今日のような客数が少ない日には早めに休憩を回し始める売り場が多いから、13時半にもなると社員食堂も落ち着きを取り戻している。本日の定食をお知らせするホワイトボードも、トンカツ定食には『残り僅か』という注意書きが付いていた。

 トレーを持って総菜の中から出し巻き卵を選び、味噌汁とご飯を受け取る。そして、メインには迷った挙句に八宝菜の方へ手を伸ばす。最近ちょっと野菜不足気味な気がしたから。社員証を呈示して会計を済ませると、睦美は入口から遠い奥のテーブルに空席を見つけて座った。

 ブラインドが閉められた窓を背にした席は、食堂内全体が見渡せる。この時間帯は入って来る人よりも、休憩を終えて出ていく人の方が多い。徐々に利用者が減っていく様子を何となく眺めながら、白米の上に八宝菜を乗っけて口の中へ放り込んでいく。

 出し巻き卵をお箸で切って食べつつ、睦美は食堂の入口に見知った顔を見つけて手を振る。お弁当が入った巾着を大事に抱えて、香苗が急ぎ足でこちらのテーブルへと歩いてくる。

 香苗はパート社員の平均年齢が異様に高いフォーマル売り場が担当だ。おばちゃんというよりお婆ちゃんに近いパートさんが多く、商品も黒々した物が大半な売り場は3階のレディースフロアの一番奥まったところで異彩を放つ。

「三好さん、昨日はありがとうございました」

 目の前の席に座りながら、香苗が少し照れたような笑みを浮かべて言った。具体的に何をと言わず、口調も以前と同じ他人行儀な感じなのは、真後ろのテーブルに他の売り場の社員が居たからなのだろう。
 だから睦美も調子を合わせるように、「いえ、こちらこそお邪魔しました」と微笑み返すだけにとどめた。
 しばらくは他愛もない会話をやり取りしながら食事していた二人だったが、後ろの集団が席を立ったのを皮切りに、一気に身を乗り出して喋り始める。

「ずっと疑問だったんだけど、リンリンって名前はどこから?」
「初めの頃はあまり踊れなくて、鈴を振って誤魔化してたからね」
「あー、そっちかぁ。私はてっきり、衣装にチャイナ服でも着てたのかと――」
「さすがにチャイナ服で童謡はないでしょ……アニソンはいけそうだけど」

 それなら髪形もツインテ―ルじゃなくてお団子にしなきゃだよね、とふざけ合う。お互いに想像力があまりにベタ過ぎて、吹き出してしまう。年齢もあまり違わないから、思っているよりも気が合うのかもしれない。少なくとも、佐山千佳よりはよっぽどだ。
 睦美がそう思ったのと同じタイミングで、香苗も思い出したように口を開いた。

「そう言えば、また佐山さん来てたね。さっきちらっと見かけたけど」
「うん、うちにも来た。雨だから子供を遊ばせに来たって言ってたよ。もしや、そっちにも?」
「ううん、うちは避けられてるみたいで一切寄り付かないよ。前に来た時にパートさん達からもみくちゃにされて懲りたっぽくて。ほら、年配の人達って赤ちゃんが好きだから」

 フォーマルのパートさん達を避けるように、千佳は3階を訪れても売り場に近づいて来ないのだと言う。子連れで足を踏み入れるには、あそこは危険地帯だと認識されているらしい。おそるべし、フォーマルのおば様達。

「そんなことより、昨日は何の準備もないままだったけど、実際にやってみてどうだった?」
「いや、今思い出すだけでも顔面蒼白だよ……練習不足で人前で……」
「うーん、そうかなぁ? 私はすごく心強かったし、やっぱり一人でやるよりいいなって思ったし、何よりも子供達の反応がこれまでで一番良かったと思うんだけど」

 定食を食べ終えて、「ごちそうさまでした」と手を合わせた後、睦美はふるふると首を横に振った。思い返せば返すほど、音の外れた演奏が頭の中で再生され、恥ずかしさに苛まれる。

「観てくれてた姪っ子さんは、どうだった?」
「……沙耶はめちゃくちゃ喜んでくれてた」
「でしょ? あの規模で完璧を求めてくる人なんて、誰もいないわ。そもそもみんな、タダで観に来てるんだし」

 「いや、でも運営元からは報酬が発生している訳だし……」とモゴモゴ言う睦美のことを、香苗はとても優しい目で見ていた。昨日のステージが終わった後、約束通り折半でと無理矢理に香苗から押し付けられた出演料。小さなイベントだったから社食の定食5日分くらいだったけれど、あんなぶっつけ本番の素人丸出しの演奏でお金を受け取っていいのかと悩んだ。

「もし少しでも楽しかったって思ったのなら、一緒にやってもらえると嬉しいんだけどな。正直、私も一人でやるにはそろそろ限界って言うか……」
「え、柿崎さんっ、歌のお姉さんを辞めるつもりなの?」
「ほら、子供達にお姉さん呼びさせるのも限度ってものがあるでしょ? さすがに親の年齢を大幅に超えるようになったら――」

 言われて思い返してみれば、これまでの2回のイベントで出会った親子連れの中には明らかに睦美より若い、二十代前半という母親も少なくはなかった。
 残酷なことだが、『お姉さん』という呼び名には使用期限があるのだ。

「今のところは食べる物に気を付けたり、メイクで誤魔化してるけど、それもいつまでもつか……」

 自虐的に笑ってみせた後、香苗はペットボトルのお茶を口にする。彼女がいつも手作りのお弁当を持って来ているのは節約などではなく、美容と健康を考えて食生活に気を配っているからだと知り、睦美は感嘆の溜め息をつく。

「柿崎さんって、すごい。私、そういうの考えたことなかった」
「それは三好さんがまだ二十代だからよ」
「え、でも、柿崎さんとは二つしか違わないけど?」
「そう思うでしょ、でもね、30過ぎると世間の目はビックリするくらい変わるの。紹介とかお見合いとか、そいうのもピターッて無くなるし、マッチングアプリだって一気にマッチしなくなるんだから……」

 婚活なんて興味がないと思っていた香苗の口からアプリの話が出て来て、睦美はぎょっと目を剥く。その反応に「今はやってないから」と慌てて否定し始める年上の同僚の姿に、思わずふふっと笑いが込み上げきた。
 睦美が思っていた以上に、柿崎香苗という人はとても親しみやすい女性なのかもしれない。もう孤高の人のイメージは欠片も残っていない。

「だから、私一人ではもう限界だし、三好さんに一緒にやって欲しいって話がしたかったんだけど……もうっ、余計なことばっか言っちゃった」

 言い訳のように呟いてから俯いた香苗は、ハーフアップで露呈している耳までが真っ赤に染まっていた。よっぽど恥ずかしかったらしい。