軽やかな曲が控えめに流れ続ける店内。朝から雨が降っているせいで、客足はかなり鈍い。雨天だからと傘の売れ行きが良いという訳でもない。なんなら、持ち歩いている傘のせいで手が塞がってしまっている分、商品を手に取って貰える率が下がっているくらいだ。

 陳列を整えながら、枚数の減っている商品をチェックして、棚下の引き出しからストックを補充していく。ディスプレイ用のハンドバッグにふんわりと結ばれたスカーフの向きを直し、その鮮やかな橙色のバッグの値札を覗き込む。2万5千円。シンプルなデザインながらもなかなかのお値段が付いた商品は、鞄売り場から一時的に借りた物だ。勿論、こちらも客からの要望があれば販売可能。

 睦美がこの服飾売り場に配属されてから、もうすぐ2年になる。その前は別の店舗で5年間、やはり同じ服飾売り場にいた。以前ここにいた女性社員が結婚退職したことで移動してきたのだが、その夫は今も紳士服売り場に勤務しているということもあり、退職したはずの前任者の出没率はかなり高めだ。
 今日のような雨の日は特に。

「お疲れさまでーす。わ、もう冬小物の入荷が始まってるんだー。今年はちょっと早めなのかなー」

 背後から甲高い甘えた声がして振り返ると、ベビーカーを押した女性が売り場内を見回していた。小柄でぽっちゃり体型の女性は睦美へ向かって、人懐っこい笑顔を浮かべている。淡いピンクのカットソーに黒のジャンパースカート、ローヒールのショートブーツを合わせ、ベビーカーで眠っている1歳児とはカットソーのカラーをリンクさせている。

「あ、佐山さん、お久しぶりー。そうかも、最近はシーズン商品の入荷はかなり早まってるかな。今日もプレイルーム?」
「そうなのー。雨で公園には行けないでしょ。でも、日中にしっかり遊ばせないと夜なかなか寝てくれなくって……」

 子供服売り場に併設された遊び場に連れて来てみたが、移動中に寝てしまったと呆れ笑いを浮かべている。子供が眠っている内に店内をベビーカーを押しながら見て回っているらしいが、大きく目立ち始めたお腹が少し重そうだ。

 社内研修でも何度か顔を合わせたことのある佐山千佳は、同じ29歳だけれど短大卒だから睦美より入社は2年早い先輩になる。ここでの引継ぎでそれなりに親しくはなったが、本音を言えば実はちょっと苦手だ。

「二人目が生まれたら、しばらくは家に籠り切りになるでしょ。今のうちにいっぱい走り回らせてあげたいんだよねー」

 膨らんだお腹を、千佳が片手で擦って見せる。年内には生まれてくるという二人目の性別は男の子らしい。ベビーカーの中でスヤスヤ寝息を立てている娘は、目を閉じていても父親似なのがよく分かる。やや上向き気味の鼻に薄い唇、ゲジゲジと太い眉。

 売り場を見回して「懐かしいなぁ」と言いながらも、今の生活の方が幸せだという雰囲気を醸し出してくる。子供が手足を動かす度に、「起きたのかな?」とベビーカーの中を覗き込んで、はだけかけたガーゼケットをかけ直してやる。

 千佳の行う仕草全てにイラっとくる。そこまで仲良くもないのに、店に来る度に必ず声を掛けてきて、子供や結婚生活の話を聞かされる。来年には三十路に突入するのにいまだ独身で浮いた話すら無い睦美のことを、小馬鹿にするかのような結婚マウント。

 「子供は二十代の内に産みたかったから、二人目はギリギリ間に合いそう」なんてことを、わざと睦美にも聞こえるように言っていたことがあった。勿論、腹は立ったけれど、対抗して誰かと結婚する予定はないし、そんな面倒なことはしたいとも思わない。また一から恋愛を始めてという、結婚へ続くその工程が煩わしい。

 別にこの仕事が大好きだから定年まで続けたいという訳でもない。仕事は仕事。生活費を稼ぐ為の手段でしかない。やりがいや生き甲斐とは別次元のものだ。
 かと言って、何か没頭できる趣味も無い。高尚な目標を抱いている訳でもない。退屈で平凡な刺激とは無縁の毎日。このままダラダラ生きて、気付いた時には何となく死んでしまうんだろうか。

 先に昼休憩に出ていた小春が透明の休憩バッグを手に戻ってくると、千佳は慌てたように売り場から離れていった。
 主婦パートの小春はかなりの古参で、この2階フロアの中では婦人靴売り場のチーフに次いで勤務歴が長い。千佳は彼女に何か弱みを握られているのか、小春が売り場にいる時は露骨に避けているようだった。

「あら、またあの人来てたの?」

 逃げるように去っていった千佳の後ろ姿に、小春が呆れ笑いを浮かべている。38歳で中学生の子供がいる小春も元々はこのデパートの正社員だったが、産休育休後に時短勤務に切り替えたという大ベテラン。彼女には千佳のマウントは一切効かない。

「雨だから4階のプレイルームで子供を遊ばせるって言ってましたよ。――じゃあ、私も休憩いただきますね」
「はい、いってらっしゃい。今日の定食はトンカツと八宝菜だったわ」
「えー、迷いますね」

 壁面の鏡張りの収納扉を開いて、一番下の段から私物を入れた休憩バッグを取り出す。本来はカタログや伝票の控えなどのファイルを保管する為のスペースなのだが、一段目だけはスタッフの荷物置き場になっている。

 休憩中と書いた赤色のバッジを名札に取り付け、ビニールバッグを手にすれば、これから一時間だけ、束の間の自由時間。スタッフオンリーのプレートを潜り抜けてバックヤードに入ると、ふぅっと肩の力が抜けていく。朝から口角を上げっぱなしだった口元の筋肉が緩む。