが、それ以外の方法が思いつかない。
「あと、曲も変更した方がいいよね」
「そ、そうだね……ごめんね」
「いいから、謝んないで。――やっぱ、行進曲が中心になるかな。勢いで何とかなりそうだし」
これまで演奏したことのある中から、ノリの良いものを選曲していく。急に仕切り始めた睦美のことを、香苗はきょとんと驚いた表情で見ていたが、しばらくして「ふふふ」と小さな声で笑い始める。
「笑うとこじゃないのに、ごめん。でも、一人じゃなくて二人で良かったなって、今しみじみ思っちゃって」
「そうだよ、二人でやってるんだから、頼るとこはちゃんと頼って」
「ありがとう」と嬉しそうに笑うと、香苗は睦美が新たに選んで並べた楽譜を覗き込む。お揃いのツインテ―ルがゆらゆらと揺れていた。
楽譜の横にマイクスタンドを置いて、香苗と一緒に歌い始めると、観覧スペースの子供達がわっと興奮し始めた。ピアノの伴奏だけなのに、二人の声が重なったことで、歌で表現する世界がぐんと大きく広がったようだった。透明感のある香苗の声と、少しキーの高い睦美の声。個性がぶつかって新しい音が生まれたような、そんな感覚。
音符を目で追いながら、ちらりとステージ中央に視線を向けると、同じタイミングで香苗もこちらを向いた。互いに目配せし、互いの声を補い合う。そして、二人の歌声を紡ぎ出す。
気付けば子供達の何人かも一緒に歌い始めていた。声が声を呼び、この場でしか聴くことのできない歌声へと変わる。
あんなに嫌いだったピアノ弾いていて、こんなに楽しいと思ったことは無い。
彼女と出会わなければ、ずっと嫌いなままだったピアノ。睦美にとって唯一無二の友は、ステージ中央でツインテ―ルを大きく揺らしながら微笑んでいた。
―完―