休日に大切な予定がある。それはいつ振りの感覚だろうか。無趣味な独身アラサーだった睦美は、仕事から帰った後も何となく過ぎていく時間を、ただ見送るだけの日々だった。
それが、食事を終えると真っ先に電子ピアノの前に座って楽譜を広げる。両手で夢中になって奏でるのは、子供達が好きなアニソンや童謡。ヘッドフォンから聞こえてくるのはピアノの音だけだったが、香苗の歌声を想像しながら演奏する。
ただテクニックや正確性を追い求めて弾いていた頃には感じなかった、音を楽しむということ。聞いてくれる子供達の顔を思い浮かべながら弾き続ける、優しいリズム。
香苗の誘いに乗ることに決めたのは、姪からの一言が大きかった。
「むっちゃんのピアノ、また観に行きたいなー」
幼い姪の可愛い言葉に、叔母バカの睦美には「任せて」と答えるしかできない。あの日以来、沙耶が玩具のピアノで遊ぶ日が増えたと姉から聞かされたら尚更。
「私はもう勘弁だけど、さーちゃんには習わせてみよっかな、ピアノ」
母が聞いたら卒倒するほど喜ぶ話だ。でも、「バァバの教室は駄目。あの人、身内にはめちゃくちゃ教え方が下手だから。逆にピアノ嫌いになるに決まってる」という里依紗の判断で、近所の教室を新たに探すつもりらしい。姉の判断に異論はない。
次にリンリンお姉さんが呼ばれたのは、商店街の子供向けステージだった。金土日の三日間のイベント初日だけの参加になるのは、デパート勤務という週末出勤がデフォな本業のせいだ。きっと土日に休みが取れる職種だったなら、もっと集客力のあるイベントに参加することもできただろうけど、香苗はそこまでガチでやるつもりはないらしい。さすがに睦美にもそんな度胸はない。
「ピアノは商店街にある楽器屋さんが貸してくれるみたいだし、毎年恒例のイベントだから音響関係の心配はないわ。あとは、むっちゃんの衣装はどうしよう? こないだ着て貰ったのでいい?」
「全然いいよ。リンリンので、サイズも合ってたし」
沙耶から『むっちゃん』と呼ばれていると話してから、なぜか香苗からも『むっちゃん』呼びされるようになった。確かにステージ上で、苗字で呼ばれるのも変だし、睦美の方も対抗して『リンリン』と呼ぶことにした。最初はむずがゆかったが、何度も呼び合っている内に慣れてきて何とも思わなくなった。友達と愛称で呼び合うなんて、本当に久しぶりだ。
商店街の一角に用意されたステージは、市民センターのそれよりも高くて、子供達は大きく見上げながら真下で飛び跳ねていた。
買い物途中で前を通る時にチラっと見ていく人もいたりと、この日にリンリンお姉さんを目にした人の数はどれくらいになるか想像もつかない。
リンリンお姉さんが歌う童謡は、子供だけじゃなく大人の耳にも心地良い響きがある。幼い頃に聞き慣れた歌は、殺伐とした日々にも優しさを思い出させる。ステージを遠巻きに眺めている人が、歌詞を一緒に口ずさんでいるのに気付いた時は嬉しくなった。
どんなに歳を取ろうが、かつては誰もが子供だった。だから、彼女の歌は誰に対してでも響くことができる。リズムに合わせて身体を揺らしながら、睦美はこの歌声をもっと強く輝かせたいと願う。自分の奏でるピアノの音で、彼女の歌声の魅力をもっと引き立てたいと。
10月に入ってからは、ハロウィンがらみのイベントに呼ばれることが続いた。仮装した小さなオバケ達を前に、睦美達も頬にカボチャのペイントシールを貼ったりと少し季節感を取り入れてみる。
その日のステージが終わった後、運営側スタッフと別室で打ち合わせていた香苗だったが、そちらからは割とすぐに戻って来た。控室のドアを開ける前、香苗が小さく咳き込んだことを、クレンジングシートを使ってメイク落とし中だった睦美は聞き逃さなかった。
「リンリン、もしかして調子悪い?」
「うーん、ちょっとイガイガするかな……でも、平気」
次のイベントは2週間後だから、まあその内に治るでしょと二人とも特に深く考えていなかった。そこまで長引く風邪も滅多にないし、と。
ところが、翌日に客を誘導する為に3階フロアに上がった睦美の目に、奥の売り場で接客中の香苗が、白色の不織布マスクをしている姿が飛び込んでくる。
――風邪、悪化してるのかなぁ?
心配にはなったが、その日は昼休憩の時間も合わず、スマホへメッセージを送るだけしかできなかった。けれど、『ちゃんと薬飲んでるから大丈夫』という返信にすっかり安心しきっていた。
それからしばらく、互いの公休日が連続したり、休憩時間にも食堂に一緒になることがなく、直接顔を合わせることがなかった。冬商戦を目前に控えた時期というのもあったし、フォーマル売り場は七五三関連のスーツフェアもあって、チーフである香苗は特に忙しいみたいだった。
「ヤバイ。喉がずっと痛いままだ……」
いつも大丈夫とか平気とかしか返って来ないメッセージが、初めて弱音を吐いてきた。病院で処方してもらった薬でそれ以外の症状は改善されたものの、喉だけは違和感が続いているのだという。
「こういう時って何だっけ、蜂蜜大根とか?」
「蜂蜜はあるけど、大根無いわ……帰りに買ってく」
メッセージと一緒にレシピサイトのリンクを送ると、泣き顔のアイコンと共に返事が届く。さすがに次のコンサートまで3日しかないから、香苗もかなり焦っているようだった。
それが、食事を終えると真っ先に電子ピアノの前に座って楽譜を広げる。両手で夢中になって奏でるのは、子供達が好きなアニソンや童謡。ヘッドフォンから聞こえてくるのはピアノの音だけだったが、香苗の歌声を想像しながら演奏する。
ただテクニックや正確性を追い求めて弾いていた頃には感じなかった、音を楽しむということ。聞いてくれる子供達の顔を思い浮かべながら弾き続ける、優しいリズム。
香苗の誘いに乗ることに決めたのは、姪からの一言が大きかった。
「むっちゃんのピアノ、また観に行きたいなー」
幼い姪の可愛い言葉に、叔母バカの睦美には「任せて」と答えるしかできない。あの日以来、沙耶が玩具のピアノで遊ぶ日が増えたと姉から聞かされたら尚更。
「私はもう勘弁だけど、さーちゃんには習わせてみよっかな、ピアノ」
母が聞いたら卒倒するほど喜ぶ話だ。でも、「バァバの教室は駄目。あの人、身内にはめちゃくちゃ教え方が下手だから。逆にピアノ嫌いになるに決まってる」という里依紗の判断で、近所の教室を新たに探すつもりらしい。姉の判断に異論はない。
次にリンリンお姉さんが呼ばれたのは、商店街の子供向けステージだった。金土日の三日間のイベント初日だけの参加になるのは、デパート勤務という週末出勤がデフォな本業のせいだ。きっと土日に休みが取れる職種だったなら、もっと集客力のあるイベントに参加することもできただろうけど、香苗はそこまでガチでやるつもりはないらしい。さすがに睦美にもそんな度胸はない。
「ピアノは商店街にある楽器屋さんが貸してくれるみたいだし、毎年恒例のイベントだから音響関係の心配はないわ。あとは、むっちゃんの衣装はどうしよう? こないだ着て貰ったのでいい?」
「全然いいよ。リンリンので、サイズも合ってたし」
沙耶から『むっちゃん』と呼ばれていると話してから、なぜか香苗からも『むっちゃん』呼びされるようになった。確かにステージ上で、苗字で呼ばれるのも変だし、睦美の方も対抗して『リンリン』と呼ぶことにした。最初はむずがゆかったが、何度も呼び合っている内に慣れてきて何とも思わなくなった。友達と愛称で呼び合うなんて、本当に久しぶりだ。
商店街の一角に用意されたステージは、市民センターのそれよりも高くて、子供達は大きく見上げながら真下で飛び跳ねていた。
買い物途中で前を通る時にチラっと見ていく人もいたりと、この日にリンリンお姉さんを目にした人の数はどれくらいになるか想像もつかない。
リンリンお姉さんが歌う童謡は、子供だけじゃなく大人の耳にも心地良い響きがある。幼い頃に聞き慣れた歌は、殺伐とした日々にも優しさを思い出させる。ステージを遠巻きに眺めている人が、歌詞を一緒に口ずさんでいるのに気付いた時は嬉しくなった。
どんなに歳を取ろうが、かつては誰もが子供だった。だから、彼女の歌は誰に対してでも響くことができる。リズムに合わせて身体を揺らしながら、睦美はこの歌声をもっと強く輝かせたいと願う。自分の奏でるピアノの音で、彼女の歌声の魅力をもっと引き立てたいと。
10月に入ってからは、ハロウィンがらみのイベントに呼ばれることが続いた。仮装した小さなオバケ達を前に、睦美達も頬にカボチャのペイントシールを貼ったりと少し季節感を取り入れてみる。
その日のステージが終わった後、運営側スタッフと別室で打ち合わせていた香苗だったが、そちらからは割とすぐに戻って来た。控室のドアを開ける前、香苗が小さく咳き込んだことを、クレンジングシートを使ってメイク落とし中だった睦美は聞き逃さなかった。
「リンリン、もしかして調子悪い?」
「うーん、ちょっとイガイガするかな……でも、平気」
次のイベントは2週間後だから、まあその内に治るでしょと二人とも特に深く考えていなかった。そこまで長引く風邪も滅多にないし、と。
ところが、翌日に客を誘導する為に3階フロアに上がった睦美の目に、奥の売り場で接客中の香苗が、白色の不織布マスクをしている姿が飛び込んでくる。
――風邪、悪化してるのかなぁ?
心配にはなったが、その日は昼休憩の時間も合わず、スマホへメッセージを送るだけしかできなかった。けれど、『ちゃんと薬飲んでるから大丈夫』という返信にすっかり安心しきっていた。
それからしばらく、互いの公休日が連続したり、休憩時間にも食堂に一緒になることがなく、直接顔を合わせることがなかった。冬商戦を目前に控えた時期というのもあったし、フォーマル売り場は七五三関連のスーツフェアもあって、チーフである香苗は特に忙しいみたいだった。
「ヤバイ。喉がずっと痛いままだ……」
いつも大丈夫とか平気とかしか返って来ないメッセージが、初めて弱音を吐いてきた。病院で処方してもらった薬でそれ以外の症状は改善されたものの、喉だけは違和感が続いているのだという。
「こういう時って何だっけ、蜂蜜大根とか?」
「蜂蜜はあるけど、大根無いわ……帰りに買ってく」
メッセージと一緒にレシピサイトのリンクを送ると、泣き顔のアイコンと共に返事が届く。さすがに次のコンサートまで3日しかないから、香苗もかなり焦っているようだった。