イベント開始の時間になり、会場からは親子連れの賑やかな声とちびっ子達が走り回る足音が響き始める。初対面のお婆ちゃんに任せてしまった沙耶のことも気にはなるが、今の睦美はそれどころじゃない。

「ど、ど、ど、どうしよう……今日って、どのくらい観に来てるの?」

 緊張は感じにくいタチだと思っていたけれど、ものすごい勢いで心臓が鼓動を打ってるのが分かる。自分でも気づいていないくらい頭はパニック状態なのか、職場モードのですます口調は消え去り、完全なため口になっていた。言葉を気にする余裕なんてどこかへ吹っ飛んでしまっている。香苗も睦美に合わせるように、「こないだよりは少ないから平気だって」と気さくに話してくれる。

「こういうのは、楽しんだもの勝ちなのよ」

 そう笑顔で言われて控室を先に送り出された後、睦美は会場の入口扉の前でイベント司会者が開演の挨拶しているのを聞いていた。打ち合わせ通り、次の地域イベントの紹介などが始まったタイミングで、そっと扉を押し広げてその隙間から室内に入り込む。そして、スタッフに誘導されながらステージ上のピアノの前に座った。

 睦美のことをリンリンお姉さんだと勘違いした一部の子供達が早くも騒ぎ始めたせいで、司会者が早口で残りの告知事項を切り上げる羽目になった。さすがにこの登場の仕方は無かったかもしれない。派手な格好をしているのに黒子みたいにコソコソした登場は変だったかも。

 司会者がマイクをスタンドに戻したの確認して、睦美は目の前の鍵盤へと指を落とす。これまで静寂を保っていた真っ黒の楽器の音に、一瞬驚いた子も多かったが、その音がいつも見ている人気アニメの主題歌だと気付くと、立ち上がってステージの前へと集まってくる。一斉にソワソワし始めた子供達の瞳が、期待に満ちたキラキラした光を放ち始めた時、入口扉からはマイクを手にしたリンリンお姉さんが登場する。

「みんなー、こんにちはー」

 透き通った声が、子供達へと元気に呼び掛ける。彼女がステージの中央へ辿り着いたのを確認すると、睦美は鍵盤を弾く指を少し強めた。
 香苗の歌声に合わせて指を動かしているつもりだったが、香苗の方が睦美のリズムに合わせてくれていたのかもしれない。どちらともなく寄り添って、時々はお互いに目配せしながら、歌声をピアノの音に乗せていく。

 一人きりで弾き続けることはとっくに飽きて、苦痛に思うこともあった。でも、自分が奏でる音に合わせて誰かに歌ってもらうのは生まれて初めてだ。スピーカーを通して届く香苗の声は、今この時を楽しんでいるのが伝わってくる。そして自分の奏でている音もそれに近い。

 「楽しんだもの勝ち」香苗はさっき、控室でそう言っていた。なら、今の睦美は紛れもなく勝者で。ステージ前で飛び跳ねて一緒にアニソンを口ずさんでいる子供達も皆、もれなく勝ち組だ。
 リンリンお姉さんの真正面で、沙耶がツインテ―ルを揺らし、はしゃいでいるのが視界に入ってくる。込み上げてくる満足感が全身を覆っていくのを感じた。

 元気なアニソンですっかりステージに惹き込まれた子供達は、2曲目からの童謡も二つの瞳を煌めかせながら聞き入っている。睦美は自然と身体がリズムに合わせて揺れているのに気付く。楽曲そのものを楽しみながら弾けている証拠だ。

 目の前で活き活きと歌うリンリンお姉さんのことを、子供達は夢中になって見上げている。そして、その子供の姿を後ろから見守っている親達の満足そうな表情。親子の貴重な思い出作りに関われたと思うと、とても誇らしい。

 残りの3曲を弾き終わるのも、あっという間だった。自分が弾くピアノに香苗の歌声が合わさることが、とても楽しくて、面白くて。ずっと興奮したまま、「じゃあ、またねー」と彼女がステージを去っていくのをピアノの前から見送った。

 その後、登場した時と同じようにスタッフの誘導で睦美もステージを下り、会場の外へと出ていく。廊下を歩いて隣の控室の扉を開くと、先に戻っていた香苗が両腕を広げて待っていた。睦美は何も言わず、そのまま香苗の身体を抱きしめる。

「ごめん、いっぱい弾き間違ったかもー」
「全然、全然。すごく良かった! めちゃくちゃ歌いやすかったー。三好さん、ありがとう!」

 互いにぎゅーっと力を入れて、身体を抱きしめ合う。傍から見たら、いい歳して何やってんのという光景だろうが、今この感動を伝え合うにはこれしかない。全身全霊でステージが無事に終わったことを称え合う。

「ほんと、スピーカーが使えないってなった時、どうしようかと思ってたんだけど……マイク無しとか、本当に終わったって……」
「私も、勢いでとんでもない提案しちゃったって……」

 「でも楽しかったー」という二人の声がハモる。ようやく身体を離した時、お互いに顔を見合わせて吹き出した。涙と汗とでメイクはボロボロに崩れ、とんでもない顔になっていたのだから。

「リンリンお姉さんが、柿崎さんに戻ってるよー」
「三好さんこそ、ピアノのお姉さんはどこ行ったの?」

 控室内に、アラサー達の笑い声が響き渡った。